灯玄坂の巣の中で

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昼間原の女 - 4

公開日時: 2020年9月1日(火) 21:16
文字数:3,575

灯玄坂と呼ばれるこの付近一帯は、昼間原市南部の商業区域手前にぽっかりと空いたスポットであった。

二車線の道路は、その名の通りになだらかなV字型を描く坂道となっている。

近くの中学校の生徒からは、もっぱら心臓破りの坂と呼ばれていた。

実際の勾配はそこまできつくないにも関わらず、そのような物騒な通称が付けられているのは、ここが学校行事のマラソンコースに含まれている為である。


喧騒とも華やかさとも無縁な通りだが、そのぶん騒音に悩まされないとも言え、市の中心地までの近さもあって、住宅地としての人気はまずまず高い。

アパートやマンションは少なく、ほとんどが一戸建てで、近所の住民を相手にしているのであろう酒屋や飲食店が、所々にぽつんと顔を覗かせていた。

それほど車の通行量が多くない事もあって、日が落ちれば通りはほとんど真っ暗になってしまう。


その坂のちょうど底の部分に、女の家はあった。

家であり、店でもある。道路に面した前半分が店舗で後ろ半分が住居という造り自体は良く見かけるが、出入り口が狭い庭を挟んだやや奥まった位置にあり、かつ看板も無いとあって、前を通り過ぎただけではまず店だと気付かないだろう。

一見さんお断りの古道具屋。あるいは半ば趣味でやっている陶磁器専門店。

例えるならばそんな印象の商売っ気が薄い店構えは、気楽に立ち寄れる雰囲気からは程遠かった。


建物の中は中で、ガラクタだらけという感想しか浮かんでこない。

立て付けの悪い引き戸を開ければ、スペースというスペースは尽く雑多な品々で占拠されており、実質、通れるのは住居部分へ続く中央の狭い通路のみ。

勘定を行うカウンターも、上がりになった八畳程の畳の間の手前に置いてある無垢材のローテーブルだけだ。


飲み屋土産の折り詰めのように片手でぶら下げられて店まで連行された狐は、女がガラクタの山から引っ張り出してきた鉄製の檻に、有無を言わさず放り込まれた。

檻は狭く、いまだ手足を縛られたままの狐が背中を曲げるようにしてようやく収まる。

冷たい金属に触れた鼻が、ひりりと焼けるように痛んだ。


狐を放っておいて、女は荷物を畳の上に開けると、ひとつずつ点検を始めている。

作業中の女は終始不機嫌そうにしており、そのせいで狐は苦しいとも痛いとも言えずにいた。

自分が女のやろうとしていた仕事を台無しにしてしまったのは、この頃には狐にも理解できていたが、きつく張り詰めた部屋の空気は謝る事さえ躊躇わせる。

それでも、黙ったままでいる訳にはいかなかった。


「あの、さ……」

「………………」

「……ごめん、なさい。邪魔しちゃって……」


恐ろしさと申し訳無さから、謝罪は途切れ途切れとなった。

相変わらず機嫌の悪そうな女は、作業の手を止めて狐に視線を向けた。

あたたかみの欠片も無い眼差しに、狐は身が竦む思いがする。

今まで少々痛い目に遭ったり叱られた事はあっても、命の危険を感じた経験はなかったのだ。

当然だった。狐の無茶な振る舞いが冗談では済まなくなる前に、仲間達が止めるか守るかしていたのだから。


(あのまま、俺は殺されててもおかしくなかったんだ……)


囚われの身である恐怖と混乱の中でも、幾つか新しく分かってきた事があった。

この女は普通ではない。人間でありながら妖と同じ領域に属し、同じ世界を見られる者だ。

人間の中には、ごく稀にそうした能力を持ち、その力と技術を以て妖に拮抗する者が誕生する。

妖の歴史を語る時、それらが齎す害に抗い跳ね除けようとしてきた人間の歴史は切っても切り離せない。

化物など存在しないという常識に人間社会が支配された今、彼らの役割は減り、数も減ったといっても、存在自体は決して消えてはおらず、これからも失われる事はないだろう。


女はその力を使い、妖を――少なくとも狐が目をつけたあの妖を殺そうとしていた。

だが結果として乱入者となった狐のせいで、それは失敗に終わった。

事前準備も罠も、全てが無駄になった。逆に言えば、それ程狐という存在が女に齎した動揺は大きかったのだ。

多少なりとも妖と関わって生きる人間なら、この反応は大袈裟でなく当然だといえる。

敵に回した狐の強さ、厄介さは、この国に生きる妖でもトップクラスだからだ。

もっともすぐさまこの狐の弱さは見抜いたのだが、その時には後の祭りだったという訳である。


「ごめんなさい」

「……終わってしまった事を責め続けても仕方がない」

「あのね、俺……本当に邪魔するつもりじゃなかったんだ。俺……」

「仕方がないが、かといって言い訳も聞きたくない」


畳み掛けるように浴びせられる厳しい言葉に、狐は再び黙り込むしかなかった。

叱責された経験は山程ある。しかし仲間達からの扱いは、いつだってもっと優しいものだった。

それだけに、謝る事さえ許してもらえず突っ撥ねられるのは堪える。


「……言い訳、じゃないな。理由と言い訳は違うか。

話してみろ」


すっかり萎縮してしまった狐に、女が促す。

狐は項垂れていた顔を上げた。女は、困ったように眉間を寄せている。


「なんであんな場所にいたのか、あんな真似をしたのかを。

私だって気になってるんだよ。狐は昔っから滅多に町に出てきたりしないだろ」

「あっ……うん」


無愛想ながら丁寧に促されて、ようやく狐はたどたどしく頷いた。

この女に対する恐怖感はまだ強いが、自分のやってしまった事を考えたら説明する義務がある。

口を開くまでに生じた僅かな沈黙を、いつになく長く深い静寂に感じた。

そして狐は、己が身の上を語り始める。


――英雄志願の、狐の話。


要した時間は10分程度。

たっぷり一時間は語り尽くしたようであり、肝心の内容を全く伝えられずに終わってしまったような気もする。

何かしら失敗をしでかすたびに反省どころか得々と披露してきた未来の夢を、今だけは、ひどく口に出し辛く感じた。

途中一切の横槍を入れず、狐の話を最後まで聞き終えた女が発した第一声は。


「アホか」


であった。妥当な評価と思わない者を探す方が難しい。

類似する酷評は飽きる程浴びせられてきた狐だったが、女からのそれは一際骨身に染みた。

ここにいるのは甘い処分で済ませてくれる身内ではない。見ず知らずの、自分を殺せる力を持った人間である。


「英雄志願なんて、今日び人間社会でも耳にしないぞ。

志願以前に英雄って単語自体を日常で使う機会がないくらい、現代とは無縁な代物だ」

「うう、そうかなあ……」

「荒事なら私は大抵の人間に勝てるが、英雄なんか目指そうとは思わない。

強いだけじゃ英雄にはなれないし、そもそもこの国の社会が喧嘩の強さを求めてない。

お前の話を聞く限りだと、少なくともこの部分で人と狐の価値観は共通してるみたいだな」

「いいなー、俺が欲しかった力はそういうのなんだよ。

そこらの奴になんて絶対負けない力! すっごい力! それさえあれば俺は今頃さァ……」


喋っているうち徐々に調子を取り戻してきた狐だったが、女が再び睨んできているのに気付くと言葉を濁した。

哀れむような女の目に、少し傷付く。


「……俺、どんなに頑張っても弱っちくて。だけど夢は絶対諦めたくなくて。

狐の英雄は無理でも、人間の英雄にならなれるかもって考えたんだ。

やっと見付けたいい感じの街で、同じ事してる人間がいるなんて思ってもみなかったけど」

「私は英雄になりたくて守ってる訳じゃない。仕事だ、仕事」


女は緩く首を振って否定した。


「実力も無いまま抱く執念は呪いでしかない。お前だけじゃなく、お前の周囲の者達をも蝕む」

「……うん、知ってるよ」


狐の抱くそれは、夢というよりも最早持って生まれた呪いだった。

だがそうだとしても、それを捨てる事は、生きる意味を捨てて残りの生涯をただ消化していくに等しい。

くすんと切なげに鼻を鳴らし、狐は手足を縮めて丸くなった。


改めて見れば、狐の入れられた檻は檻というより巨大な虫籠だった。

底敷きがなく網が剥き出しの底面は、横たわる体にじわじわと食い込んできて、金属の冷たさを伝える。

と、不意に檻が浮き上がった。

再び下ろされた時、狐の視点は心持ち高くなっており、床の感触は幾分柔らかい。

女が檻を持ち上げて下に座布団を敷いてくれたのだと、狐には分かった。

狐は、しぱしぱと瞬きする眼を女に向ける。


「ありがと……」

「お前の処遇は明日決める。

それまで手足の封は解かないぞ。まぁ、解こうにも解けないんだけどな」


そう告げると、女は作業に戻った。

古めかしい室内からはやけに浮いている安っぽい目覚まし時計が、不安定に揺れ動く長針で時を刻んでいる。

意外と親切な人間なのかもしれないと思いながら、狐は自分の顔を抱くようにして丸くなった。

窮屈で、縛られた手足には鈍い痛みがあるが、眠れない程の苦痛ではなさそうだ。

眼を閉じると同時に溜まっていた疲労がどっと押し寄せ、信じられない程呆気なく狐は眠りに落ちていった。

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