母屋の裏にある離れのお屋敷を囲んでいる石塀は、母屋の屋根よりもずっと高いところにある。
されど、母屋と離れの間に位置するこの土蔵のてっぺんは、その石塀よりも、だいぶん高さがある。
ということは、土蔵の天井近くにある換気口の高さにあれば、離れの石塀の内側を臨むことができるはずだ。
ぼくとあね様は、離れ屋敷には何があろうと絶対に近付いてはいけないと母に厳しく言いつけられていた。父の生前から、ずっと。
母屋の石塀の一か所には、かつては小さい木戸が付いていて、離れとの直近の通用口として使っていたらしいのだが、父が亡くなった直後に母の指示により漆喰で塗り固められ完全に塞がれてしまっていた。
そのため、離れのお屋敷に出かけるには、いったん母屋のほうの門を出てから、離れのほうの石塀のまわりをぐるり遠回りして、いちばん奥の重い鉄の扉をくぐらなければならず。
しかも、欧州風に彫刻のほどこされた握り把手の下に鍵穴が2つも並ぶ片開きの扉は、押しても引いてもビクともしないのが常だった。
ぼくが物心つこう頃には、父は離れから一歩も外に出ないまま死んでしまったから、ぼくには父との思い出がまったくない。
父も、また、自分に息子があったことすらとっくに忘れながら死んだのであろう。
はじめからいなかったも同然の父だから、ぼくには父に対しての愛憎やらなんとやらも、カケラほどもなかった。
ただ、父が家族をほったらかしてずっと離れに住みついていた理由が、当時のぼくには見当もつかず。知りたかった。
父の生前も死後も変わらず、ぼくがそれを尋ねるたびに、決まって母はマナジリを吊り上げて、
「いやな子! てて様に似て。いやらしい子だよ、お前は」
と、理不尽にぼくを怒鳴り散らしたし、気心の知れた女中さんたちでも、困ったように苦笑いをしながら、
「きっと、坊が大人になったら、自然と分かるようになりますよぅ」
などと、あやふやな返答をするなり、大切な仕事を突然に思い出したふりをしてあわてて逃げていくのだから。
聞き分けのいい素直な坊でとおっていたが、そのときばかりは乳母やにもしつっこくからんだ。
乳母やは、はじめ知らぬ存ぜぬでかわしていたが、しまいに根負けして、
「離れのお屋敷にはね、……こわいこわいアヤカシが、隠れているんですよ」
「アヤカシ?」
「そうです、そうです。……カッパがね、いるんですよ。だから、絶対に絶対に行っちゃなりません。そうそう、坊のてて様は、坊とあね様に対してカッパが悪さをはたらかないようにと、ずぅーっと根つめて見張ってらしたんだから。それだから、離れを抜け出れなかったんです」
そう声をひそめて、よくも訥々と諭してくれたものである。
無知だった幼いぼくは、ギョッと目を見開いて立ちすくんだ。
「カッパが! どんな悪さをはたらくん?」
「まぁ、ご存知ないかねぇ、坊は。カッパっていう畜生めは、かあいらしい綺麗なお子を見つけると辛抱たまらんで。さっさ取り憑いて尻子玉をひん抜いていっちまうんですよぉ……」
期せずして、得体のしれない人外魔物の住処を覗《のぞ》き見る念願をかなえ、あまつさえ同級の悪童どもの鼻をあかすオアツラエ向きの武勇伝をこしらえるのに、千載一遇の好機が、そこに到来したというわけなのである。
.
読み終わったら、ポイントを付けましょう!