ハッと再び手を伸ばした時には、もう、あね様は重い扉を押し開いていた。
「ま、待って、あね様!」
ぼくは、指先をかすめ飛ぶ蝶を取り逃がしたような格好で、つんのめるように扉の中に足を踏み入れてしまった。
虚空を揺れる極彩色の着物の袖の軌跡をたどって。
「待ってよ、ねぇ! 待ってったら……」
幼女のようなあね様を、純白のアヤカシの棲家に1人で置いて逃げられようもなく、泣きべそをかいて追いすがる。
あね様は、おかまいなしに、ツヤ光りする翡翠色の敷き石をタンタンと軽やかにこえて、青々した竹垣の向こう側に身をひるがえした。
やっと捕まえた振り袖の先に引きずられて、ぼくもまた、はからずも自動的に離れ屋敷の玄関の真正面にたたらを踏む格好となった。
その刹那をちょうど見透かしたかのように、黒漆塗りの瀟洒な格子戸がカラリすべって開け放たれるや、
「おや、お喜美ちゃん。また遊びにきてくれたのかい?」
と、離れ屋敷の主は、拍子抜けするほど明るく愛想よく、あっさりと姿を現したものだ。
渋い藍染めの浴衣を素肌に直にまとい、兵児帯でざっくり腰をしめているだけなのに、キリリと衣紋が立ち、背縫いもピンと一直線で。
しなやかな痩身も手伝って実際の上背よりも長身に見える。
細く長い首筋と尖った頤が類まれな美貌をいっそう洗練させ、掛け衿の陰でも真っ白く浮かび上がる鎖骨とその窪みが写す淡く繊細な陰影は、あまりにまばゆくて。釘づけになったぼくの目を何度もしばたたかせもした。
なすすべもなくアワを食うぼくに、アヤカシは、
「あれ、嬉しいな。今日は、"とき坊"も一緒なんだねぇ」
ぼくの名前を当然のように言い当てると、本当に嬉しそうに「ふふふ」と笑い声をたてた。
優美な頭の形に貼りつくように寄りそう柔らかな髪は老人のごとく総白髪だけれど、声色と容姿は若々しく美しい青年で。そのちぐはぐな違和感こそが、もっとも彼を人外のアヤカシ然たらしめていた。
いかんせん、異様な違和感の所在は、そればかりではなく。。
彼は、よく磨き込んだ雪花石膏のように綺麗な肌をさらす白皙にはあまりに不粋な、真っ黒い色眼鏡をかけていたのだ。
河童というよりは、むしろ東欧で言い伝えられているという「吸血鬼」のようだと、ぼくは思った。
これも貸本の漫画でとりわけ人気の怪奇モノの中から仕入れた知識だったが、夜の闇をこのうえなく愛する吸血鬼一族は、太陽の光をなによりも忌み嫌うそうなのだ。
彼が吸血鬼だとすれば、黒い眼鏡で日光をさえぎり、闇の中でばかり生活してきた肌が蒼白なまでに透き通っているのも説明がつくではないか。
すると彼は、まさしく人外魔性の神通力で、ぼくの胸の内を瞬時に悟ったがごとく、
「とき坊は、わたしを河童だと思ってるんだってねぇ?」
血色の少ない薄い唇を細い三日月の形にニンマリゆがめながら言うではないか。
口元はたしかに微笑んでいるが、黒眼鏡の下には、どんな恐ろしく陰惨な目つきが隠れているか知れたものではなく。
返答しだいでは、三日月の隙間からのぞく鋭い糸切り歯が、ぼくのノド笛にたちまち食らいつくのではあるまいか……と、ぼくは、すっかり怖じ気づいて後ずさり、あね様の振り袖の後ろに身を引いた。
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