灯玄坂の巣の中で

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昼間原の女 - 5

公開日時: 2020年9月1日(火) 21:18
文字数:9,265

明くる朝は、盛大な破壊音で幕を開けた。

ピピピピ、ピピピピと見た目同様のチープな電子音で起床時間を告げていた目覚まし時計を、布団から這い出してきた女が振り下ろした拳の一撃で叩き壊したのである。


「しょっちゅう壊すんだ。だから安いのを買い溜めしてある」


唖然としている狐に、下手をすれば昨晩よりも不機嫌そうに女が教えてくれた。

声は獣の唸りのように低く、据わった目付きからは生気が欠けている。

どうやら女は相当朝に弱く、かつ、その弱さは刹那的な暴力という形で発散される傾向にあるらしい。

壊すと分かっているなら置いておかなればいいのにと狐は思ったが、何かしらの刺激が無ければ延々寝続けてしまうのだと、そんな狐の内心を読んだかのように女が言う。


「なんだその目は。

……言っておくけど私が弱いのは起きるまでの間だけで、目が覚めてしまえば後は早いんだ」


成る程、哀れな目覚まし時計ひとつを犠牲にして、確かに起床直後より瞳に光は戻ってきている。

口は災いの元という鉄則に珍しく従って、狐はそれ以上の追求を避けた。

女は黙々と目覚まし時計だったものを片付けると、てきぱきと布団をたたみ、服を着替える。

顔を洗い、化粧を済ませ、髪を整えている女からは既に怠惰な雰囲気など綺麗さっぱり消えており、覚醒するまでが地獄という言葉は嘘ではなかったのだと証明していた。


徐々に気持ちが落ち着いてくると、この家に関する様々な疑問へ関心が向いてくる。

別の部屋はあるのだろうか。他に住んでいる人間はいるのだろうか。

囚われの身で迂闊に好奇心を発揮するのは危険なのだが、狐が質問するより先に女は身支度を終えて、他ならぬその別の部屋へと姿を消していた。

間もなくそちらから漂ってきたいい匂いにより、狐は女が別室へ行った理由を知る。


狐が全く考えてもいなかった事に、女は彼の分の食事も用意してくれていた。

状況が状況だけにあまり食欲は湧かないものの、折角の女の心遣いを無駄にしてはならないと思い、狐は礼を言ってから口をつける。

炙った干物を箸でほぐして炊いた米に混ぜたもので、皮からは香ばしい脂の匂いが立ち昇っている。

ここが檻の中でかつ手足を縛られてさえいなければ、さぞかし御馳走だっただろう。


「体は?」

「え?」

「体はまだ痛むか?」


深皿で提供された水を狐が舐めていると、同じく朝食をとっていた女が箸を置いてそう聞いてきた。

女の献立は干物に味噌汁と緑茶が追加されている程度で、狐が食べているものとほとんど違わない。


「痛くない」

「他におかしな所は?」

「大丈夫だと思うよ、ケガもしてないし」

「怪我に限らず、普段と比べて違和感のある所はないか? どんなに小さな変化でもいい」


女は、妙に食い下がってくる。

最初はてっきり心配してくれているのかと狐は思ったが、どうもそれとは違うように感じた。

何もないと重ねて狐が否定すると、ようやく女は納得したのか黙る。

静まり返った室内に、あるかなしかの食事の音だけが響く。

繰り返し異常を尋ねられた理由も説明してもらえず、狐にはまた居心地の悪さが戻ってきた。


程なくして、座卓の上の食器も空になる。


「ごちそうさまでした」

「ああ」


女は素っ気なく答えると片付けに移った。

狐は少しだけ期待したが、皿と水が退けられると再び檻の入り口は閉じられてしまう。

縛られたままの手足では他にやれる事もないので、狐はごろりと横になった。

膨らんだ腹に眠気を刺激されながら、自分はこれからどうなるのかと考える。

出会った時の刺々しい気配は、すっかり女から消えていた。

それどころか食事まで与えるなど、拘束を除けば狐への待遇は一貫して親切であるとさえ言える。

とはいえ世の中には最後の晩餐という言葉もある為、完全に気を緩めるには至らない。

落ち着かない時間を狐が過ごしていると、女が戻ってきた。口元からは、微かにハッカの香りが漂っている。

緊張しているかと聞かれたので、うんと狐は答えた。強がっても仕方がない。

女の視線は、狐の手足を拘束する幅広の紐に向けられている。


「痛めつけたくてお前を縛ったままにしてあるんじゃない。

昨日の夜も言ったろ? 解けないと。

その拘束具は、時間厳守の制約を加える事で強度を上げている。

定めた時間になればあっさり解けるし、逆にそれまでは解きたくても解けないという融通が効かない代物なんだ」

「なんでそんな不便なのを使ってるの?」

「手持ちがそれしかなかった。まぁ、他があってもそれを使ったけどな。

狐を相手に舐めてかかるなんて自殺行為だ。破られた場合の次の手まで考えていたんだぞ」

「俺そんな強くないよ……」

「ああ、一晩見ていてさすがに分かった。騙りじゃなく本当に弱いんだなお前。

狐の基準で弱いどころか、他の妖怪と比べても弱い」


女の指摘は容赦なかったが、事実であるだけに反論のしようがなかった。

狐の群れでは全く通用しないからこそ、妖への対抗手段を持たない人間の街を目指したのである。


「だからお前をどうするかは、そいつが緩む前に決める」

「………………」


狐は前肢を縛った紐を見た。

女の言葉によれば、この拘束が解けるのは今日だ。

命綱を握られている相手から具体的に制限時間に触れられ、否が応でも狐に緊張が走る。

銀混じりの体毛が小波立つのを、真向かいに座る女も見た事だろう。


「殺しはしないよ。

狐は結束が強い、群れで生きてる奴を下手に殺さない方がいいんだ」


怯える狐を見兼ねてか、女が言った。

それは一定の効果があった。しかし今ひとつ浮かない様子の狐に、女は怪訝そうになる。

命の保証が為されたのだから、大喜びとまではいかなくとも、安堵して然るべきではないのかと。


「どうした?」

「ん……俺、自分の命が助かるかどうかの決定も、結局仲間頼りなんだなって思ってた。

俺を見て、こいつは殺せない、殺しちゃいけないって判断されてる訳じゃないんだ」

「それは否定しない。でも人間だってそんなもんだぞ?

気に食わない奴を殴らないのは、負けそうだからというより殴ったら捕まるからだ。

社会ってのは個人の腕っぷしの強さを基準に動いてないんだよ」

「そうかなあ……」


理屈は分かっても、心から納得するのは狐には難しかった。

敵の手に落ちて尚、一目も二目も置かれるような存在。

仲間の報復が怖いだのといったみみっちい理由ではなく、存在そのものの放つ輝きが、命を奪おうとする手を止める。

真の英雄とはそういうものだと狐は信じており、またいつか自分もそうなる日を夢見てきたのだ。


「夜になったら逃がしてやる」

「!」

「私はちょっと外に出てくるから、それまでは我慢してろ。……漏らすなよ」

「も、漏らさないよ!」


いくら不出来な狐であっても、妖であるからして代謝の調節くらいは出来る。

こればかりは名誉の為に弁明しようとする狐を無視して、女はさっさと荷物を手にどこかへ出かけていった。

家を出る間際、思い出したように戻ってきて、檻に新しい水を入れるとテレビをつける。

狐は寝転がったまま、それを眺めて留守中の時間を過ごした。


ちょっとと言いながら、女が帰ってきたのは日が暮れかかった頃だった。

畳の上に荷物を下ろした女に向けて、狐は遠慮がちに、自由になった四肢を動かしてみせる。

拘束に使われた紐は、本当の意味でただの紐となってだらんと檻の底に伸びていた。

つけっぱなしだったテレビを消して、女が檻の前に屈む。

逃げるなよ、と鍵を開ける前に念を押されたが、無論、狐にそんな真似をするつもりはない。

扉が開いた。狐は抜き足差し足で檻から抜け出すと、ぶるる、と体を震わせる。

四肢と背中が多少突っ張っている程度で、苦痛と呼ぶ程の苦痛は残っていなかった。


「えっと……おかえりなさい」

「ただいま、というのも変な話だな。ここは私の家だ」

「ずいぶん長かったね、どこ行ってたの?」

「罠を仕掛けて回っていた」

「罠って……あ、それってもしかして」

「もしかしなくても、昨日の奴用の罠だよ。他の罠も見て回ってきたが、全部空振りだった」


つまり今日という一日は、狐の失態のせいで女が浪費した無駄な時間という事になる。

しょぼしょぼした眼で見上げる狐に、女は軽く顎をしゃくってみせた。


「今なら表に誰もいない。行け、戸は開けてある。

それとお前がやりたい事を止めはしないが、この昼間原ではもうやめて他を探せ。

ここは色々な意味で、根が深すぎる土地だ。

私も好きでやってる仕事じゃないとはいえ、いい加減にやっていい仕事でもない。

また邪魔したら次は無いぞ、わかったな」


わかったと狐は素直に答えると、畳の上を歩いていき、すとんと出入り口に続く通路に降りた。

途中で一度だけ振り返り、見送ってくれていた女に頭を下げると、開けたままにしてあった戸から外へ出ていく。

と、このように、出会った時の壮絶さと比べてひどくあっさりした別れになった訳だが、実はというかやはりというべきか、これには狐の思惑が絡んでいたのである。


店を出た狐は、人通りが途絶えた夕暮れの道路をすばしこく走っていき、充分に店から離れたと判断するや、さっと道路を横切り、元来た道を引き返し始めた。

電柱や植え込みの影に隠れながら店がぎりぎり視認できる位置まで戻ると、身を低くして動きを止める。

尖った耳が、微かな物音も聞き逃さないよう、注意深くそちらへ向けられていた。

何の為に狐がこのような真似をしているのかは、考えるまでもない。


(出てく前に、あのヘンテコなのがちゃんとやっつけられるか見届けないと……。

遠くから見てるだけならいいよね)


無条件に去るべきなのは承知していたが、これだけはどうしても確認しておきたかった。

女に頼んでも断られるのは目に見えていたので、こうしてそっと隠れて尾行しようと決めたのである。


冬の日が落ちるのは早い。

狐が待機し始めてから、急速に辺りは夜の闇に染まっていった。

定期的に自動車のエンジン音が通り過ぎていく他は、人の声も、物音もほとんど聞こえない。

灯玄坂は、その多くが住宅で占められている。少し歩けば市のメインストリートに繋がる立地でありながら、

その為に喧騒とは無縁であった。人によっては、寂れているとすら感じるだろう。

頼りなく瞬く街灯に三匹目の蛾が飛来した頃、真っ暗な店の前で何かが動いた気配があった。

ぴくりと狐の片耳が跳ねる。間違いない、女が店から出てきた。

そわそわし始める体に待ての号令をかけながら、狐は暗闇の向こうへ目を凝らす。

どうやら、女は狐が隠れているのとは逆方向に歩いていったようだ。

離れすぎて見失わないよう、近付きすぎて気付かれないよう、狐は慎重に忍び足でその後をつけていく。


(罠って言ってたっけ……かかってるかな。かかってるといいけど)


獣にとって罠は忌むべき存在だが、狐は、この時ばかりは成功を祈った。

地理を把握している事もあってか、女の足は早い。


(歩いていくんだな。この街広いし大変そうだな)


日中も歩き回ったと言っていたから、合計すればかなりの距離を移動に費やしている事になる。

女は、郵便ポストの先を左に曲がった。狐もまた、やや急ぎ足で同じ脇道を目指す。

様子を窺うべくそろりと頭半分だけ覗かせたまさにその真正面に、女が立っていた。

ぴぃと狐は鳴いた。

それは果たして驚きの為か、むんずと掴まれて持ち上げられた尻尾の痛みの為だったのか。


「な、なんで!?」

「誰でも予想がつくわアホが」


尻尾を握った手が左右に振られる。狐が悲鳴をあげた。


「まま待って待って待ってったら! 話があるんだ!」

「駄目だ」

「やっぱりっ!? でも俺まだ何も言ってないのに!」

「聞かなくても分かる。尾行してきた理由だけじゃなく、次にお前が口にする言葉も分かるぞ。

邪魔しないで見てるだけだから、どうだ?」

「……邪魔しないで見てるだけだから……」

「いるだけで邪魔だ」


狐の願望は一蹴された。

当然である。この場で殺されても文句を言う資格はない。


「本当に懲りない奴だな、お前も。

……といっても、懲りる奴なら英雄になろうなんて考えないか。

顛末を見届けたい理由は何だ? 好奇心? 罪悪感? 今後の参考に?

理由としてはどれでも正解だし、どれもが間違ってる。だから、考えはしても飾るなよ」


意外にも女の声に厳しさは無く、どちらかといえば穏やかに諭す口調だった。

絶対の拒絶ではなく、どちらにも転ぶ可能性を秘めた問い掛け。

迂闊な事を口走れば道は閉ざされる。だからといって、高い評価を得ようと小賢しく工夫してもしくじる。

そうはいっても良く見せたいと思うのが自然な心情である以上、考えるのはいいが飾ってはいけないとは、いざ実行するとなると難しい。

狐は宙吊りのまま暫く悩み、今の自分の心境に最も近い答えを選んで告げる。


「……責任、かなぁ……」

「これはまた、一番大きく出たな」

「いつも張り切って失敗して、起こす必要なかった騒ぎを起こして、そのたび皆が何とかしてくれたけど、全然知らない相手に同じ事やって全部ぶち壊しにしちゃうのって、結構きついって分かった」

「見上げた心掛けだ。次からはお友達にも同じくらい気を使ってやれ」

「うん……そうするよ」


皮肉なんだけどなと言って、女は尻尾から手を離した。

着地した狐に背を向けて、さっさと歩き出す。


「行くぞ」

「合格?」

「家まで引き返して狐汁を作る手間と比べたら、合格にした方が楽だ。

静かについてくるんだぞ」

「うん!」


かくして、狐の同行は女の公認となった。

出会いが出会いだっただけに近くに寄るとまだ緊張するものの、尾行よりは気疲れせずに済む。

狐と女はそのまま夜道を10分ほど歩いたが、女が足を止める気配はない。


「いつも歩いて回ってるの?」

「そうだ」

「車とかバイクは?」

「免許を持ってない」

「あれって取るの難しいの?」


一瞬、微妙な沈黙が両者の間を流れた。


「うるさくしたら逃げられるだろ。それに徒歩の方が足腰の鍛錬にもなる」

「そうだね」


罠の確認だけなら騒音は関係ない筈だが、狐は何か危険なものを感じてそれ以上は触れなかった。

脇道を抜けた先で、道路は幾らか広くなっている。自動車や人通りも今までより多い。

狐は、女の影に隠れるようにして進んだ。錆だらけの歩道橋の手前で女が足を止めたので、渡るのかと思いきや、階段の裏側へ人差し指を向ける。

特に何も見当たらなかった。空振り、という事らしい。


「さっき、色々な意味でここは根が深すぎる土地だと言ったろ」

「あ、うん、言ってたね」

「ここは――昼間原は、だいぶ特殊な霊場の上に広がってる街でな。

妖の気配が散見するのもそれが原因だ」

「ふうん、そうなんだ……っとと、人が来ちゃった」


わざわざ女が教えてくれた事実だったが、まだこの段階では狐の心にさしたる驚きを齎さなかった。

人目を避けるのに気を配っていたのもあって、ちゃんと理由があったんだなと思った程度で終わる。

それよりも、昨晩取り逃がした妖が罠にかかっているかどうかの方が重要だ。

女は女で、それきりこの話題には触れようとせずに移動を再開する。


二番目の罠も、また外れだった。

特に気落ちした様子はなく、女は狐を見下ろして聞く。


「……ところで、どれが罠かは分かってるな?」

「わかるよっ! 電柱の裏の紙でしょっ」

「良かった。これも見分けが付きませんと言われたらどうしようと思っていた」


名刺サイズの紙切れが、弱い妖を封じる壁となる。

一般市民にも罠だと分かるような大掛かりな物を往来に仕掛ける訳にはいかないし、そもそも女が駆除している妖にそこまで強力な罠は必要ない。

その点、電柱の根本にひっそり張り付いた茶色の紙片なら、仮に気付いても触りたがる者などおらず安全だ。

それでも剥がされてしまったら、その時はその時である。


「ねえ、この罠って本当に要るの?」

「要るよ。人間は弱いから工夫をしないといけない」

「そんなに強いのに弱いの……?」

「怪我をしたくない、楽に勝ちたい。工夫を凝らす理由は沢山ある。

向上心がないと堕落するなんて声高に叫ぶ奴もいるが、アホらしい。

人の一生は短いんだ、堕落するより先に棺桶に入ってるさ」


紙片が剥がれていないのを確認すると、女は立ち上がった。

罠はそのままにしておいて構わないようだ。他の妖が引っ掛かるかもしれないという事なのだろう。

更に次、その次と順に罠を見て回ったが、本命も外道も一向に姿を現さないまま。

刻一刻と夜が深まっていく中、狐には次第に焦りが募り始める。


「ねえ……もし全部空振りだったら?」

「明日に期待だな」

「でも、その間に悪さするかもしれないんでしょ?」

「あの程度の奴じゃたいした害は為せないさ。齧りつくか、体当たりして転ばせるか」

「じゃあ、ちょっとは安心?」

「でも転んだのが年寄りなら骨折するし、肌の弱い幼児が噛まれたら血が出る」

「………………」


冷静に現状を説明する女とは対照的に、狐の足取りからは最初の元気が失われていった。

無理もなかった。市民を守ると誓って飛び込んだ土地で、これでは。

それでも心折れる事だけはなく、顔を上げ、空気に混ざる妖の気配を嗅ぎ取るべく鼻をひくひく動かし始める。


そして、その頑張りはとうとう報われた。

進行方向にある電柱の影で見覚えのある毛瓢箪が蠢いているのを見た瞬間、狐はぴぃと高く鳴き、左右に跳ねながら駆けていく。

目の前に立たれても、毛瓢箪は逃げない。まるで地面に縫い止められたように、緩慢にもがいている。

激しく興奮した狐は頭を低くして尻を持ち上げ、膨らんだ尻尾を高々と掲げたまま、

ぴょんぴょんと円を描いて毛瓢箪の周りを跳ね回った。


「いる!いる! ここ! はやく! 逃げちゃうよ!」

「わかったよ。お前が手を出さなきゃ逃げたりしないから、とりあえず静かにしろ」


女も、毛瓢箪の側まで来ると屈んだ。

昨日ので間違いないなと呟くや、おもむろに手を伸ばして胴体を鷲掴みにする。

無論、素手で。あまりにも大胆な真似に、見ていた狐の方がひゃっと悲鳴をあげた。


「そんな持ち方しちゃっていいの?」

「いい。本当なら難しい仕事じゃなかったんだよ」

「そうなんだ……ごめんね。……鷲掴み似合うね」

「なんだそれは」


ともあれ、これにて昨晩からの騒動には終止符が打たれた。

紆余曲折あったにせよ、あとはこの妖を始末してしまえば、晴れて一件落着となる。

女が、毛瓢箪を握る手にぐっと力を込めた。が、どういう訳かそこで止まり、致命傷を与える事はない。

足元でお座りをして解決の瞬間を待っていた狐が、視線を向けられて首を傾げる。


「ひとつ聞くぞ。お前とこいつ、どっちが強いと思う?」

「な!? い、いくら何でも俺だよ! そこまでバカにしないでよっ!」

「本当に?」

「…………だと思う。やった事ないけど」

「それを証明するのは街中に罠を仕掛けて回るより簡単だな、この場合」


何の前触れもなく、真実、何ら宣言する事なく、妖を握っている女の手が開いた。

拘束を逃れた毛瓢箪が地面に落ちるまでの数秒間が、狐の眼に、スローモーションのように鮮明に映る。

気付いた時には、勝手に体が動いて毛瓢箪に飛び掛かっていた。

びちびちと暴れ回る毛瓢箪を前脚と胸で挟んで組み伏せ、必死に地面に押さえ付ける。

まるで水揚げされたばかりの魚だ。


「なっ、何やってんの!?

なんで離したんだよ、また逃げられちゃうよ! うわっ、こいつっ!」

「そうだな、このままじゃまた逃げられる。逃げた先で怪我人が出る。

――だからお前も、真剣にやれ。

そらっ、生き物を殺すには何処を狙う! お前が持つ武器は何だ!」


真っ白に染まった思考に、ただ、張りのある女の声だけが響き渡る。


武器。

相手を殺すもの。

それは。


狐が我に返ったのは、ぎりぎりと噛み締めた口内に極めて不快な味と臭気を感じてからだった。

意識するのと同時に、うえっとそれを地面に吐き出す。湿った音を立てて、ひと塊の潰れた肉が飛び散った。

目の前では、胴体を大きく齧り取られた毛瓢箪が絶命している。

傷跡は、言うまでもなく狐の口の大きさと一致していた。

狐は呆然とその場にへたり込んだ。力を入れ過ぎていたせいで、顎がずきずき痛む。


「うん、そうやって噛んで食い千切れば済む話だな。

問題なのは、そんな当たり前の事さえ追い込まれないと忘れるお前だ」

「……俺……これ、俺が……やったの……?」

「やったよ。しかしこれは反応に困るぞ。お前、その年齢までどうやって餌を獲ってきたんだ?」

「獲物は……狩りのうまい仲間が当番で獲ってきて、みんなで分ける」

「平等だな、弱者にも優しい。別の難点は生まれるが」


まさしくその難点である狐を眺めながら、女は言った。

獲物を捕まえて、急所へ一撃を加える。妖というより獣にとっての基礎が、何故全く身に付いていないのか。

理由は、おそらくこの狐が育った群れの環境にあると女は考えていた。

国、町、家族。人間のコミュニティが思想信条においてバラバラなのと同じく、狐もまた、集団としての性質は群れによって異なっている。

この狐がいた群れは、弱い者を見捨てなかった。

集団の統制には明らかに障害でしかない、このような無能で無鉄砲な狐を生かしておいた事からも分かる。

上位者が下位者を守り分け与える。そんな甘さが許される、恵まれた土地で暮らしていたのだ。

理想的である反面、こうした環境は能力を磨くには向いていない。

出来ないなら出来ないままでいいよ、で終わってしまう環境は、どうしても成長面で鈍くなる。


「さて、雪辱も果たしたし、これで昨日邪魔した分は帳消しだ。良かったな」

「や、やったのか? 俺……」

「ああ」


徐々に崩れていく骸に眼を据えたまま、狐は大きく息をしていた。

停止に近い思考とは対照的に、今、狐の心臓は激しく内側から胸を叩いている。

いまだ茫然自失の色が濃くとも、体は確かに目一杯の歓喜を伝えていた。


「英雄的な戦い、って感じじゃなかったけどな。

何もかもお膳立てされた上でとどめを持っていくだけじゃ、皆からの羨望の眼差しなんて夢のまた夢だ」

「……でも俺、ちゃんと最後までやれたの初めてだったんだ。

失敗した後は、いつも後ろに下げられてたから……」


一旦声が途切れて、暫く黙ってから、やった、と狐は言った。

言葉は同じ地点を行ったり来たり。放っておいたら、朝になってもこの場に座り込んでいるのではと思わせる。

女もまた無言で、そんな狐の小さな背中を見下ろしていたが。


「何か食べるか?」

「えっ?」

「馴染みの寿司屋があるんだ、この時間ならまだ開いてる。

お前をカウンターに座らせる訳にはいかないが、持ち帰り用に包んでもらえばいい」


そいつの口直しも兼ねてと女に言われ、狐は慌てて毛瓢箪の体液が付着した口周りを前脚で拭った。

体を汚したままでいるのを嫌うのは、普通の獣と同じである。


「私には長年の疑問があってね。

狐とは本当に稲荷寿司が好きなのか否か。さてどうなんだ?」

「稲荷寿司、食べた事ない」

「なら作ってもらおう。他のもお前向けにサビ抜きでな。

そういえば、あそこの稲荷寿司は私も食べた事はないな……まぁ、握りとちらしはどっちも最高だ」


そこで初めて、女は僅かに笑ったように見えた。

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