泥のついた赤い組紐を鼻先に突きつけられると、母はギョッと目をひんむくなり、じりじりと膝を後ろに引きずって四つん這いのまま壁際まで遠ざかった。
それから、茫洋とした視線を宙に逃がしてから、背中を壁に滑らせつつユルユルと立ち上がった。
がっくりと肩を落としざんばらに乱れた頭をうつむけ、ズルズルと裾を引きながら幽鬼のように板の間をすべり歩く。
朔太郎はすれ違いざま、おもむろに母の腕をつかんで引き寄せ、耳元に素早くささやいた。
「ご安心なさい、おかみさん。俺は誰にも口を割りません。そのかわり、もう二度と世之さんをいじめないでやってくれますね、金輪際」
「…………」
母は、唇をきつく引き結んだままジロリ朔太郎をにらみ上げると手を振り払い、衣紋の乱れとうなじのおくれ毛をさも気取った手つきで整えながら、しゃなりしゃなりと細腰をゆらして板の間を出ていくや、後ろ手でぴしゃりと襖を閉じた。
「朔……」
と、錆ついた声をしぼりだした世之介は、板戸に背をもたせかけて、ようやっと上体を起こし上げると、招き寄せるように左手を前に差し出した。
近付いた朔太郎が軽く腰をかがめて小首をかしげながら顔をのぞきかけたとたん、その手でグイッと彼の右肩を引っ張り寄せる。
ふいをつかれて前のめりによろけた朔太郎は、黒い絽の着流しにくるまれた世之介の両股をまたぐ格好で膝小僧を床に落とすと、咄嗟に世之介の頬の真横をかすめて左手を伸ばし手のひらを板戸について自分の体を支えた。
ひとりでに互いの鼻先がくっつきそうなほど近付いた朔太郎の呆気にとられた顔を、深紅の双眼で真っ直ぐに見すえたまま世之介は、朔太郎の握っていた赤い組紐を引っこ抜くなり、己の左手首と朔太郎の右手首とをひとまとめにしてグルグル巻きつけたものだ。
そうして、
「お前さえいてくれればいいんだよ、朔や。わたしはもう、他はどうでも。寄ってたかってバケモノ呼ばわりされても、これっぽっちも、いじけたりするもんかぇ」
と、あまたの衆生の因果すらことごとく、その比類なき姿をもって洗い流したかのような、このうえなくサッパリとした清らかな笑みを、うっすら血に汚れた唇に細い三日月の形でたたえて、こだわりない声音で言い切った。
その瞬間、ぼくは、子供ながらに世之介と朔太郎の間の"ただならぬ絆"を嗅ぎつけて、ひとりでに妖しく全身が上気するのを自覚した。
同時に、胸の奥にチリリと切ない疼きを感じた。それが嫉妬に近い感覚だったとまでは思い出せるのだけれど。はたして誰に対するやっかみだったのかは、いまだに自分でも気付けないままでいる。
とりとめのない自己憐憫にも似て、やるせなく甘ったるく……。とにかく場違いで、あいまいな感傷だったにはちがいない。
.
読み終わったら、ポイントを付けましょう!