灯玄坂の巣の中で

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狐の街入り - 3

公開日時: 2020年9月2日(水) 23:35
文字数:2,593

診察を終えて帰宅するや、狐はお座りをしてから前脚を持ち上げて立った。

早くこの服を脱がせてくれ、という要求らしい。

そこまで嫌がらなくてもと思いつつ、かがりは服をたくし上げて脱がせてやる。

せいせいしたというように何度も体を掻き毟ってはぶるっと震える狐を横目に、まずは持ち帰った品物の整理に移った。

脱がせた服はたたんで、檻の横にあるプラスチック製のカゴの中へ。首輪とリードもそこへ入れる。

次は、病院で出された薬。

駆虫薬はきちんと貰えた。妖怪に寄生虫がいるとも思えない為、これは飲ませなくても大丈夫だろう。

最初から効果は期待しておらず、欲しかったのはしっかり管理していますという体裁だけなのだから。

とはいえ折角代金を支払った物を捨てるのも勿体なく、あとで肉に埋め込んで食べさせてしまうのがいいかもしれない。

無駄に歴戦を強いられている獣医は皮膚の異常にも当然気付いたが、さすがに正体までは見抜けなかったようで、だいぶ時間の経った皮膚病という診断止まりだった。

違和感に首を捻りながら塗り薬を処方している獣医に、かがりも幾分申し訳ない気持ちになる。

ちなみに狐の祈りが天に通じたのか、予防注射は免れた。


そして最後。

ある意味では、これが今回持ち帰った品の中で最も重要といえた。

帰路で立ち寄った書店で買った、名付け辞典である。

難しげに眉を寄せたかがりが本をぱらぱら捲っていると、やっと毛繕いを終えた狐が近寄ってきた。


「それなに? 何の本?」

「名付け辞典だ。お前に名前をつける参考に買った」

「名前? 俺の? ……なんで?」

「お前だのおいだのじゃ困る時も出るんだよ。現に今日困ったしな。

一応聞くが、お前名前は?」

「ないよ」

「だろうなぁ」


今度は数ページをまとめて摘んで捲りながら、かがりは早くも頭痛が始まったような顔をしている。


「狐……ポチ……コロ……いやこれじゃ犬の名前だ。

最初から見ていこう。あ、あ……昭雄……景吾、孝太郎……聡……ううん、人間っぽすぎるってのも不自然だな……」

「へんなの」

「うるさいな、名前をつけるなんて初めてなんだよ。ペットを飼った事もなかったし」

「あれっ、あの首輪や綱ってお古じゃなかったの? 飼ってないのになんであんなの持ってたのさ」

「あれは……まあ、ひょっとしたらいつか飼う機会があるかもしれないと思って……」


続きをぶつぶつと口の中で濁す。

聞き取ろうと頭を傾けて耳を向けてきた狐を、うるさそうに手で払い除ける。


「お前、自分で名乗りたい名前ってないのか?」

「キャプテンフォックス!」

「それを呼ばなきゃいけない私の身にもなれよ」


他ならぬ狐自身からの発案とはいえ、これは却下せざるを得なかった。

どうでもいいという割に即座に答えたのは、おそらく本気でどうでもいいからだろう。

かがりの事は例外としても、個々で持つ名前にほとんど価値を感じていないからこそ、名前など無いままでも構わないし、付けるなら付けるで迷う必要もない。先頭から番号を振っていく作業と同じである。

つまりは、やはりそれらしいものを人間が考えてやらなければならないのだ。

名前に多大な価値を見出すような種族であれば、こうも苦労する必要はなかったというのに。

否、それはそれで違った問題がついて回ったか。


かがりは考え、悩み、また考え、やがて投げた。

読んでいた名付け辞典を、どさりと狐の前に放り出す。


「お前、文字読めたな? これ読んで、候補になりそうなのを幾つか選んでおけ。

私は疲れたから、その間に夕飯の下拵えでもしてくる」

「えー……でも分かった、読んでみるよ」


狐が前脚で器用にページを捲るのを見届けてから、かがりは台所に逃げた。

野菜を洗って切り、水切り用のザルへ。肉を冷凍庫から出し、カボチャを電子レンジにかけ、米を研いで炊飯器にセット。

ついでに沸かした湯で紅茶を淹れて戻ってくれば、狐は思いのほか真剣に本と向き合っていた。

頭をやや斜めにして合わせた視線は、食い入るように開いたページに注がれている。

あまり期待せずに、かがりは聞いた。


「どうだ、決まったか?」

「うーん……わかんない! どれもいい気がしてくる!」

「どれでもいいの間違いじゃないのか? まあ名前がないのが当たり前の種族に選ばせればそうなるよな……」

「あ、ねえ、ところでここさ、純白って文字の隣に『くりいむ』って書いてあるんだけど、この漢字こんな読み方したっけ?」

「それは一切気にしなくていい。はぁ、いっそアミダくじで決めるか……でもそれもな……」


かがりは再び本を拾い上げると、トランプを切るような速さで投げやりに捲っていった。

この際名無しのままでもと一周回って元の位置に戻ってきたかがりの目が、次々に流れていくページのとある文字を捉える。

指が止まった。勢い余って進み過ぎたページを、何枚か遡る。

それは五十音順に並んでいる名前の、終わりも近い方。だいぶ薄くなった残りページの、うち一枚に燦然と輝く文字。


「……ユウ」

「へ?」

「ユウだ、ユウ。ユウにしよう。

英雄のユウで勇者のユウだぞ。どうだ、いいだろう」

「あっ、いいねそれ! 俺、名前にはあんま興味ないけど、それは本当にいいって思う!」


お世辞で言ったのではなく、今までの無関心さが嘘のように狐は喜んだ。

ユウ、ユウ、俺の名前はユウと口ずさみながら、囀る小鳥のように畳の上をぴょんぴょんステップしてみせる。

どうやらお気に召したらしい。かがりもまたもう一度ユウと声に出し、客観的に見てもおかしな名前ではない事を確認する。

ユウ。英雄のユウ。勇者のユウ。

分不相応な願望に突き動かされて群れを出、人に迷惑をかけた挙句仲間に殺されかけた、英雄からは最も遠い小さな狐の名。

英雄にはなれそうもない狐にその名を与えるのは、あるいは残酷な行為なのかもしれない。

だが名前とは希望を表す道標でもあり、ならば狐にとっての夢を形にして背負わせるのは、決して間違ってはいない。

少なくとも、かがりはそう思った。


――ユウ。


まだ無邪気に飛び跳ねている狐を見て、肩の荷が下りた心地になるのと同時に、命名という儀式を通してますます使い魔として強く縛ってしまったようで、かがりは若干の息苦しさを覚える。

せめて何かを得てここを出て行けるのか。それとも、何も手に出来ずに別れを迎えるのか。

見えない未来と、それがもたらす痛みを飲み込んで、まあいい、ここまできたらとことんだと、かがりは腹を括った。

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