ここは地方の小都市、昼間原市灯玄坂。
緩いV字型を描く坂に沿った住宅地の、ちょうど底にある一軒の店、きつねや。
つい先日、建築以来初となる看板が設置されたおかげで、ようやく僅かに店らしくなった建物の中では、実に騒々しい押し問答が繰り広げられていた。
「やだー!」
「ダメだ」
「嫌だったら嫌だ!」
「ダメだったらダメだ」
激しく争うは二人。否、一人と一匹。
かたや、幼児用よりも更に小さなサイズの服を両手に持った女。
かたや、嫌悪を顕に拒否し続ける狐。
向かい合って座った人間と狐がきゃんきゃん言い争う様は、狐が人間の言葉を喋っているという点さえ除けば、誰の目にも微笑ましく映る光景だったが、当事者の、特に狐にとっては笑い事ではない。
カッと犬歯を剥き出し、女を威嚇する。
「首輪はいいよ、慣れたし! 外に出る時にリード着けなきゃいけないのも我慢するよ!
でも服まで着せなくたっていいだろっ! そういうのはほら……えーっと、チクワ」
「チワワ」
「そうそれ。ああいう犬が着るやつで、狐は服なんか着ないの!」
「あのな、私だって面白がってお前に服を着せようとしてる訳じゃないんだよ」
諭す女に、狐は無言で自分の首輪を足先で指した。
またリボンの位置が変わっている。今日は首側だ。ついでに着脱式らしくデザインまで変わっていた。
「……服は、面白がって着せようとしてる訳じゃない。ちゃんと実用的な理由がある。
ほら、お前の傷跡。結構広い範囲の毛がなくなったところを鱗が覆ってるだろ。
はっきり言って遠目だと皮膚病か何かに見えてしょうがない」
「うええー……」
「あの家は変な皮膚病の狐を放置してるなんて噂が立ったら面倒だし、最悪苦情がくる。
ずっと家の中から出ないならともかく……」
家から出られないのは嫌だ。そう言われてしまっては狐も項垂れるしかない。
昼間原への道中でそうしてきたように、人目につきそうな場所では隠形を使い続けるという方法もあるが、妖にとって基礎中の基礎といえる技でさえ弱小な狐にとってはそれなりに疲労を覚える上に、一度かがり同伴で出歩く気楽さを味わってしまった後だと、もう駄目だった。
狐は首を捻って、かがりに指摘された場所を眺める。
弟狐の尾の一撃によって吹き飛ばされた箇所。大人が掌を広げたくらいの範囲の毛がそっくりなくなって、鱗に覆われた皮膚と置き換わっていた。
脇腹という位置は目立ち、範囲も割と広い。
しかも柄は赤と黒と黄色が入り混じったまだら模様とくれば、皮膚病だと勘違いされても仕方がなかった。
同情、嫌悪、衛生面。
理由は様々であれ、人間は一般に、病気の動物が身近に放置されているのを好まない。
よって、これを隠した方がいいのは狐にも理解できる。
が、理解できる事と心理的な抵抗のあるなしとは、また別の問題だ。
飼われている訳ではないから服など着ないという狐の主張も、また正統なものである。
とはいえ人家に日常的に出入りしている以上、建前としては個人のペットという形を取らざるを得ない。
餌目当ての野良狐ですなどと触れ回った方が厄介な事になる。下手をすれば保健所が動くだろう。
近所との余計なトラブルを避ける為には、いっそ完全なペットだという事にして、病気や食事などの管理もしっかりやっているとアピールした方が賢い。
故に理屈は分かる。分かるのだが――。
「そういえば、このまだらのウロコなんなの? トカゲ?」
「トカゲじゃなくて蛇だよ。あの兄弟狐の片方も言って……」
「ぎゃー!!」
かがりが言い終える前に、狐は絶叫して飛び上がった。
「やだ、ヘビ嫌い!」
「あのな、私も別に好きな訳じゃないが、そんなに露骨に嫌がるなよ。
お前の命を繋いでくれたんだぞ」
「ヘビ嫌い! しかもヘビでこの色ってあれじゃん! ヤマカガシ!」
「お、知ってたか偉い偉い。
それはうちの家系……まあ流派で代々受け継いできた山楝蛇の憑き物でな、ちょっと特殊な使い方をする。
式神みたいに行使するんじゃなくて、継承者の体に直に埋め込むんだ。
移植と父は呼んでいたな。いわゆる使い魔として命じる事ができなくなる代わりに、これによって術者の肉体は妖と半一体化し、身体能力面で人並み外れた性能を発揮できるようになる。後継者に譲り渡す時には、これ専用の術式を用いて師弟間での移植を……」
「ヘビ嫌いー! あいつら飲むんだもん! なんか飲むんだもん!」
治療直後にあれほど感謝していたのはどこへやら、蛇は嫌だと狐は喚き続けている。
この極端な嫌がりようからすると、山で暮らしていた時に余程酷い目に遭ったのだろう。
それでも引き剥がす訳にはいかないのだ。肉体の致命的な損傷箇所を補うのに用いたという理由もあるが、何より、生命維持を前面に押し出しての半ば融合に近い強引な移植を行った為に、剥がし方が分からない。
あれは、他の手段が一切無い中での賭けだったのである。
死んで元々の精神で、人間から人間へのみ受け継がれてきた憑き物を狐に移したら成功した。
まず狐に移している時点で尋常ではないのだから、戻す方法など皆目見当がつかない。
かがりは深く息を吐いた。
「こら、あんまりワガママを言うんじゃない。
私にとってはかなり便利な奴だったんだぞ? 蛇由来の生命力の強化に、基礎身体能力の向上に……」
「……蛇由来……あっ!
ねえ俺、もしかして毒を操る能力が身についてたりする!?」
「そういうオマケは無い。ついでに言うと私が得ていた生命力その他の恩恵もたぶん消えてる。
何度も言うけど助けるだけで精一杯で、手探り状態のまま無茶苦茶にねじ込んだからな。
生命維持装置というかペースメーカーというかただの蓋というか、とにかく傷を塞ぐ役にしか立ってないと思っておけ。変に過信するとまた穴が開く羽目になるぞ」
その蛇も原型を留めてるかどうか、とかがりは呟いた。
扱いとしては平らに引き伸ばして傷口に貼り付けたようなものだ。粉々に解体されてしまっていても不思議はなかった。
遅まきながら、蛇に悪い事をした気がしてくる。意志を交わした事さえ無いとはいえ、長く己が家で使ってきた存在だ。
もうひとつの問題である力の一部を失った事に関しては、然程かがりは気にしていなかった。
学んだ術まで忘れてしまった訳ではなく、この街に留まって仕事をするには不都合のない範囲の喪失である。
「家の中では脱いでていいから、外にいる間だけでも着ておけ。
野良狐と間違われる心配も減る」
「狐は最初っから野良だし……」
辛抱強く説得してくるかがりにまだ文句を言いながらも、狐はそれ以上逆らおうとはしなくなっていた。
蛇の話に触れた結果、かがりの大切な力を奪った事を思い出してしまったのが大きい。
かがり自身は特に気にしていないのだから、何とも意図に反したすれ違いである。
なるべく動きを妨げないようにと、かがりが選んだ緩めのフリースに、狐はおっかなびっくり首を通す。
「……どう?」
「ああ似合う似合う」
「かがり、絶対適当に言ってる」
着心地も居心地も悪そうにしている狐の背中をぽんと叩き、かがりは脇に置いたメモを見た。
扱いとしては、今の狐はかがりに飼われている事になる。となれば、必要な身の回りの品も色々と出てくる。
犬の飼い方の本を読みながら抜粋したチェック項目を、かがりは上から順に読み上げていく。
「外出時に使う首輪とリードと服はこれでよし。
あとはベッド……はあの檻でいいか。気に入ってるみたいだから中に毛布でも敷いてやれば。
食器も今使ってるやつでいいな。食事は……ドッグフード? キャットフード?
まぁそれも今のままでいいか。動物に人間の食事をやってはいけないと言うが、妖怪だしな。
ええと、どこまでチェックした。これで散歩、寝床、食器、食事は大丈夫、と。
あと……あとは……」
かがりは、ちらと視線を横に向けた。
何とか体に服を馴染ませようと、それこそ蛇のようにぐにゃぐにゃ蠢いている狐を眺めながら、ああ、あれだと頷く。
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