若干腫れてはいるものの、濡れた手巾で顎を冷やす常葉先輩。
その隣で、またもや小さくなった秋仁さんが胸を張った。何故得意げなのだろう。
「つまり、鳴沢秋仁と氷川秋仁が同一人物だから、氷川秋仁の友人である常葉遙君になら、って話なのさ!」
常葉先輩は暫く唸った後、苦笑いをする。
「えっと……ごめん、秋仁、その…知ってた」
「なんで!?」
「においが同じ…?だからだな。気付いてない振りをしなくていいなら、このままで話をさせてもらう」
「気付いてない演技をされてたのか……」
落胆する秋仁さん。特別何か香水をつけているという訳でもないので、まさか匂いで判別されるとは予想していなかったのだろう。
電子装備持ちは時々、モチーフになった動物の能力が一部強化される事がある。
常葉先輩は狼の電子装備だ。恐らく嗅覚が強化されていると推測されるが、それでも人より鼻が利く程度の強化の筈。
人を嗅ぎ分けるというのは少々常軌を逸している気はするが、理不尽の権化が目の前に居る訳だし、ありえなくもないか。
「同一人物だと知ってるなら、なんで条件を呑んでくれないんだい?」
「その事情を知らない人間はどう思うかだ。理由なく結べば『花鳥風月』は他のチームから同条件で結ぶように言われるだろうし、結ばないとなると『Cry thunder』は何か弱みを握ったと噂されても仕方ないだろ」
「そっか……なら、遙と恋人関係にあります!って鳴沢秋仁が公言しちゃえば問題解決?」
「お前は良くても俺は良くないんだが?」
「そのまま名実共に恋人になれたら嬉しいんだけど!」
「それは何度も断っているはずだ」
むう、と膨れる秋仁さん。一体『氷川秋仁』は『常葉遙』先輩と、どんな関係なのだろう。
しばらくウンウン唸ったあと『鳴沢秋仁』は閃いたかのように笑顔で提案した。
「この鳴沢秋仁と同等に渡り合って試合をしたから。とか、どう?」
「お前って時々、嫌なくらいに上から目線だよな」
「実際、世界最強ですし」
「それもそうか」
常葉先輩がペンを手に取った瞬間、秋仁さんが呟いた。
「……それから、何か、こう…忘れてるような気がするけど、初めて盟約を結んだわけじゃ、ないと思うんだ」
常葉先輩は少し驚いた顔をしたあと、何も言わずに署名した。
『Cry thunder』のチームエリアは『花鳥風月』のチームエリアに比べると、物も少なければ仮想空間もそこまで割り当てられているという訳ではない。
1軍としての継続年数や戦績にもよるらしく、無料で選択可能な備品ひとつにしてもランクは違い、盟約締結後は必然的に『花鳥風月』のチームエリアで昼食をとることが多くなった。
常葉先輩まで揃うことはあまり無いが、それでも全員揃う時間を少しだけ楽しみにしている自分がいる。
昼食をただ取って雑談するだけでなく演奏する楽曲についても話はしているから、きっと演奏できることに対して楽しみなのだろう。
僕の性格上、他人との交流を喜んだことは無いはずだ。
尭音とふたりで残りのメンバーを待っているときだった。
「なあ、夏樹はスキル選択どうする?」
いつも我が道を行くというような、迷いなんて無さそうな悪友から相談を受けた。
「尭音なら何でも上手くこなすでしょ」
「そうなんだけど、チーム戦みたいな所あるじゃん?やりたいものが被ったりさ、1年では先輩から良い目をされないスキルとかありそうで」
「尭音ってたまに小心者だよね」
「俺ってお前の中でどんな存在なんだ?」
「鬱陶しい連れ…?」
「せめてどこかオブラートに包んでくれ…」
「注文が多い」
「まあ、外面の夏樹より今の方が俺は好きだけどな」
「生憎、そういう趣味は無いんだけど」
「俺もねぇよ」
どうでもいい会話をしていると、彩乃と豊橋さんと常葉先輩がやってきた。
きょとん、と首を傾げる彩乃。ちょっと可愛い。
「お邪魔しちゃいました?」
「大丈夫、しょうもない話してただけだから」
軽く隣の椅子を引くと、当然のように彩乃が座った。
一度豊橋さんが悪ふざけで僕の隣に座った時、珍しく彩乃が本当の意味で不機嫌になってしまったので、それ以来軽く定位置が決まった。
ちなみにテーブルも椅子も、無駄に広いチームエリアの一部を使って秋仁さんが設置してくれたものであり、僕らが集まって食事をする以外の用途では滅多に使われることがない。
尭音が口をとがらせた。
「元々は真面目な話をしてたんだぜ?」
弁当を広げながら、彩乃が笑顔で訊ねる。
「それはそれは。どんなお話ですか?」
「スキル選択を何にするかっていう。真面目な話だろ?」
「尭音が言うと信憑性に欠けますね」
「そんな……」
若干不憫に思えたので「最初はそんな話してたよ」多少は庇ってやろう。
「あら、失礼しました。尭音はよく周りとのバランスをどうするかで迷っている印象があります。そう、例えば──」
彩乃が少しだけ空を見た。
「──例えば、上級生がやることが多い役割をやってみたいとか、そういった時に」
尭音の表情が凍りつく。ちらりと常葉先輩の顔色を窺った様にも見えた。
「彩乃って勘が良すぎて怖い」
「これくらい、令嬢としての基本ですから」
彩乃は普段、庶民の僕らに合わせてくれているが、本来は物凄いお嬢様だ。
相手の考えの先の先を読む事くらい容易いのだろう。その技能は恐らく、戦況を分析する能力に向けられればBクラスの枠では収まらないはず。
「あ、ちなみに私は《騎士》をやりたいです。良いですよね、常葉先輩」
「………ん?」
突然名前を呼ばれ、状況を読み込めていない先輩。きっと半分流して聞いていたのだろう。
「スキル選択です!常葉先輩が《司令塔》でしょう?なら、《騎士》は空くわけです!私がやります!」
若干興奮気味の彩乃に、常葉先輩が申し訳なさそうに微笑んだ。
「えっと…俺、《騎士》以外は出来ないから、その……《司令塔》は取れない。一応、通常通信で工夫次第では問題なく戦闘可能だ。だから、その、好きな役割をやるといいと──」
常葉先輩の言葉が終わらないうちに、尭音が身を乗り出して声を上げた。
「マジすか先輩!!!俺が《司令塔》やってもいいすか!」
「え、えっと…やってくれるなら助かるかな」
「俺!《司令塔》やります!!」
「どうぞ。御坂さんも好きな役割をやるといい。その代わりといってはなんだけど、大泉君、御坂さん、ふたりにはお願いがある」
にこりと微笑んだ常葉先輩の『お願い』を聞いて、ふたりが目を丸くした。
そして、その『お願い』は少しだけ形を変えて僕にもやってくる。
「これは夏樹君、バンドのメンバーとして夏樹君にもお願いしたい。こちらは交換条件が無いから……断ってくれても良いのだけど。既に下の名前で呼ばせてもらっている訳だが、俺の事は『遙』と下の名前で呼んで欲しい。ふたりにお願いしたように、出来れば呼び捨てで」
「夏樹で。……さん付けで妥協して頂けますか」
「勿論」
とびきりの笑顔を向けられた。
その日の午後、電子戦争団体戦の授業時間。
小さな世界王者が腕組みをしながら唸っていた。
「多分だけど、遙は自分だけが先輩である事を少し気にしてたのかもしれないね。電子戦争そのものは夏樹達が先輩ではあるし」
「……僕らが先輩?」
「そうだよ。遙の中等学校での戦闘記録が一切ないって話は知ってるね?」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
「恐らく霞が非公開の設定方法を教えたんだろうけど、入学式当日だけはプロフィールは全部公開されていた。……今は、この学園での記録だけ見れるように調整されているね、ほら」
学生ならだれでも確認が出来る生徒情報一覧。秋仁さんが映し出した遙さんの情報を見る。
そこでは、戦闘記録はこの学園でのものだけが記載されており、他は非公開となっていた。
時折うっかりした人間が非公開にしたい情報を公開していることがあるが、電子戦争で使うプロフィールに関しては幼少期から半ば常識的になものとして意識しているものではあるため、秋仁さんの『教えた』という言い方と、プロフィールの隠し方に少し疑問を抱く。
もしかして、遙さんは、超後天性の電子装備持ちだったりするのだろうか?
通常10歳未満で発現する電子装備が、ごく稀に青年期になって発現するという、アレなのだろうか?
もしそうであるなら、遙さんは戦闘以前に普通に生活できるような身体では無い筈だし、精神崩壊していてもおかしくは無い筈。
特殊な《騎士スキル》の発動を行っていたのにも関係しているのだろうか。
「夏樹が考えてる程、難しい話では無いよ。ただ、あの子の考え方は電子装備持ちとしてはズレている。心当たりは、ない?」
あるといえば、ある。
この学園で、常日頃から生身で活動する人間はかなり珍しい。
「悪い子だとは思わないであげて欲しい。例えば、何か変な物食べようとしてたら止めてあげて欲しい。カエルとか」
「…は?」
カエルを食べる?その辺にいる、あの?僕、聞き間違えたかな?
「蛇を捕まえて食べようとして首に巻きつかれたり、虫を捕まえては口に入れちゃうし」
「電子装備持ちとしての感覚というよりは、人間として感覚が少しズレてない?」
あの遙さんから想像できなさすぎて聞き間違いを疑ってしまう。
にっと秋仁さんが笑顔を作ったのと、真冬さんと四季先輩が部屋に入ってきたのは同時だった。
真冬さんが「なんの話してたの?」会話に混ざろうとするが「男同士の秘密の話」秋仁さんはそれ以上何も言わなかった。
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