次の朝、いつもどおり小学校に向かう車の後部座席の真ん中に、ランドセルをしょったままチンマリと乗っかったぼくは、運転席の背後にしがみつくように身を乗り出し、運転手の耳元に向かっておそるおそる問いかけた。
「ねぇ、ねぇ、さくさん。あのさぁ、あのねぇー」
「なんだい、坊? 妙にモジモジして」
「あのさぁ、……"よのさん"って、誰なん?」
朔太郎は、勾配のきつい峠道をあぶなげなく軽やかにハンドルをさばきながら、敵もさる者いつもどおりニコニコと、人好きのする涼しい容貌に似合いの爽やかな笑顔を後写鏡の中に返した。
「やぶからぼうに、おかしなことを。"よのさん"だって? そんな人知らないなぁ、俺は」
「そんなんウソだい。しらばっくれたってダメだよう! ぼく、ゆんべ、さくさんの声を聞いたもん。離れのカッパを"よのさん"って呼んだじゃないか」
「カッパ?」
朔太郎は、きりりとした鋭角的な眉をひたいの上に飛び上がらせて、呆れた声をあげた。
「そうだい。離れのお屋敷にいる真っ白いカッパだよぅ!」
と、ぼくは、ほっぺたをパンパンにふくらませて、生意気に腕組みなんぞしながら後部座席にドスンとふんぞりかえったものである。
朔太郎は、しばらくムッツリ黙りこんでから、
「土蔵なんかで寝たから、へんちくりんな夢を見たんだよ、坊。そんな世迷い言は他に聞かせないほうがいい。頭がどうかしたかと思われちまうよ?」
「夢なんかじゃないや! さくさん、カッパを知ってるくせに……」
「おっと。それ以上、二度と口にしちゃいけないよ、坊。痛い目をみたくなかったら、みんな忘れちまいな。それが坊の身のためだ」
そらっとぼけた声色ながら、四の五の言わせない凄味があった。
朔太郎は乳母やの二番目の息子で、その頃たしか二十三、四だった。
なりは中肉中背だが、贅肉のまるでない引き締まった筋骨質だから、身動きが機敏で力も強い。颯爽とした風貌の男前。
そのうえ、どんな仕事でも器用によくこなした。
田舎育ちのわりに新しく出まわったばかりの電化製品だの工作機械だのの操作や部品の交換だとかも得意で、とりわけ自動車に関しては運転も整備も朝飯前だった。
ゆるい癖っ毛が、ちょうど粋な電髪を当てたような塩梅に見えたせいで、本人に全然その気はないのに、ハイカラ好きの伊達男だと勝手に噂されたりもしていた。
そんなわけで、ぼくなどは、うちの女中さんだの麓の町の女学生だの、ときには商家の後家さんなんかからも、朔太郎あての付け文のようなものをしょっちゅう頼まれ届けさせられたりしたものだった。
もっとも、当の朴念仁は、そのたびに迷惑そうな溜め息を深々とついていたが。
家人からの信頼もあつく、ぼくも小学校に通う行き帰りの車中で朔太郎と2人っきり他愛のない雑談や軽口を交わすのがことさら楽しく、数いた奉公人の中で誰よりも頼りにしたし、親しみも感じていた。
それこそ兄のように慕っていたから、「"よのさん"なんて名前は露ほども知らぬ」としらばっくれるのにも、悪感情は持たずにすんだので。
なんなら、めったな秘密をばらまけば怒った河童がぼくの尻子玉をひん抜きにかかるから、朔太郎は、ぼくを守るためにシラを切ってくれているのだ……と、子供だてらに深読みさえして。ぼくは、朔太郎の言いつけどおり、河童の話には口をつぐんだのである。
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