何となく、嫌な予感がした。
LINEの通知が10件、そのうち6件はバイト先の先輩からだった。恐る恐る、トークを開いてみた。冷や汗が一滴、画面に落ちる。
『マサシー(17:30)』
『マサシどーしたー(17:42)』
『はよこーい(17:46)』
『始まるぞー(17:55)』
『起きてるかー(18:05)』
『お前休むなら連絡入れろ。いい加減過ぎるわ。俺1人で居ても人手足りないから帰れって言われて、今日のイベントは中止になったぞ。お前のせいで出演者とか、めっちゃ迷惑かかったんだけど? とりあえずこれ見たらすぐ連絡して詫び入れろよ(19:42)』
——は⁉︎
ぼくは頭が真っ白になった。午後5時から、ライブハウスでのバイトがあったことをすっかり忘れ、完全にすっぽかしてしまったのだ。しかも今日は大物アーティストを迎えた大事なイベント日。——ぼくの大バカヤロウ! スケジュール帳に書き忘れていた自分に、腹が立った。
「うそだろ、そんな……」
ぼくはしばらく呆然としていたが、今からでも行かなければと、慌てて乱暴に洋服タンスを開けた。しかし、時計を見れば時刻はすでに午後9時50分。バイト先に着くまでは、どうしても1時間はかかる。今から行ったとしても、閉店時間を過ぎてしまう。——詰んだとは、こういうことを言うのだ。
「兄貴、バタバタうるさい。勉強中だから静かにしてくれ」
弟のサトシが苛立ってドアを開け、文句を言ってきた。が、ぼくはそれどころじゃなかった。
先輩から再び電話がかかってきたが、ぼくは出ることが出来なかった。木琴のあの軽快な着信音が、今は地獄の協奏曲として部屋に響き渡る。何でだ、何でこんな大事なイベントに限って予定ミスるんだ……。
〝クビ〟
悪夢の2文字が、脳裏に浮かんだ。そんな……、嫌だ。絶対嫌だよ。今のバイトを失ったら、ぼく、この先どうすればいいんだ……。ちゃんと仕事をこなすことが出来ず、先輩から疎まれながらも、何とかしがみついたバイトなのに。
気が重く、とてもバイト先に謝罪の連絡ができるような状態ではなかった。叱責に耐えられるメンタルは、もうない。このミスの責任は、どう取らされるのだろうか。やっぱりクビになってしまうのだろうか。
ぼくは、ひたすらに自分自身を責めた。
「……またやらかした。ダメな奴だ。ぼくはダメな奴……。本当にダメだ。死んだほうがいい……。やだよ、また嫌な怖い気持ちが押し寄せてくる…。助けて……」
気付くとぼくは無意識に自分の頬を引っぱたき、髪を引っ張り、腹をぶん殴っていた。痛い、辛い、苦しい。それでも容赦なく着信音は、鳴り続ける。
「やだよ……。う、うわあああ……!」
「……ねえ、ねえ! 大丈夫⁉︎」
——どこかから、幼い子供の声が聞こえた気がした。ぼくは本棚にある絵本が目に入った。表紙には、青いキャップをかぶった笑顔のねずみの子供が描かれている。絵本の方から、声がした気がしたんだ。
「……え?」
「ねえ、おにいちゃん、だいじょうぶ?」
確かに聞こえた。ぼくは本棚の方を確かめようとして立ち上がったが、途端に周りが真っ暗になり、同時に頭を誰かに撫でられているような不思議な感覚になった。——五感が研ぎ澄まされ、木と土の匂いがしてきた。微かに、コオロギの鳴く声が聞こえてくる。
「ねえ、マサシ兄ちゃん、大丈夫? ずっとうーんってうなってたよ?」
「あ、え、うん……? あれ、ここは……」
段々と視界が晴れる。ぼくは周りを見渡してみた。
——間違いない。ここは、絵本の中のねずみたちの世界。チップくんたちのいる、9匹のねずみたちの家だ。
さっきからぼくに声を掛け、頭を撫でていたのは——隣で寝ていたミライくんだった。
「マサシおにいちゃん、こわいゆめみてたんでしょ」
ミライくんが笑いながらそう言うと、ぼくは安心して思わず大きなため息をついてしまった。幻なんかじゃない。ここは優しいねずみたちの住む、温かくて平和な世界だ。
「はあ……。夢だったか……」
ぼくは自分のほっぺをつねってみた。——確かな感覚がある。ねずみたちの世界こそが現実世界であり、さっきまで見ていたのは、束の間の悪夢だったと、ぼくは確信した。
「マサシ兄ちゃんがあんしんしてねられるように、こんどはぼくがこもりうた、うたってあげるね」
「……うん。ありがとう、ミライくん」
ミライくんは再びぼくの頭をなでながら、ねずみのおかあさんのこもりうたを歌ってくれた。
「つきがみているもりのなか♪よいこはおやすみいいゆめを♪……」
末っ子だけど、お兄ちゃん気質のミライくん。まさかぼくの方が子守をされるなんて思ってもみなかった。でもその高く可愛らしい歌声は、ぼくの心をじんわり癒してくれた。ぼくを苦しめた悪夢が、ミライくんの歌と共に夜の闇に溶け、消えていく。
「ミライくん、上手だね。ゆっくり眠れそうだよ」
「そお? じゃあもっとうたってあげる」
「ミライくんは眠たくないの?」
「だいじょうぶだいじょうぶ。マサシおにいちゃんがねむったら、ぼくもねむるからね。……つきがみているもりのなか♪……」
「……ありがとう、ミライくん」
子守唄のとおり、窓からはまんまるのお月様がぼくらを見ていた。優しく、微笑みかけるような光。小さな手でぼくの背中をトントンとしながら、ミライくんは子守唄を歌ってくれた。
ぼくは安心感に満たされ、すぐに眠りについた。
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