灯玄坂の巣の中で

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昼間原狂騒・一岩 - 3

公開日時: 2020年9月7日(月) 02:50
文字数:13,955

気付けば空は仄暗い。

午後一杯を移動に費やして、時刻は夕方五時を指していた。日が落ち始めると、冷え込みは一層厳しくなる。

今日の街歩きはここまでだ。成果があったようななかったような微妙な散策だったが、取っ掛かりは掴めたようにかがりは思う。

ふたりは視察及び買い物の成果を抱えて、昼間原八岩公園に入ってすぐのベンチで休んでいた。

寒くて休憩には向いていない事もあり、視界内はがらんとしている。

じきに、完全に人影は消えるだろう。


かがりは、先程買った照り焼きバーガーを齧り、ホットコーヒーで流し込んだ。

これから帰って夕飯作りだというのに、店を見たらつい食べたくなって買ってしまった。

歩き回るのはいつも通りだとしても、普段気にしない事に注意を払ってエネルギーを消費したので、体がこういう安っぽい味を求めていたのかもしれない。

そのぶん夕飯を減らせばいいさと思いながら、かがりはベンチにどっさり並んだ今日の成果を見た。

外気温が天然のクーラーボックスになってくれているといっても、さすがにそろそろ野菜や干物は冷蔵庫に入れたい。


「いっぱい買ったね。お店に置けそうなのあるかな?」


周囲に誰もいないので、ユウも遠慮せず声を出せる。

かがりはコーヒーを置くと、隣にあった袋をガサガサと開き、中身を漁る。

家でじっくり検討する為に、これはと思った物はとりあえず買うには買ったものの、こうして日暮れの風を浴びて冷静になると、本当にこれらが店を飾るのに有効なのか疑問になってくる。

なんでこんなものを買ったんだ、と後から自分が信じられなくなる、主に土産物においてままある現象をかがりは思い出した。

適当なひとつを選んで袋から取り出し、ついでにじっと見ているユウにハンバーガーを小さくちぎって落としてやる。

甘い照り焼きソースにマヨネーズに玉葱にといろいろ入っているが、妖怪ならおそらく問題ない筈だった。


「狐の感覚でいいから率直に答えてくれ。これが店に並んでたら、お前欲しいか?」

「いらない」


即答だった。

かがりは無言でそれを袋に戻し、別のものを取り出す。


「これは?」

「いらない」

「こっちは?」

「うーん、いらない」

「このフタコブペンギンラクダのぬいぐるみはどうだ」

「いらない。……これ噛んでいい?」

「ダメだ。かわいそうだろ」


かがりの選んだ品は、ユウには尽く不評だった。

これはセンスの問題ではなく、狐の感覚で答えさせればそうなって当然なのである。

寝心地の良さそうなクッション、よく跳ねるボールといったものなら好みに合ったかもしれない。


「俺は食べ物がいいなー。

おいしいものがいつでも近くにいっぱいあって、いざって時にはヒジョーショクってのになるんだ!」

「だから食品は面倒なんだよ。許可を取らなきゃいけないし、在庫の入れ替えも他より忙しくなる。

うちで売ったもので腹でも壊されたら、それこそ目も当てられん」

「俺、かがりの作ったもので腹壊した事なんてないぞ」

「お前は妖怪だからだろ、忘れるなよ……っておい、お前まさか私が作った料理を売る前提で話してたのか?」

「うん、そう。かがりのゴハンはおいしいから売れるよ!」

「はァ……より良い基準を知らないってのは幸せな事だな。そのままのお前でいてくれ」


かがりは呆れながら笑った。

食えたものではない食事もどきを提供しているつもりは無いが、商品として堂々と売れる程の料理を作っている自負もない。

概ね自分とはそういう人間だと、かがりは思っている。料理も本業も、そこそこやるが、決してそこそこ以上ではないのだ。

生きるには、それで困らない。昼間原市は、そういう者に任せて許される街である。

常に上を目指して研鑽する必要も、あるいは死と隣り合わせである危険とも無縁だ。

いつかユウに言われたように、この暮らしを、この街を、かがりはなかなか気に入っている。

ただし、とも思う。

本業での躍進は持って生まれた素質の差が大きく、まして力の一部を治療用に譲ってしまった今どうにもならない面も多いが、料理なら努力次第で上を目指せ、かつ自分にとっても生活の質の向上という利益をもたらす。

こうまで純粋に称賛してくれる相手がいるなら、もう少しそちらへ時間を割くのも悪くないように思えてくる。

いつもの食卓にもう一品、週に二回追加してみる程度の範囲で。


「さあ、そろそろ帰るぞ。さすがに冷えてきた」

「うん――あ、待って!」

「?」


立ち上がったユウは鼻先を持ち上げるや、濃紺に染まった空に向かい高々と遠吠えを放った。

ホッホォォォウ……と甘く太く公園内に響き渡る鳴き声に、いきなり何をやってるんだとかがりは目を丸くする。


「店にいるとできないから。吠えたら近所迷惑なんでしょ?」

「単に吠えたかっただけなのか……ストレスでも溜まってるんじゃないだろうな」

「違うよ、なんかたまに吠えたくなるんだよ。ほら習性ってやつで――はっ、はっ、はっくしゅん! ぴぃ……」

「おいおい……」


ただの狐ではなくとも、狐は狐。獣である限り野生の本能には抗い難いらしい。

まさか妖怪に風邪もあるまいが、ユウがくしゃみを漏らすのを合図に、かがりはベンチを立った。

話していた僅かな時間で、影と地面との境目が曖昧になる程に夜は進んでいる。白いビニールの手提げ袋も、すっかり闇色だ。

ざっ、ざっ、と、よく均された砂利道を踏んで、ふたりは街灯の光り始めた公園を出る。灯玄坂までは幾らもない。


と、その時だった。


「んん……?」


極めて馴染みのある、しかし今は馴染む筈のない音色を、かがりの耳は捉えた。

どんな音かと問われれば、いわゆる祭りの曲になる。

通りには提灯が飾られ、浴衣姿や法被姿の来客たちがずらりと並ぶ出店を賑わせる。

そんな縁日や祭りには付き物の、郷愁を誘う篠笛と太鼓の祭り囃子が、ふたりの立つ場所まで微かに響いてきているのだ。

それ自体はいい。昼間原にも夏祭りはあり、歩行者天国となった道路には地元客、観光客がひしめき合い、商工会が保管する大小の神輿や曳行される山車が人々の目を楽しませる。

これといって光る名所、名物を持たない昼間原市において、唯一と言っていいくらい派手で印象深いイベントといえた。

騒音で妖も引っ込むのかトラブルはまずなく、かがりにとっては見回りついでに出店をのんびり冷やかせる楽な仕事期間だった。


おかしいのは、今が夏でも何でもないという事だ。

ユウが耳を立て、鼻をひくつかせる。

聞こえているのはかがりだけではなかったらしい。


「あれ何? 何の音?」

「夏の祭りで流す曲だよ。練習でもしてるのかな」

「真冬に?」


聞かれてかがりは黙った。

冬に祭り囃子を練習して悪いという決まりはないが、変は変だ。

そもそもここの夏祭りで流れる祭り囃子は、基本的に市販の音源を使用しており、実演するのは山車が出る時くらいの筈である。

あれは一種の名誉職で、毎年ほぼ顔ぶれは変わらない。今更この時期から練習する必要があるとは思えなかった。

引退や病気などで欠員が出そうだから急遽補充したのかもしれないが、それにしても――。


「ね、ね、かがり」

「どうした?」

「俺、人間のお祭りって近くで見た事ないんだ。笛吹いてるとこ見てみたい!」

「祭りじゃなくてただの練習だぞ? たぶん」

「練習でもいいからさ、行こうよ!」


咥えたリードをぐいぐいと下に引っ張り、ユウが催促する。

かがりは、ぶら下げた買い物袋へ一度目をやった。

拒否しても収まりがつかなそうではあるし、結局あの後も店に入れず外で待機続きだったユウの事を思えば、帰宅前にもう一箇所くらい寄り道してやっても良さそうに思える。

ここまで聞こえてくるのだから、そう遠くでもないだろう。

かがりが頷くと、ユウは嬉しそうに先頭に立って歩き始めた。ぴんと真っ直ぐ張ったリードに待ちきれない気持ちが現れている。

そんなユウを軽くリードを引いて足元に連れ戻すと、かがりは曲を追った。


十字交差点を曲がり、その先へ。

日暮れとあって、信号機の赤や青がより鮮やかに目に映る。

進むほど人の数は増していき、それにつれて、はっきりとした当惑がかがりに広がっていった。


「なんだ……?」

「いっぱいいるね」


周りを意識して、ごく小声でユウが囁いた。こうも人が多くては、じきに喋る事はできなくなる。

数メートル間隔で固まって歩いている人々を、ユウは物珍しげにきょろきょろと眺めた。

この時間帯にしては、妙に賑やかだ。衰退しつつある地方都市の昼間原では、日中でもあまり見ない光景である。


そう、それこそ本当に、祭りを目指しているかのように。


まさか全員が祭り囃子の練習風景を見物しに行く訳ではあるまい。

それとも今年から冬にも祭りをやる事にしたのかと、かがりは歩きながら考える。

しかしそんな告知は街のどこにも見当たらなかったし、やるにしてもこんな中途半端な時期をわざわざ選ぶものだろうか。

新設するなら春か秋の行楽シーズンの方が、ずっと盛り上がって実入りもいい筈だ。

それに今日はめぼしい通りをくまなく歩いていたのに、どこも祭りの支度などしていなかった。

夏祭り――昼間原まつりは三日間に渡って行われる為、準備もそれなりに大掛かりになる。

疑問を感じながらも、現場に着けば分かるだろうと人の流れに混ざって祭り囃子の聞こえてくる方へ向かうが、一向にそれらしい光景は見えてこない。最初に聞いた音の近さからすれば、そろそろ到着しても良い頃なのに。

まさか実際の祭りと同じく、山車で移動しながら演奏している訳でもあるまいし。


歩き続けるかがり達の前に、唐突にその瞬間は訪れた。

視界の前方に、赤や黄色で彩られた出店が次々に姿を現したのだ。

たこ焼き、ヨーヨー、かき氷、焼きそば、くじ、金魚すくい、じゃがバタ、りんご飴、綿菓子、ベビーカステラ……。

お馴染みの文字に、お馴染みの匂い。原色の旗や暖簾を強烈に発光する電球が照らし、その一種悪趣味なまでの派手さを、もっとやれとばかりに篠笛と太鼓の音色が強弱をつけて煽り立てる。

誰もが自然と童心に帰り、駆け回りたくならずにいられないような、安っぽく俗っぽい――だからこそ尊い光と音の饗宴。


「な……本当にやってただと……?」


お祭りだあ、と眼を輝かせてユウが歓声をあげる。

かがりに思い切りリードを引かれて我に返り、慌てて数回短く鳴いて誤魔化す。

幸い周囲の喧騒に紛れたらしく、気に留める通行人は誰もいなかった。

それ程に凄い人混みだ。

どこまでも出店の続く二車線の県道に車は一台も走っておらず、代わって圧倒される数の、いやさ量の人、人、人。

立ち止まって周囲を確認しようにも、あまりの混雑で満足に叶わない。押されるように、飲み込まれるように、足は前へと進む。

適度に間隔を空けて歩いていた人々は、いつしかぶつからずに歩くのが困難なまでに密集した人波となっている。

そう、まさしく夏の昼間原まつりのように。


思いがけぬイベントとの遭遇に浮かれ、頭を左右に忙しく動かしながら、ぴょこぴょこと小刻みに跳ねて進むユウ。

踊るような歩様からは、興奮と感動を言葉にして伝えたいのを懸命に堪えているのが伝わってくる。

一方で、かがりはそこまで呑気ではいられなかった。

フライドポテトに串焼き、揚げパスタ。様々な食べ物を手に出店の並ぶ歩行者天国を行き交う人々は、かがりも子供の頃から毎年夏になると欠かさず目にしている、昼間原まつりの光景そのものではある。


ただ一点、今が冬であるという事を除いて。


いまだ、身を切るような寒気が残る。

そんな夜の通りを、半纏を着た役員が、浴衣姿の女がそぞろ歩く。

それはいい。祭りとなれば雰囲気を優先し、夏だろうと冬だろうととにかく浴衣という人間がいてもおかしくはない。

だがこれはどうだ。歩行者の多数を、ノースリーブや半袖といった軽装が占めている。

長くてもせいぜい七分袖で、しかもそれ一枚のみ。上にもう一枚羽織っている者などほとんど見掛けない。

その格好で彼らは談笑し、出店に並び、祭りを楽しんでいる。寒さなど微塵も感じさせずに。

かがりが仕事時に着る軽装とは訳が違う。あれは荒事になった場合に備え、防寒性を多少犠牲にして動きやすさを重視したものだ。

だが、これはそうではなかった。時期的に着るのが普通だから着ているという、何ら気負わぬ選択の結果として彼らは薄着でいる。


ぞっとした。

かがりの背を、正体不明の悪寒が走り抜けていく。

長く伸びる笛の音が、撫でるように耳元を掠めた。

この国の人間なら一度は耳にした事のある、陽気で、されど不思議と物哀しい祭り囃子はまだ聞こえ続けている。

否、ずっと聴こえ続けている。

歩いても歩いても音の発信源が一向に近付いてこないどころか、遠ざかってもいかない。

曲は常に一定の調子で、一定の音量で、かがり達に届き続けている。


「出るぞ」

「えっ」

「走るぞ! ここから逃げる!」


夜空にぼうっと浮かぶ紅白の提灯。くどい程に明るい出店。人の群れ。

何ひとつ変わった点はない。夏祭りの光景として見れば、どこを切り取っても絵になる。違和感などあろう筈がない。

夏の昼間原まつりと何ひとつ変わらないという事が既におかしいのだ。


かがりは振り返り、そして息を呑んだ。


通りを挟んだ出店が続いていた。

視界の、ずっと彼方まで。


「な……なに、これ……?」


ようやくユウも異常を悟った。

来た道がない。消えている。道はあるのだが、祭りの賑やかな通りと完全に入れ替わってしまっている。

リードを握るかがりの手に、力がこもった。人混みの隙間を縫うように、時には乱暴に押し退けながら急ぎ足で引き返す。

だが行けども行けども、混雑は途切れない。人も、出店も、そして祭り囃子も、尽きては始めに戻り、また繰り返す。


「くっ……!」


かがりは手の甲に犬歯を立てると、躊躇わず皮膚を小さく噛み切った。

痛みが走り、血が玉となってぷくりと盛り上がる。しかし周辺の光景に変化は見られない。

苦痛を以て破却可能なタイプの幻ではないようだ。

試す前から半ば分かりきった事であった。街の一角を丸ごと再現してみせる幻が、こんな初歩的な手段で破れる筈はない。


「路地に入るぞ! 横から抜ける!」


ユウの返事を待たず、かがりはリードを強く引きながら建物と建物の隙間に駆け込んだ。

片方は小さな塗装工場、もう片方は薬局。このまま数件の家屋を突っ切っていけば、隣の県道に抜けられる。

しかし無駄だった。路地を出た先には、全く同じ祭りの風景が広がっている。来た道を戻っても、やはり同じだろう。

かがりは諦め悪く、もう一回同じ手順を繰り返してみる。脇道から他の道路を目指すのも、異なる箇所から三度試してみた。

こうした試みは、全てが無駄に終わる。

自分たちが完全にこの幻に囚われてしまったのを、かがりは認めるしかなかった。

両脚から力が抜けかけ、咄嗟に建物の壁に凭れて倒れるのを防ぐ。

息を整えながら、落ち着け、と繰り返し自分に言い聞かせる。


(ユウがいるんだ、私が動揺して怖がらせてどうする)


まずは、手持ちの材料の整理だ。

師である父から教わった、不測の事態に直面した際の心得を、まさか昼間原で頼る日が来るとは思っていなかったそれを、かがりは遠い記憶から引っ張り出す。

この幻の夏祭りが開かれている通りを、一本の直線だと仮定するのなら。

直線は前後左右でそれぞれ繋がるように構成されている。よって直進すれば幻の限界に達した時点で最後尾へ逆戻り、同じく右に逃げようとすれば左へ、左に逃げれば右側へ戻ってしまうループが続く。

こうした延々と一定範囲を彷徨わせるタイプの術というのは、そう珍しくない。異常なのは規模だ。

幻術は単純なら単純なほど成功させやすく、逆に範囲や環境が複雑なほど破られる要因は多くなる。

単に目撃者から声を掛けられただけで解けてしまうような、脆いものが大半だ。

それなりに規模の大きな夏祭りを、よりによって街中に丸ごと再現してみせるなど聞いた事さえない。

というより、現代では不可能に近い大技だろう。

幻術を張る範囲の住民、通行人、車道を走る自動車やバイクといった異物が多過ぎて、術を守る手立てが無い為である。


そもそも一体、どの時点から幻だったのか。

並ぶ出店を目撃した地点からか。歩道に人が増え始めたあたりからか。あるいは祭り囃子を聞いてしまった時点でか。

まず何よりも気になるのは、こんな真似をする理由は何だ。街を幻で包むメリットが何もない。

真っ先にかがりの頭に浮かんだのは、ユウを始末しに来た兄弟狐だった。

あの狐たちよりも強い力を持つ、更に上位の狐が乗り込んできたのだとしたら有り得るかもしれない。

だが、処罰の件は既に決着がついた筈である。

一族との交渉が決裂し、やはりユウを始末するという結論が出されたのだとしても、ここまでやる必要性が見出だせない。

わざわざ祭りの幻で誘き寄せるまでもなく、手練れの狐を数頭派遣すれば済む話だ。


かがりは路地の壁に寄り掛かったまま、賑わう通りを見る。

自分たちの他に、異常事態に騒いでいるらしき人間は見当たらなかった。

まだ気付いていないだけなのか、幻に深く落とし込まれて気付く事すらできない状態なのか、あるいはこの人混み自体が幻なのかも、かがりには判断できない。

多くが夏の装いである事を考えると、全て幻の可能性が最も高かった。途方もなさすぎて、それこそが最も信じられない。

話しかけて確かめようにも、相手はこれ程の幻を展開してみせる怪物である。

通行人なり店主なりからの返事すら再現されてしまったら、もはや区別のしようがなかった。

見知った顔でもいれば共通の知識に関する問答を通して矛盾点を突き、術を破る切っ掛けにできそうだが、ざっと見た限りでは誰も知り合いはいない。


かがりは、とうとう意識して抑えていた溜息をつく。

手持ちの材料を整理した結果、どうにもならないという事だけは理解できた。

能力も知識も、圧倒的に不足している。

状況を把握し、問題点を列挙し、自分の手には負えないと判断したなら、次は第三者に助力を仰ぐべきだが、現状で相談できそうなのはよりによって自分よりも非力な狐一匹。

それでも念の為、かがりはユウに確認してみた。

狐や狸といった在野の妖怪は、人では及びもつかない幻の専門家だ。生まれ持った感覚で綻びを発見した可能性もある。

だが案の定というべきか、ユウは分からないと首を振るばかりだった。


「……これ以上、闇雲に歩き続けても体力を消耗するだけだな。

よし、座って休憩してからもう一度突破口を探そう。

お前も散歩中には見なかった建物とか、そこだけ色の違う地面とか、何でもいいから気付いたら教えて……ユウ?

どうした、ユウ」

「ごめん、かがり」


少し前から置いていかれ気味になっていたユウが、悄然と呟く。


「俺が、お祭り見てみたいなんて言ったから」


やけに静かだと思っていたら、こんな事態に巻き込まれてしまったのは自分のせいだと悩んでいたようだ。

混乱しているのも焦っているのもかがりとて同じなのに、ユウのあまりの落ち込みように、不思議と後ろ向きな気持ちは消えていく。

明らかに自分より弱りきっている存在が間近にいると、人の心は一時的に強度を増すらしい。


「あのまま帰ってても、うちが無事だった保証はどこにもない。

このふざけた夏祭りに店ごと飲み込まれてた可能性だってある。そのくらい規格外の異常事態なんだ、これは。

むしろ私が解決しなきゃいけない仕事だから丁度良かったよ、気にするな」


そう笑って言ってみたものの、肝心の抜け出す手掛かりは掴めないままだ。

自分一人だけなら逃げる手段はあるかもしれないが、ユウを助けられるか。

そして、ここにいる全員が同じく巻き込まれた昼間原市民だったとしたらどうする。数は。安否確認は。救助手段は。

考えれば考えるほど、遠ざかっていた焦りがじわじわとぶり返してくる。

加えて一日や二日ならまだしも、幽閉が長く続けば餓死する可能性まである。実際のところ幻術で一番怖いのはこれであった。

たとえ目の前に現実の食べ物があったとしても、惑わされている側には食べ物の存在を認識できない。


「じゃ、捜索再開といこう」

「……うん」

「ほらほら、顔を上げろ。いつもの元気はどうした。英雄がこの程度でへこたれるんじゃないよ」

「――うん。俺も何か見付けられないか頑張ってみるよ!」

「その意気だ。どっちが先に見付けるか競争だぞ」


ユウを励ましながら、かがりは再び祭りの喧騒に満たされた通りを進む。

歩き回れば体力を消耗してしまう。しかし、所定の時間もしくは回数走破するのが解除条件となっている幻術も存在している。

あるいは決められた手順で歩くという条件の術。あるいは、鍵となる呪符や祭具といった触媒を発見し破壊する事が条件な術。

考え得る可能性は幾つもあるが、ひとまず最も手っ取り早く実行できそうなのが触媒、即ち術の要の破壊だった。

電柱の影やバス停のベンチの裏側、一見ごく普通の店、しかし現実の昼間原には存在していない店など、どこかに見慣れぬ物が仕掛けられていないかを探す。

日課の延長だと思えば、多少は気が紛れる。心が折れてしまっては相手の思う壺だから、これは重要だ。

空振りに終わったなら終わったで、横線を引いて次の手段に移る事ができる。


こうした方針を、かがりは逐一ユウに話して聞かせながら歩いた。

同時に言葉を用いたおおっぴらな会話もこの時点で許可する。人目を憚らず、気になる事があればすぐに言えと。

人目があるだのないだのを取り沙汰するのは、無事にここを抜け出せてからだ。それよりストレスを溜め込ませる方がまずい。

やるべき仕事があると教え、分担して任せてやれば、この小さな狐の不安も和らぐだろう。

忙しくさせて余計な事を考える暇をなくす。自身も追い詰められているかがりにしてやれるのは、これが精一杯だった。


「そうだな……あそこにある信用金庫をスタート地点にしよう。

建物も駐車場も大きくて分かりやすいからな。

あそこから真っ直ぐ進みながら、最初に左側の歩道周りを探す。一周して戻ってきたら、次は道路を渡って右に――」

「……ありゃ? おいフッチー!

そこにいるのフッチーか? フッチーだよな?」


そうと決めた、矢先に。

全方針を根底から覆すような、むしろ叩き壊したとしか言いようのないガラガラ声が、かがり達の立つ歩道の真向かいにある薬局から響いてきた。

驚いて振り返り、そこでかがりは目にする。

思い思いに歩き、あるいは道端に座って食事や雑談に興じている人々と違い、小さな薬局の店先に佇み、はっきりと注意を自分達へ向けている人間の姿を。


かがりは硬直する。驚きと焦りと、そして強い安堵に。

解決手段のまるで見えてこない危機的状況において、思いがけず知己の相手と出会えた事への本能からの喜び。

ひとりで死んでいくよりは誰かが一緒にいた方がましだという下劣で人間的な感情、まさしくそれそのものだ。

絶望的な程、人の弱い心は道連れを求める。そして、この場合はただの犠牲者仲間という訳でもない。


皺のないグレーのスーツにぴしりと身を包んだ男が、邪魔そうに歩行者を避けて歩いてくる。

かがりは立ち止まったまま、得体の知れない人間の接近に逃げ腰になっているユウに、逃げなくていいと目と唇の動きで伝えた。

男が出店と出店の間を抜けてくる。壮年ではあるが初老と呼ぶにはまだ若い。

声の重さは、このような軽薄な口調とまるで釣り合っていなかった。濁ってはいるが突き抜けるような張りがある。


「ああ、やっぱりフッチーだ。今日も一日お疲れさま」

「その呼び方はやめてくださいと何度も」

「じゃあやめる」

「どうも……いえ、それよりこんな所で何を?」

「今日は早く仕事片付いてさ、どっかで飯食ってから帰ろうと散歩してたらこんな場所に出ちゃった。

これ何? なんで冬に祭りやってんの? 知らないぞこんなの、クーデターか?」


言って男は、ぐるんと体操のようにダイナミックに首を動かして辺りの出店を見やる。

それを知りたいのは自分だと内心で呟きつつ、かがりは分かりませんと正直に答えた。


「確証は持てませんが、たぶん幻術です。……たぶん。

だとしてもこんな大規模なものをどうやって実現させているのか、私では想像もつきません」

「フーン……こっちは?」


男は視線を下げた。


「狐じゃないの。変な色してるし剥製でも作りに行くのかな?」

「微妙にタイムリーですね……そうではなく」


かがりは一旦言葉を切り、唖然としているユウを見下ろす。

つい今しがた許可が下りたばかりとはいえ、明らかな自由意志を持つ人間を前に喋っていいものか困っているらしい。

正しい判断だった。やや迷ったものの、いつまでも隠しておける話でもないとかがりはユウの正体、及び出会った経緯、兄弟狐の襲撃を経て現在は自分の店に滞在している事などをざっと伝える。

蛇を譲渡した件はひとまず伏せた。さすがにまずいと思ったのだ。

かがりが説明している間、ユウはそれを話していいのかという顔で、何度も視線を左右に往復させていた。

だが考えてみれば、かがりは男に対して「幻術」と告げ、男も当たり前のようにそれに応じている。

もしかするとかがりが言っていた街の事情を知っている人なのかもしれないと、ユウは僅かに緊張を解く。

かがりの仕事内容や、昼間原の呪いについて知っているなら、ただの狐ではなく妖怪だと分かっても騒ぎにはならない筈だ。


「なにそれ、聞いてないよー」

「……報告していませんでしたので。

特に問題なく処理も済みましたし、次回に合わせて行えばいいかと」

「だめだよー。ほうれんそうは役所の基本。でしょ?」


言い方はともかく、自分に非があるのは確かなのでかがりは謝罪した。

帰ったら正式に報告書を提出する。帰れれば、の話だが。


「しかしねえ……成体の狐が精神に変調きたすなんて事あるのかなあ?

生まれたてのザコにしか効かない筈だろう、ここの呪いは」

「成長しきった妖でも、強い感情を有していると増幅されてしまうのかもしれません。

今回はユウ――この狐を処罰するという目的があった為、攻撃性が増幅され狂ったと推測しました」

「そうなん? そんな可能性があるなんて親父さんからも聞いてないんだけど、あの無能」

「娘の前で父親を罵倒しないでもらえますかね」

「ああ、これは失礼」


意外な事に、本当にしくじったというように男が詫びた。


「じゃ、経緯を説明してくれ。

「……? それなら今話したばかり」

「隠さずに、全部説明してくれ」

「!」

「騙せると思ったかコノヤロウ。おめー明らかに様子がおかしいだろーがよー。

妖怪なんだろ、その狐。今のとこ祭りだワッショイピーヒャラピーヒャラやってるだけで平和なもんだが、こいつがもし殺意的な意味でヤバい方向に転んだ時、味方側に不確定要素があったら嫌じゃんかよ。

だから手に入る情報は全部ゲットしときたいんだわ。お叱りは後でな。今はとにかく話せ」

「……わかりました。すみません」


小声で俯いたかがりに少し笑うと、男はタレの滴るイカ焼きにがぶりと噛み付いた。

驚いたのはかがりである。何か持っているとは思っていたが、周囲の光景に溶け込みすぎて意識から外れていたのだ。


「何を食べてるんです!?」

「何って、イカ焼き。そこで売ってたやつ。味は普通だね。普通の出店のイカ焼き味」

「……失礼ながら、ヨモツヘグイや馬糞のぼた餅って言葉をご存知ですか?」

「知ってる。でも腹減ってたからさ。狐くんも食べる?」


差し出されたイカ焼きから漂ってくる甘辛くて香ばしい匂いに、ユウは思わずぱたぱたと尻尾を振った。

が、かがりがきつい目で見てきているのに気付き、慌ててぱたりと下ろす。


「フッチーも食べる? ゲソ焼きやるよ。ってそういやえらい大荷物だな」

「夕飯の買い物ですよ。でも、こうなると全部捨てて身軽になっておいた方が良さそうですね」

「んあーそりゃ勿体ないぞーやめとけ。なんか出てきたら投げ付けて怯ませる役には立つだろ。

納豆のパックは全部開けとけよ。ああ葱もあるのか、ぐっちゃぐっちゃに潰しときな。あいつら臭いの嫌いだからな。

つか半分持ってやるわ、ほれほれ寄越せ。恵方巻きと同じく現在大ブームのフィーメルファーストってやつ」

「違います。それから、戦闘前提ならそちらこそ手ぶらであるべきです。

今回はお気持ちだけ有り難く」

「まあそうだな、強い方がフリーになっとく方が無難か」


かがりが申し出を断ると、男は差し伸べた手をあっさり引っ込めた。

その緊迫感の皆無なとぼけた顔に、かがりから溜息が漏れる。

束の間会話が途切れたのを頃合いと見て、ユウがリードを咥えて引く。

喋って構わないか尋ねてきているのだと気付き、いいぞとかがりは言った。

ユウは、おずおずと男を見上げる。考えてみればかがり以外の人間と正面から言葉を交わすのは始めてであり、許可を得ているとはいえ、いざ話すとなると幾分緊張した。

こういうのは勢い任せに喋ってしまうもので、相手からじっと見詰められながら改めてとなると実にやり辛い。

かといって、黙っているという選択はユウの中に存在しなかった。

この男が現れてからのごく短時間で、気になる謎が山盛りである。


「…………あのお……」

「うん」


かがりとはどういう関係なのか。

妖怪についてどこまで知っているのか。

しかし何よりもまず聞くべきは。


「おじさん誰?」

「おっちゃんは市長だよ。よろしくな」


狐が喋った事を不思議がるでもなく、男は朗らかにそう名乗った。

ユウは一瞬虚を突かれ、次いで「シチョウ」の音に当て嵌まる文字が何か分かった瞬間、驚きのあまり甲高い声をあげた。


「シチョー!? シチョーって市長!?

すごいよかがり、長だよ! 一番偉い人じゃん!」

「んあーそんな大したもんじゃない、市長なんて所詮この市で一番偉いってだけだわ。まあこの市で一番偉いんだけどな」

「一番偉いんだって!!」


興奮して捲し立てるユウに、それは一体何の報告なんだと脱力するかがり。

市民に聞かれたら落選しそうな事を平然と言ってのける姿に、かがりの方が思わず周囲を気にする有様だった。

一方でユウは、群れでの集団生活を送ってきた妖として、長という身分へ無条件で尊敬の眼差しを向けている。

社会性を持つ数少ない妖怪にとって、身分とは単純な力量の差だ。

強い者が弱い者を気紛れで重用もしくは寵愛する事はあっても、弱い者が強い者を従え使うという事はまず起こり得ない。

市長、即ち長、即ちこの昼間原市を治める者。そしてかがりは市に雇われているのだと聞いている。

ならばヒーローであるかがりの上に立つこの人間も、さぞや強くて凄いに違いない。期待に満ちた眼差しをユウは男に向けた。

いまだ人間社会への理解が完全ではないユウにとっては、身分や役職に対する認識も単純なのである。


大柄な男だった。

ざっと見積もっても身長は180cmを超えているだろう。

長身を包むのはライトグレーの厚手のスーツ。ぴんと襟の立った白のシャツに、左右均等な結び目も美しい、薄くストライプの走った紺色のネクタイ。そして丁寧に磨かれた黒光りする革靴と、

いずれもひと目で逸品である事が窺える。

この寒さの中でどういう訳かロングコートの前を閉じず、後ろへ流したマフラーと合わせて肩に引っ掛けるように着ているせいで、ラフさが前に立ち高級感は幾らか薄れてしまっているが、おかげで成金趣味を感じさせなくなってもいた。

髪は、フェルトの中折れ帽にほとんど隠れている。

おそらくオールバックで、見える範囲の黒髪には所々に白髪の筋がひび割れのように走っていた。染めてはいないらしい。

眉間に向かいぐっと締まった眉。半分眠っているように下りた瞼と、面白そうに、そしてどこか皮肉げな笑みを湛えている口元が、面長で角ばった顔立ちに漂う厳しさを幾らか緩和していた。


全体的に見て、身なりは非常に整っている。

年齢に疲れてもいなければ地位に溺れてもいない、いいところ勤めの堅実な重役。外見から受ける印象はまさしくそれだ。

会社員としても政治家としても、組織の代表として公の場に立たせて恥ずかしくない容姿という意味では申し分ない。

長い脚に、しゃんと伸びた背筋。45歳という市長職に就くにはかなり若い年齢からは、歳月を経て得られる貫禄とは別の力強いエネルギーを感じさせる。

くたびれた年寄りよりもこちらを、と好感を持つ人間が多くてもおかしくはなかった。


問題は口調である。

何かとスキャンダルが取り沙汰される昨今、政に関わる者となればプライベートでも、否、むしろ本性が現れるプライベートでこそ最も言動に気を配らねばならないという風潮に真っ向から逆らい、

こと職場を離れるとざっくばらんにも程があるのがこの男だった。

乱暴、適当、品性の欠如。

十代二十代の若者ならともかく、市政のトップという高い社会的地位を持つ四十過ぎの男の話し方ではないが、何故か本人にも、そして周りにもそれを気にする様子は一向にない。


「おっちゃんは蟻巣塚っていうんだ。はい、これ名刺」


蟻巣塚は屈むと、ユウの顔の前に名刺を差し出してみせてから、それを首輪に挟んだ。


「かがり! 名刺もらった!」

「良かったな」


どう答えたものやら、これは。

喜ぶユウの頭を撫でてやってから、かがりは改めて一から説明を始めた。

先程は触れずにいたユウが山を出てきた動機の件や、この際だからと店を改装しようと思っている件、幻の祭りに迷い込むまでの流れも含めて、今度は包み隠さず蟻巣塚に話す。

蛇を手放した事については厳しく咎められるのを覚悟したものの、蟻巣塚は表面的には聞き流していた。

むしろ、最も目立った反応をしたのがユウの英雄志願の話が出た時であった。

英雄ゥ?と初めに素っ頓狂なガラガラ声をあげ、次いで呆れたように、あるいは本気で感心しているように蟻巣塚が唸っている間、ユウはずっと誇らしげに胸を張って座っていた。

そこは自慢するところではないと、話の合間にかがりはこっそり溜息をつく。

最後にこれから実行しようと考えていた脱出計画を説明すると、蟻巣塚も賛同した。


「まずはそれを試すんでいいんじゃないかね。協力するぞ、人海戦術といこう。

率直に言って、どう現状打破したらいいかオレにも分からん。こういう時は地道にいくのが一番だって遠い親戚も言ってたし、な」

「本当に言っていたんですか、それは。どうせいつもの適当な吹かしなんでしょう」

「ご機嫌斜めだなフッチー。このまま出られなきゃそろそろ生モノが傷み始めるもんな」

「ですからその呼び方はやめてくださいと何度も」

「そんなに嫌なのか……よし、特別にオレの事もアリスって呼んでいいぞ」

「双方共に嫌です」


かがりは力強く言い切った。

そういえばフッチーって何なのと、だいぶ遅れてユウが尋ねる。

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