次の瞬間、ぼくはくるりと後ろを向いて一目散に走り出し、塀の外に逃げた。
あね様のあんな顔を、ぼくは見るにたえなかった。
すれっからしの遊び女まがいに、したたかで妖しい嬌笑をふるまって。
――そうか。そうなのだな。それがアヤカシのヤリクチなのだな。
ぼくは、夢中で砂利道を蹴散らしながら、思った。
特異な美貌で獲物を魅了し、甘く優しい物腰で懐柔して籠絡する……それが、離れ屋敷のカッパの妖術なのにちがいない。
息をきらして母屋に帰り自分の部屋に駆け込むと、部屋のすみっこにうずくまり、抱え込んだ膝に顔を埋めた。
あね様は、アヤカシに魅入られたせいで、無垢な幼女の純粋さを失ってしまったのに違いない。
ああ、それが証拠で、毎日あきもせず、きゅうりばかりを食べているじゃないか。
離れ屋敷の主は、きゅうりを見るのも怖いだなどと酔狂をぬかしていたけれど、あんなのは、ぼくを煙に巻いてたぶらかそうとしたソラゴトに決まっている。
カッパは、きゅうりには目がないというもの。
あね様は、カッパに魂をつかまれてしまったから、四六時中カッパの好物のきゅうりを食べたくて仕方ないようになってしまったのだ。それに決まっている。
そればかりではない。あね様の、あの媚態。離れ屋敷のカッパに抱きついて、一緒に風呂に入ろうとまで誘っていた。
あね様が無垢で無邪気なままのあね様だったら、普通の娘にしては不品行で破廉恥なその言動も、罪のない幼心にツキモノの御愛嬌と見過ごすこともできたろうけれど、今のあね様は以前のあね様とは、違う。
あね様の真っ赤な口元をフッとただようようになった、けだるげな微笑は、白粉で厚みを増して蒸れきった女の顔にしか、あらわれないタグイのものだった。
つかみどころのない軽やかな幼心が消え失せて、したたかでどっしりとした女の魔性をのぞかせるようになってしまった。
いつも大切に抱えていた童人形も滝川に放り捨ててしまったというのがトドメで。
そういえば、あね様は、童人形を「もう、いらないから」手放したと言っていたな。
それは、ひょっとしたら「童人形の代わりになるもの」を新しく手に入れたということではないだろうか?
そこまで漠然と考えて、ぼくはゾッと戦慄した。
日に日に目立ってふくらんでいく、あね様のお腹……。よもや、"童人形に代わるもの"は「そこ」にあるのでは?
となれば、どんぶり一杯のきゅうりの酢の物を朝に夕に欲しているのも、あね様自身の食欲ではなく、あね様のお腹の中に新しく宿ったもののしわざなのかも……。
あね様は、その日、夕餉の時刻ぎりぎりになって、やっと帰宅した。ぼくの懊悩をよそに、調子っぱずれな鼻歌を楽しげにくちずさみながら。
食卓につくなり女中さんに頼んで、温室きゅうりを丸ごと1本タテに割った間にたたいた梅肉をはさんでもらうと、そのまんま手づかみでバリバリ食らいついた。
長い後ろ髪のすそが、しっとりと濡れそぼっていた。
そして、ぼくの小学校の春休みが終わる前々日、あね様は死んだ。
.
読み終わったら、ポイントを付けましょう!