なにしろ、家人どもは土蔵の中の片付けが億劫だったのだ。
土用の虫干しに使ったのだろう長梯子も、立てたまま無造作に壁におっつけてあった。
ぼくにとっては渡りに船。
土間に踏ん張っている梯子の両脚の片方づつをくるりくるりと反転させながら横にずらしていくことで、頑強な重い長梯子を、越屋根の窓の下までたやすく移動できた。
段差はいささか急だったから、エッチラオッチラ、ひと足ひと足。一段ごとに、いったん両足を乗っけてから次の1歩をすすめた。
とはいえ、踏み板の幅と奥行はたっぷりとってあったので、あね様より木登りがだいぶ下手だったぼくでも、危なげなく換気口までたどりついた。
換気口と呼んではいたが簡易なもので、壁をくりぬいただけの四角い穴にすぎなかった。
開口の下枠は壁の厚みの分だけの余裕があったので、ぼくは、梯子の一番上の段に乗ったまま下枠に上体を乗り出して頬杖なんかつきながら、開けっ放しの突き上げ窓から顔を半分ばかり突き出したような格好で、まことに呑気に出歯亀を決め込んだのだ。
月明かりを頼りに下を向けば、石塀のてっぺんが見おろせた。
離れの石塀と土蔵の外壁との隙間は、人ひとりが通れるほどの狭さだった。
塀の向こうには庭があり、大きな松の木の他には低木がたくさん植えてあった。
父が亡くなって以来、庭師の手も入らなくなったのだろうか。伸び放題の葉がうっそうとして、ぼくの視界を邪魔した。
庭の向こうには、竹垣をはさんで、黒瓦を葺いたすっきりとした切妻屋根の家屋があった。建坪は、せいぜい30坪ほどだったろう。
稀代のニワカ成金が飽くことなく酒池肉林の宴を重ねていた場所にしては意外と狭い印象だったと、ずいぶん後になって思い出したものだ。
植栽の緑の合間に辛抱強く目をこらすうち、闇に鮮やかな赤い灯火が庭のあちこちにチロチロ揺れているのが見えた。
さては鬼火か火の玉かと、ぼくは心底ふるえあがったが、それは、石灯籠に火を灯してあるものだとすぐに気付いた。
とはいえ、ホッと胸をなでおろす間はない。
もぬけの殻のはずの離れ屋敷の庭の灯篭に、なにゆえ灯火が入っているのか。
さすがに小学生ともなれば河童の話もマユツバだと気付きはじめてもいた時期だったのだけれど、1人ぼっちの肝試しで、さっそく予想だにせぬ光景を目撃すれば、人外のアヤカシの存在をあっさり認めたくもなる。
さらに不思議、庭の真ん中あたりから真っ白い煙のようなものがふわりふわりと切れ目なく立ち昇っているのが視界に映りこんだ瞬間には、大声で叫びそうにもなった。
それこそ必死に両手で口をおさえたのは、出歯亀を気付かれたらアヤカシの者にどんな無体な仕返しをされるか分からないととっさに考えたからで。
たまらず梯子を駆け下りたかったが、恐ろしさのあまりに身じろぎもままならず。
愕然と見開いた目玉すらも少しも動かすことができなくて、いやおうなく白煙を凝視した。
そのうち、「ぱしゃっ、ぱしゃっ」と、池の魚が水面を跳ねるような水音が、かすかに耳に聞こえてきた。
と同時に、おりしも、わずかに強い山風が忽然と吹きおろしはじめた。
「…………っ!」
その瞬間、ぼくは、声にならない悲鳴をノドにつまらせた。
おのれの全身がザッといっせいに総毛だつ感触を、はっきりと実感した。
季節はずれの山おろしが目くらましの白煙をいっせいに吹きとばしたせいで、ぼくは、離れ屋敷に巣食う人外の姿を、はっきりと見てしまったのだから。
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