新しく蟻巣塚を加えて、予定通りに信用金庫をスタート地点とした探索を始める。
先程までと比べて驚くほど気持ちが軽くなっている自分に、かがりは驚いた。
人数が増えたからといって安心はできない。当の蟻巣塚がこの幻に関しては何も分からないと断言しているのだから、最悪このまま共倒れに終わる可能性が消えた訳ではない。
それでもやはり、いるのといないのとでは肩に掛かる重みがまるで違う。相手が自分より優れているとなれば、特に。
ユウがいるのだから、弱者がいるのだからしっかりしなければと、思っていた以上に気負っていたらしい己を自覚し、かがりは密かに顔を赤くした。
実力以上に力んでも良い結果をもたらさない事は理解していたというのに、いつの間にやら保護者気取りになっていたようだ。
やや先行していた蟻巣塚が、額に皺を寄せ、不服そうに唇を引き結んで戻ってくる。
「そっち、何か見付かった?」
「いいえ。そちらはどうです」
「こっちもさっぱりだ。狐くんは?」
「ユウだよ。見付からない、変な匂いもしない。
もともと俺こういうの苦手だけど、いろんな食べ物と湿った石の匂いしか嗅げない」
「ふう、きっつい完成度だなこりゃ。綻びのホの字もないときた。
ちょっと休もう。おっちゃん疲れたわもう」
「またですか」
「市長のおじさん、さっきから休んでばっか」
「アリスだよー。四十過ぎると人間続けて動けなくなってくるんだよ。
日々近くは見えにくくなってくるし堪ったもんじゃねえな」
蟻巣塚はかがりとユウの脇をすり抜けて、さっさと歩道の境界ブロックに腰を下ろしてしまった。
本来なら歩道と車道を簡易的に仕切る為のそれは、今は祭りを楽しむ客たちが飲み食いする為のベンチ代わりに使われている。
家族連れと友人グループの隙間に平然と割り込み膝を伸ばしている蟻巣塚の姿に、かがりとユウは顔を見合わせた。
焦りから癇癪を起こされるよりは良いが、こうも危機感に乏しいというのもそれはそれで不安になってくる。
おまけに何度かがりが止めても買い食いをやめようとせず、今も思い出したように立ち上がっては出店に向かっている。
「私たちは、もう少し探してみよう」
「そうだね」
ここまで開き直って堂々と振る舞えないふたりは、蟻巣塚の休憩中も地道な作業に勤しむ事にする。
「うぉい」
そんなかがりとユウを、蟻巣塚が呼び止めた。
ふたりが慌てて振り返ると、蟻巣塚は出店の列に並んだまま「あれ」ととある方向に親指を向けている。
道の左側には、小さな会計事務所。
右側には、この商機を逃すまいと開放した店先に簡易テーブルと料理と酒を並べ、威勢よく呼び込みを行っている中華料理屋。
場所柄、一時的に出店の列が途切れた空白のスポットに、流れていく人の群れを避けながら困惑顔で立ち尽くす一人の老人がいる。
店からそのまま出てきたと思わしき真っ白な調理服に、祭りを満喫している周囲の客から明らかに浮いた表情。
「稲荷寿司のおじいちゃん!」
思わず叫んでしまい、ユウは慌てて口を閉じた。
しかし意外にも、かがりは大丈夫だという顔をしてみせる。
とはいえ思わぬ遭遇に驚いていたのは、かがりも同じであった。蟻巣塚に続いて、がま寿司の店主までとは。
いずれにせよ放っておく訳にはいかない為、ユウの声に反応して振り向いた光安へ大きく手を振ってみせる。
光安もかがりに気付いた。目を丸くした後、ほっとした表情となって早足に近付いてくる。
年齢を感じさせない意気軒昂な老人も、さすがにこの状況では心細かったらしい。
「おいおいおい、どうなってんだいこりゃァ……!
なんだって今頃祭りぃなんざやってるんだ? しかもこの祭りどこまで続いて……っぐしゅ! うう寒ぃ!」
「そしてまた一人追加か。女におっさんに狐にジジイ。鬼退治はできそうにねえなこりゃ」
「……ああ? おめぇ蟻巣塚かよ。どうしたいふたりでほっつき歩って」
かがり達の背後から、蟻巣塚が歩いてくる。
光安と交わす気安いやり取りからは、両者が既知の間柄である事が窺い知れた。
かがりも頭を下げる。おう、と光安は口元を綻ばせ、次いで足元から熱い尊敬の眼差しを送ってきているユウを見た。
「ほ! こないだの……そうそうフェンネック・ギッツネ!」
惜しい。狐ではあるのだが。
テレビからの情報か。それともまたあのペットショップが何かしでかしたのか。
とはいえその程度の間違いで「あの稲荷寿司の握り手」という評価に傷がつくものでもなく、ユウの視線は揺るがない。
待ってても稲荷寿司は出てこないぞと言ってから、かがりは光安にここにいる事情を訪ねた。
「店ぃ開けよぉとしてたらな、外から音が聞こえてきたんだよ。ほれ、あのピュロー、ピローって」
「祭り囃子」
「それだそれだ。なぁんでこの時期にと思って外に出てちっと見に行ったら、ホントに祭りやってやがってよ!」
「で、そのまま帰れなくなったと」
「そうよ。あ、って事ぁなんだおめぇらもそうかよ」
光安は、短く刈り込んだ薄い頭髪をざらりと撫でた。
話を聞いて、かがりの表情は険しさを増す。
今までずっと歩いてきた道沿いに、がま寿司は見当たらなかった。というよりも、店がある場所はまるで逆方向である。
なのに、少し見に行ったらと光安は言った。つまり、がま寿司からそう遠くない地点でこの幻に巻き込まれた事になる。
考えられる可能性は三つ。ひとつは幻術の適用範囲が想定より遙かに広く、街全域を覆いつつあるか。
もうひとつは、幻術の範囲は固定されているが、広範囲に及ぶ誘導効果を付与してあるか。
最後は、現実の昼間原市の位置関係までもが歪められているか。こうなるともはや幻と呼んでいい範囲を超えている。
そして三つどれもが、高度過ぎて到底手に負えないという有り難くない点で共通していた。
専門家の苦悩など露知らず、光安はぶつくさとぼやいている。
「訳が分からねぇし店には戻れなくなるし寒ぃし、まったく冗談じゃねえや」
「この寒空でその格好じゃ年寄りには堪えるわな。ほら着てろ」
蟻巣塚はコートを脱いで光安に渡し、ついでとばかりに頭に帽子も乗せた。
光安は遠慮せずに受け取って羽織ると、どうだい、と襟元を合わせながらモデルのようなポーズを決める。
体格の違いでぶかぶかになっているが、なかなか様になっていた。緊迫した空気が幾らか和む。
一段階薄着になった蟻巣塚が、マフラーをぐるぐると首周りに巻き付けている。厚手のスーツとはいえそれでも寒そうだ。
手袋でもあればとかがりはコートのポケットを探ってみるも、そう都合良く出てくる訳がない。
仮にコートを脱いで蟻巣塚がしたように渡しても、きっと断られるだろう。
早く、ここを出る方法を見付けたい。市長が風邪でダウンなどという告知が役場に張り出されない為にも。
「次はこっちの手持ち情報開示だな。
巻き込まれた経緯は全員親父さんとほぼ同じだ。んでこの祭りは推定で通りひとつを飲み込むクラスのばかでかい幻術だ。
あとそこの変な色の狐は妖怪だ。ここから抜け出す手段はまだ見付かってない。以上でございます」
「説明されたら余計わかんなくなるって凄えなおめえ、それでも政治屋か。不信任ってのすっぞ、不信任」
「………………」
今さらっととんでもない事を言わなかったかと耳を動かすユウを、毒づいていた光安が見下ろした。
「おめぇ、あれか、妖怪ってやつなんか。そんだからかがりちゃんの所にいるんか?」
「えっ――あっ! ヒ、ヒャン! ファン! ワンワンッ!」
「犬だったか……」
首を振る蟻巣塚の隣で、かがりが苦笑した。
「もう隠さなくていいぞ。見切さんはお前みたいな存在にも馴染みがある」
「ワ……そうなの!?」
「ああ、役場のお偉いさん以外で、市やうちの事情を知ってる数少ない一人だ。
だからって無闇に言い触らす必要はないから黙ってたが、こうなればバラしてしまった方がやりやすい」
「じゃあ喋ってもいいんだね!
あのね、あのねおじいちゃん! 俺、おじいちゃんの作るお寿司が大好きでさ!
一番は甘い稲荷寿司だけど、他のお寿司もおいしくってね……!」
「後にしときな、ここを出たら寿司ぐらいオレが奢ってやるから。
そういう訳でだ親父さん、こっちも何とか脱出したくて悪戦苦闘してる最中なんだわ。
すぐに家へ帰してやると言いたいところだが、最悪市民を守りきれない可能性もある。市長として痛恨の至りだ」
「ああ……まぁ仕方ねえよ。ずっと店ぇやってるがこんなん始めてだしな。
狐もありがとな。なに、ワシの握りが妖怪にも通じるって分かっただけでも収穫さぁ」
「名前はユウだよ、かがりが付けてくれたんだ。市長のおじさんは呼んでくれないけど」
「お前もオレをアリスって呼ばねーだろーがよー」
「かがりが嫌がってるからやだ」
「そういうとこおめぇは本当に気持ち悪いな……」
ここで改めて現状に関するやや詳しい説明が為され、光安も一同に加わる。
蟻巣塚と違い、こちらは探索戦力としての期待はできない。
光安は「妖怪の実在を知る人間」の範囲を出ず、かがりのように妖そのものと関わる事を生業にはしていないからだ。
よって引き続き蟻巣塚は単独で、かがりとユウは保護役を兼ねて光安と行動を共にする事に決まった。
かがりに次いで尊敬する人物と堂々と話せる嬉しさから、ユウはすっかり不安を忘れたかのように明るくなっている。
浮かれていられる状況ではないとかがりは釘を刺そうとし、前向きでいるのはいい事だと思い直した。
わざわざここで、新たな犠牲者が増えただけだなどと口にする必要もあるまい。
固まって歩きながら、ユウが問う。
「ねえねえ、かがり。
さっきちょっと言ってたけど、市長のおじさんって強いんだよね? だって長だもん」
「ああ強いぞ。……あとな、普通は市長って別に強くないからな」
それは何も市長に限った話ではない。
昼間原市の行政関係者でも呪いの件を知っているのはごく限られた上層部の人間だが、彼らでさえ、この土地はこういう事情を抱えていると「知っているだけ」の者が大半なのである。
しかしながら市長ともなれば、さすがに情報を得ているだけの一般人では務まらない。
蟻巣塚は、限られた中の更に限られた存在だった。
かがりは振り返り、離れた位置を一人で歩き回っている蟻巣塚の背中にちらっと目をやる。
そう、一人に任せておいて全く問題ないのだ。蟻巣塚の高い実力を考えれば、かがりが脇で補佐をするメリットは然程ない。
情けない話だが、蟻巣塚が見落とすような物ならまず間違いなくかがりも見落とすだろう。
「おじいちゃんも、かがりや市長のおじさんみたいに戦ったりできるの?」
「いいや、できねぇ。
たまぁに妙なもんがうろついてんの見た時ぁ、汚えし邪魔だからゴミ箱に突っ込んでるけどよ」
「それだけできれば充分なんじゃないかな……」
「見切さんは我々みたいに専門技術を学んで、それを仕事にしてる訳じゃないからな。
妙なものが見えるし、少しなら自分で対処できるという……よく言う霊感の強い人ってやつだ」
微妙に気恥ずかしそうにかがりは言った。
逆に言えば、霊感が強いというだけで、専門家でもないのにこの落ち着きぶりという事になる。
これは元から光安の肝が据わっているのもあるが、最も大きいのは慣れであった。
個々の危険度合いはともかく、昼間原ではそうした存在を見掛ける機会自体は他より格段に多い。
まして光安は昼間原の呪いに関しても、かがりの父や蟻巣塚との付き合いを通して知っている。
情報の多さは、精神へ安定をもたらす為の何よりの強みだ。
ただ、本当に呪われている土地だと聞かされて尚平然と商売を続けてきたのは、やはりこちら側の世界向きだとしか言えないが。
「……私に市長、それと見切さん。
今のところ巻き込まれているのは全員れいか……そういう力を多少なりとも持つ人間ばかりだ。
これが条件だと仮定すると、他にもいるかもしれないな」
「いるの?」
「わからない。街全体でれい……術者やらの……霊感持ちが何人いるかなんて把握してないから。
この三人だけかもしれないし、どこかで知らずに巻き込まれて困っている人もいるかもしれない」
専門家、あるいは光安のように能力を自覚してある程度コントロール可能な人間なら、少なくともそちら絡みの異変だと察する事はできる。
だがもしも無自覚なまま巻き込まれた者がいたとすれば、頼るべき知識が無い分その境遇はかがり達より更に悲惨だ。
自分の暮らしている街で、あるいはたまたま立ち寄った街で、歩いても歩いても同じ道から出られない恐怖は筆舌に尽くし難い。
今までのたっぷり数倍の時間をかけて、かがり達は通りを一周して戻ってきた。
覚悟していたとはいえ、見覚えのある信用金庫の看板が遠くに現れた時、胸の中に陰鬱な気持ちが広がっていく。
片側の歩道沿いを確認しただけだから、まだ半分残っている。しかし言い方を変えれば、もう半分しか残っていないのだ。
冬の夜の寒さも、かがり達から着実に体力を奪い続けていく。
「これほとんど肉入ってないね。
祭りで変に具沢山の高級品売られても冷めるけど」
蟻巣塚が戻ってきた。
調査の間もたびたび適当な出店に並んでは買い食いをしていた彼は、今も違う品を手に持っている。
プラスチックのパックに詰め込まれた、焦げ茶色の麺。香ばしいソースの匂い。
「おじさん、また食べてる……」
「おめぇはよぉ、本当に……」
ユウが呟き、光安は呆れ顔だった。
何を言っても無駄だと最初以来諦めていたかがりも、語気を多少強めて嗜める。
「いつまで食べてるんです。というか、それで何個目ですか?」
「イカ焼きに牛串、あんず飴。焼きそば。あとビール」
「食べ過ぎです! しかも酒まで……」
「ああ、そろそろ打ち止めだ。食った食った。
食べたが全然腹に溜まらないんだな、これが」
面白くもなさそうに、蟻巣塚が言った。
「魚介も、肉も、果実も菓子も野菜も穀物も、酒もだ」
今まで食べてきたものを、それらの出自を、頭から順番に蟻巣塚が並べていく。
時間にすればほんの二言、三言。それを聞いている間、かがりの周囲からは他の全ての音が途絶えたかのように思えた。
「幻だな」
空になった焼きそばのパックを、蟻巣塚は割り箸ごと平然と投げ捨てた。
歩道に落ちたプラスチックパックは、青海苔と紅生姜の欠片を内側にへばり付かせたまま、無くなりもせずそこにある。
「確定。異界じゃなくて幻。
ああして販売されてる時は、見た目も匂いも食品そのものだ。
実際に食ってみてもそう。手に取った際の重み、舌に乗せた際の味わい。
口に入れて噛んでる間も、喉を動かして飲み込んでる間も、あれらは確かに食い物としてそこに在った。
……が、腹に入った途端に消えた。まさに喉元過ぎれば、だ。すうっと、まるで煙みたいにな。
水にも大地にも、どれひとつとて真実は存在していなかった。
ここにあるのは幻だ。それも、誰かさんの目に映る範囲だけに効果の及ぶ幻だ。
食う前には、在った。噛んで飲み込んでる間も、頬と喉の動きという形で、在った。
完全にオレの胃袋に収まってしまったせいで、姿形、動き含めて存在を視認できなくなったから消えたのさ」
「……市長、それは……」
ああ、と蟻巣塚が頷いた。
視認できない範囲に入った途端に消失したというのなら、即ちそこには俯瞰する視線が存在しているという事になる。
「野郎、どこかで見てやがるな」
心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、かがりに走った。
ぎょっとしたユウは、思わず視線の主を探して鼻先をあちこちへ動かす。
理解が追いつかず戸惑っている光安の肩をポンと叩いて安心させると、蟻巣塚は深く、深く息を吸い込んだ。
「ッおおぉぉおおおおおおいいいいいい!!!!! 出てきやがれえええええええええぇぇぇぇ!!!!!」
ユウが悲鳴をあげて飛び上がった。
不意を討たれたのはユウだけではない。光安はうおっと叫び、何事だという目で蟻巣塚を睨んだ。
一応の平静を保っていたのはかがりくらいなものだ。それでもさすがに、一瞬びくんと体を震わせてはいたが。
「す、すっごい声!」
「鍛えたからな。政治屋は地声が命」
蟻巣塚は自慢げに喉を撫でる。
あれ程の声量を誇るという事は、大声の出し過ぎで喉を痛めてこのガラガラ声になった訳でもなさそうだった。
「で、反応はなしのつぶてときた。次は……そーだな、適当な通行人一人捕まえて全員で殴り続けてみるかい?
どうせこいつらも偽物……いやしかし万一本物だった場合オレの政治生命に悪影響が及ぶな」
「政治生命よりも市民の生命を心配してください」
「んー、よくわからんが叫びゃあこっから出られるのかね?」
「そういう事でもないかと……」
首を捻る光安に、あれは特別ですから、とかがりは小さく言った。
蟻巣塚の声は一種の術である。声そのものを術として行使する道を探求してきた家系の出と言えば、より正確になる。
この世界に身を置く者達にとって多かれ少なかれ戦いは避けられない運命であり、その為の手段も流派によって、個人によって多岐に渡る。
剣、槍、弓、格闘、符、呪具、結界、毒、式神――効率良く仕事をこなす為に、華々しく活躍して名を売る為に、もっと単純に自らの命を守る為に、それぞれの家はそれぞれが選んだ技を磨き、伝え、今に繋いできた。
中でも声というのは、多くの技術にとって重要な要素である。
号令や指示に始まり、特に術などは声を発動の引き金としているものも多い。所謂、詠唱と呼ばれるのがこれだ。
それをもう一段階先へと進めたのが、蟻巣塚の生家であった。
元々は、他家とさほど代わり映えしない……堅実ではあるが平凡な術者の家系として細々とやっていたらしい。
それが何代か前の当主が、ふと考えた。魔が差したのか悪い血でも騒いだのか、考えてしまった。
あれこれ唱えて術を発動させるなどというまどろっこしいやり方より、いっそ声そのものを術にしてしまった方が早いのでは、と。
あながち、狂ったかとこの当主を攻められまい。
それに近い事は、気合いで相手を威嚇するといった行為を通して、多くの場合において自然に行われていたのだから。
そして事実、形にしてしまったのだから、優秀ではあったのだろう。
蟻巣塚の話すところ力は声に乗り続け、周囲の対象へ作用を及ぼす。
こうしてやろう、と意識して喋るだけで良いのだ。符一枚所持している必要のない手軽さであり、不意を討つという目的にこれ以上適った方法もない。
ただし弱点もある。
声を引き金として発動する術や道具なら、実際に対象へ効果を及ぼすのはその符なり道具である。
しかしこれは声そのものが引き金であり、そして弾丸でもあるのだ。よって、声の届かない範囲にはそもそも効果がない。
おかげで遠距離向きのイメージでありながら実は近接になる程強いという難儀な性質の術であり、やはり馬鹿だったのではないかと蟻巣塚がぼやくのをかがりは聞いた事がある。
声の届く範囲を広げる為に、蟻巣塚の一族は何らかの肉体改造すら施しているという噂もあるが、さすがに詳細はかがりも知らされていなかった。
ただ相手に語りかけるだけでの催眠、暗示、思考のコントロールを可能とし、いざ戦闘となれば声を大砲のように放ち剣の如く切り刻む事も出来るというが、これまた蟻巣塚の戦う姿をかがりは見た事がない。
命懸けの荒事が嫌で、渡りに船とばかりに誘いに乗って昼間原に来たというから、わざわざ好き好んで喧嘩などする筈がなかった。
そういう意味では、今回のトラブルは彼にとって災難にも程があるという事になる。
「あれっ、でも声に力が乗るって……市長ってセンキョっていうので決めるんだよね? あれ?」
「ノーコメントだ。……一応言っておくが、正式に認められた上での地位だからな」
やましい行いはないと分かっていながら、かがりはゴホンと咳払いをする。
理由が理由だけに能力者のトップ就任は最初から決定事項なので、仮に蟻巣塚が何かしていようがいまいが結果は変わらなかった。
だから問題はないのだ。それに市長としての職務は真面目かつ忠実にこなしている。だから問題はないのだ。
と、その時驚くべき事が起きた。
特に前触れもなく、かがり達を取り囲む祭りの景色が揺らぎ、一斉に霞み始めたのである。
明らかな異常事態――いやさ、異常から正常へと戻ろうとしている動きであった。
切っ掛けとなるものをあえて探すなら、先程の蟻巣塚の咆哮に他ならない。
「な――まさか本当に破った!?」
「すっごいや、おじさん!」
「いいや、何もやってない」
驚くかがり、興奮するユウとは対照的に、蟻巣塚は冷めた声でいる。
まるで怒った犬のように鼻面に皺を寄せたしかめっ面で、変化していく周囲を睨んでいた。
それを見たかがりもまた、冷静になる。
「何もしていない、という事はつまり……」
「勝手に解けていってると見るべきだろーなあ。
さてさて意図して解かれたもんか、はたまた相手の限界か時間制限か。
幻が消えたら街がなくなってたなんて事になってなきゃいいけどね。そしたらオレは市長から瓦礫長だよ。墓守にでも転職すっか」
「そういう笑えない冗談はやめてほしいですね」
かがりは顔を顰めたが、声には力が欠けている。
これだけの幻術を張る相手だ。幻が消えたら街がなくなっているという危惧には、少なからず現実味があった。
あるいは蟻巣塚は全く冗談のつもりでなく言ったのかもしれないし、かがりはどうか冗談で終わってほしいという願望を込めて嗜めたのかもしれない。
為す術なく見守るしかない一同の前で、やがて、ふっと夢が途切れるように見慣れた街の光景が戻ってくる。
あれ程苦労させられたにしては、あまりにも呆気ない幕切れだった。
自分達を囲む異空間が半透明になって薄れていき、元の町並みと溶け合って飲み込まれて消える。
画用紙に濃い鉛筆で描いた絵を、消しゴムで何度も優しく撫でて消していけばこうなるだろうか。
おお、と光安が弾んだ声をあげる。あの幻の祭りから抜け出せたと思っているようだ。
かがりはそう純粋に喜んではいられない。無論抜け出せたのは喜ばしいが、術の実行者に関しては一切不明なままである。
倒すどころか声を聞く事も、姿を捉える事も出来ていない。ただ一方的に翻弄されて、一方的に片が付いた。
決着と呼ぶには程遠いからこそ、やらなければならない仕事が大量に残っている。
疲労と安堵とが綯い交ぜになってくらくらと揺れる頭を叱咤し奮い立たせると、かがりは現状の把握に努めた。
まずは、自分たちと同じく幻が消えて戸惑っている人間がいないか探す事からだ。
踏み出した足がふらつきかける。立っているだけで息が上擦っていた。極度の緊張からの解放がもたらす一時的な過呼吸に近い。
かがりはふうっと大きく深呼吸をし、ともすれば笑い出しそうになる両膝に力を込めて立つ。
「かがり……大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だ。
それよりも、他に巻き込まれた人を探さないと……確認して回らないと……」
「なんて言って聞いて回るのさ。さっきまでここでお祭りやってたけどあれって幻術だったんですよって?
無理無理、無理の無理。それこそゲンジツ的じゃない。あ、これ『現実』の方の意味ね。幻術と現実をかけた高度な」
「市長!」
「はいはい、はいのはい。
まあね、真面目な話そんなフラフラな状態で仕事しようとするならオレは止めるしかない訳。
時間もだいぶ遅いし、今から一人一人探して回って聞き込みなんて出来ないでしょ。
だから今日はもう帰って飯食って風呂入ってあったかくして即寝る事。いいね」
そう蟻巣塚に言われ、かがりは時間を確認して驚いた。
幻は作れてもさすがに時間操作までは無理だったみたいだなと、蟻巣塚が言う。
「ですが……」
「休みなさい。いいね?」
「………………」
「返事は?」
「はい」
「いい子だ」
蟻巣塚は、岩石のような顔をほぐして笑った。
「狐くんもお疲れだったね。
約束したのに悪いけど、寿司はまた今度な」
「うん、楽しみにしてる。あのね俺、稲荷寿司と、あとマグロのやつと、それから……」
「そのうち店に食いに来いや。かがりちゃんもな。
カウンターにゃ座らせてやれねぇがよ」
「ええ、近いうちに必ず。
……今日は、ひとまず無事で何よりでした。本当に良かった……」
「親父さん、このまま店に帰るだろ?
念の為に送ってってやるよ。ここでコート奪い返すのも老人に優しくないしな」
「おう、悪ぃな。
ああ、そういや鍵かけずに出てきちまったんだよなぁ。野良猫が入り込んでねぇといいが」
今になって心配になってきたらしく、光安がそわそわとし始める。
しかし、こうして店の心配が出来るというのは幸せな事だ。何はともあれ帰る場所が戻ってきたのだから。
一同はその場で解散した。ぼやく光安を蟻巣塚が促し、すっかり人通りの減った、言い換えればこの時刻のいつもの昼間原を帰っていく。
かがりとユウは並んでその場に立ったまま、去っていく二人の背中を見送った。
「新しいお店のアイディアどころじゃなくなっちゃったね」
「……そうだな」
今日の朝から夕方までの他愛ない時間が、とても遠い昔の出来事のように感じる。
かがりが疲れ切った吐息を漏らしていると、だいぶ遠ざかっていた蟻巣塚が立ち止まって振り向き、声を張り上げた。
「ああ、そうだフッチー」
「……市長、ですからその呼び方は」
「もう名刺外していいぞ」
それだけ告げると、蟻巣塚はひらりと手を振り、それきり振り返る事はなかった。
名刺?と、言われた事の意味が分からずユウは首を傾げる。
一方で、かがりは厳しい顔をしていた。おもむろに屈み込むとユウの首輪に手をやり、挟んであった名刺を抜き取る。
何の変哲もない、ありきたりな名刺だ。しかし注意して観察すれば、二枚の紙を細心の注意を払って張り合わせてあるのが判った。
かがりは端に爪を掛けて、慎重に剥いでいく。何箇所か破れ目を作りながらも、やがて名刺は二枚に分かれる。
そこには、細かな文字でびっしりと呪言が記されていた。
掌に収まるサイズの紙片の隅から隅まで、文字が敷き詰められているという状態をかがりは目の当たりにする。
呪符、とこの世界では言う。
特殊な素材と製法で作られた紙に、あるいは市販の紙にさえも、文字と紋様を書き記す事により様々な効果を有する触媒へ変える。
合図ひとつで、ユウの首から上はいつでも吹き飛ばされる状態にあったのだ。
蟻巣塚奏詞。専門は声を用いた術。
されど、それ以外が使えない訳ではない。
かがりに名刺の内側を見せられたユウは束の間絶句し、僅かに震える声で呟いた。
「すごいけど……怖い人だね」
「そうだな」
かがりは同意する。
だからこそ、いわば末端の歯車である自分は安心して穏やかなバケモノ狩りをしているだけで済んでいられるのだ。
済んで、いられたのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!