どうして、母にとがめられることなく父が離れにこもって淫蕩三昧の出鱈目を続けられたのかといえば、ひとえに、長女の喜美子……すなわち、ぼくのあね様……の養育に、母が四六時中かかりきりだったからで。
あね様は、よく言えば無垢で無邪気な、……俗な言いまわしを借りれば「頭のネジが2、3本たりない」ような……娘だった。
少し下ぶくれ気味の丸い顔に色の白さが優しくひきたち、真っ直ぐに前髪を切りそろえた長い黒髪が、愛くるしく品のいい日本人形をほうふつとさせた。
黒目がちの大きな目は、またたきが少ないためかいつでも潤んで輝いていたから、うっとりと夢見心地に見えるまなざしが、見る者によっては、ことさら妖しいほどの魅力だったようで。年ごろの若い男は、あね様と初めて出会うとき、たいていハッと息をのんで目を丸くするのだけれど、あね様が、片時も肌身はなさず抱きしめている赤ん坊ほどの大きさの童人形に調子っぱずれな即興の子守唄を聞かせてやりだすと、たちまち、さっと視線をそらしたものだった。
親の因果が子にめぐったものか、
「お喜美が"こんな"なのは、みーんな、てて様のせいなんだからねぇ」
と、母は、家中の奉公人や出入りの御用聞きやら行商なんかにまで大声で言いふらしていた。
そういう母だから、父に対するアテツケの気持ちもあったのだろう。あね様を大仰に不憫がって、異常なほどに溺愛した。
逆に、二人姉弟の末っ子たるぼくの方は、母の関心をまったく引かなかった。それどころか、はっきり疎まれていたとまで断言できる。
他愛のない粗相でも叱りとばされたし、あまりに容赦ない折檻を見かねた乳母やが、泣きながら止めに入ってくれたことも一度や二度ではなかったからだ。
上京して大人になるにつれ、鏡を見るたび気付くようになってきたが、ぼくの容貌は父の面影を色濃く受け継いでいるようだ。
それが母の不興をひとりでにかい、父に対する積年の恨みつらみをぼくにヤツアタリさせたのかもしれない。今となっては、どうでもいいことだが。
母のこれ見よがしな依怙贔屓にもかかわらず、ぼくは、あね様が大好きだった。
あね様もあね様なりに、ぼくを弟として大変に可愛がってくれた。
あね様は、「ぼぉー、ぼぉー」と呼びながら家中の廊下をパタパタと裸足で駆け回り、ぼくを探しだすと、もっぱら、うちの周りの竹林に連れだして遊びたがった。
ぼくの名前は、父の"喜世志"から一文字もらって、"世松"というのだけれど、乳母やや奉公人から「坊」と呼ばれることのほうが多かったから、あね様もそれにならったのだろう。
獣道をガサガサと、着物のそでを青々とした竹の葉に引っかかれながら分け入って、せいぜいやることといえば鬼ごっこだの、おままごとだの……。
あね様は、何百回でも何千回でも飽きもせず、そんな素朴で単調な遊びに心から夢中になれていたようだが、ぼくは、やがて麓の小学校に通うようになると、同級の悪童どもからもっとヤンチャで男の子らしい遊戯をけしかけられるうちに、それまでのあね様との遊びが急に退屈でつまらなくなってしまった。
「ぼぉー、お山にいってあそぼ!」
あね様がそう言って誘っても、ぼくは、小学校の課題やなんかを言い訳にしてことわるようになった。
すると、あね様は、……いつだって煌びやかな振袖を着せてもらい、一人前の娘らしい綺麗な化粧だってしているくせに……幼い子供のように仰向けに引っくり返り、右に左に身を転がしつつ、大事な童人形を畳にバンバン叩き付けながら、わんわん泣きわめきはじめたものだ。
「ぼぉーがお喜美とあそんでくれない! いじわる、いじわる! ぼぉーのいじわる!」
たちまち、血相を変えた母がタンッと勢いよく障子を開け放って飛び込んでくるなり、ものも言わずに勉強机からぼくを引きはがすと、母屋の裏にあった土蔵の三和土に放り込み、扉を閉め外から閂をかけてしまうのだった。
そのまま丸一晩、ぼくは、明かりもない真っ暗な土蔵に閉じ込められたものだ。
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