一週間が過ぎた。
朝、布団から這い出した女は、先に起きていた狐が、枕の横にちょこんと座っているのに気付く。
恒例行事のように目覚まし時計に向かって振り上げていた手を、振り下ろす事なく戻し、どうした、と寝起きにしては落ち着いた声で尋ねる。
伸ばした背筋と揃えた前脚を崩さず、女の目を見詰めながら狐は言った。
「あのさ……俺、そろそろ行こうと思うんだ」
ややあって、そうか、と女が呟いた。
引き止めはせず、理由を聞こうともしない。狐がこの店の居候になったのは偶然の巡り合わせで、言ってしまえば、いつふらりと外出したまま消えてしまっても不思議はない関係に過ぎなかった。
だが、狐はそうしなかった。
最初の出会いこそ散々だったものの、今日まで親切にしてくれた女への礼を欠くのは、まったく英雄的ではない。
正直なところ、今の生活はとても楽だ。いっそこのまま、という気持ちがない訳でもない。だが。
「やっぱり俺、強くなって凄くなって尊敬されたい。
仕事見せてもらって楽しかったし、この家も街も居心地いいけど、俺は、俺が活躍できそうな場所を探しに行くよ」
「つくづく高尚さとは無縁な英雄志願者だな。
……といっても、そのくらい動機が俗な方が長続きするのかもな」
「今日までありがとう、特にゴハン。実はこの檻も結構気に入ってたんだ」
「外で見掛けても入るんじゃないぞ。それで、いつ出る?」
女の問いに、朝のうちにと狐は答えた。
暗くなったからといって行動に支障をきたしはしないが、思い立ったが吉日という言葉もある。
もともと長く留まりすぎていたのだから、決断したなら早く出ていくべきだ。
それに夜になれば、女には仕事が待っている。出発が遅れたせいで邪魔になりたくないと狐は考えていた。
「行く当てがないなら、市の北部から川沿いに西へ向かうといい」
「良さそうな町があるの?」
「どんどん家が減っていく」
「駄目じゃん!」
「が、じきまた増え出す。市と市の間に村ふたつ、だ。
どれかはお前の希望する条件を満たすかもしれない。
まぁ、それはそれとして朝食にしようか。食べていくだろ?」
「うん」
女は身支度を整え、いつものように狐の分の朝食も作った。
肉が多めに盛られた一皿を大切に味わって食べると、女が食事を終えるまでの間ごろんと畳に横になる。
自然と、うつらうつらし始めた。
気付けばすっかり寝入ってしまっていた狐を、やがて後片付けを終えて台所から戻ってきた女が揺り起こす。
はっと目を開けた狐は時計を見て気まずそうにしながらも、尻尾を振って出発の意志を伝えた。
「じゃ、行くか」
「見送ってくれるの?」
「途中までな」
「ありがとう。でも、お店は?」
「どうせ誰も来ないし、閉めておいても問題ないさ。電話もある」
店の閑古鳥ぶりを評すると、女はいつものリードと首輪を手に取った。
最初こそ抵抗のあった散歩用グッズも、着けるのは今日で最後だと思うと狐は若干の名残惜しさを感じる。
今日を境に再び箪笥の奥にしまい込まれるそれは、いつかまた日の目を見る瞬間を夢見続けるのだろうか。
女がリードのロックを首輪に嵌めようとした、その時である。
店の玄関先で、ガタガタと戸が鳴っているのが聞こえた。
来ないと言ったそばから来客である。女は狐を見て軽く肩を竦めると、リードを畳の上に置いて立ち上がる。
「すみません、今日は午後まで店を――」
女の声が、唐突に途切れた。
両目が見開かれ、唇が僅かに開くと同時に半歩後退る。
只ならぬ表情に思わずビクンと跳ねた狐の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「みいつけた」
「やっと、みつけた」
「手間のかかる奴だ」
「そう、手間をかける」
「あいかわらず」
「どこにいても」
どこか様子はおかしいものの、他の誰かと聞き間違える筈もなく。
狐は硬直している女の足元をすり抜けて、ひょいと出入り口の方を覗き込んだ。
「あれえっ、お前ら!」
驚きと親しみとが入り混じった声を、狐があげる。
であれば、店先に姿を現したのが何者であるかは考えるまでもない。
女を硬直させ、狐を喜ばせているのは、こちらもまたほぼ等しい体格の二頭の狐であった。
戸を勝手に開け、出入り口に並んで座り、人の言葉で囁き交わす狐達が、無論、ただの獣である筈がない。
狐は気楽な調子で畳の間から通路へ飛び降りると、長い尾をばさばさと振って挨拶をした。
こうして近くで見比べると、銀混じりの体色は良く目立つ。
「なんだよなんだよ追っかけてきたの? よくここが分かったなあ!」
「――みつけた」
「――みつけた」
「? 見付け……あっそうか、さては俺を連れ戻しにきたんだな?
でも駄目だぞ、何度も言ってるけど俺には生涯を賭して叶えたい目標ってやつが……」
「おいっ!」
女の叫びに、振り返ろうとした時。
ドン、と腹を揺さぶる程の太い音を、狐は聞いた。
衝撃を感じたのは、その後だった。
「――え」
体が浮く。
回転する視界と意識の端に、狐は女の驚愕の表情を見た気がした。
どさりと、弾き飛ばされた体が畳の上に落ちる。
大きく抉られた腹部からみるみる大量の血液が流れ出し、畳を鮮やかな赤に染めていった。
二頭のうち右に立つ側の狐が、空中を薙ぐように尾を一振りする。狐の尾としても不自然に長いそれは、先端に向かうにつれて槍の如く鋭くなっており、円を描く軌跡を追ってバチバチと火花が散った。
埃と肉の焦げる匂いが、辺りに漂う。
「……な……な、に……?」
「正気かっ!?」
狐と女、それぞれが別の理由で驚いていた。
死にかけの狐は、知己から攻撃された事それ自体に。
女は、狐という妖が攻撃の場所を選ばなかった事に。
狐は高い理性と知性を備えた妖である。このように白昼堂々と人家を襲撃するなど有り得ない。
人に危害を加えないという訳ではなく、加えるにせよ時と場所を選ぶという事である。
現代において、人に仇なす存在がいたずらに注目を集める利点はひとつもない。
狐という妖は、それだけの分別を備えている筈である。
しかし陽の高いうちから堂々と人家へ上がり込み、あまつさえ住人の前で獲物を襲うようなやり方は、まったく彼らの常識を外れていた。
喘ぐ狐に駆け寄ろうとする足を、女は意志の力で捻じ伏せた。
怪我の具合を見ようにも、その為には眼前の二頭から注意を逸らさなければならない。
それがこの状況における自殺行為だという事は、殺気立った眼光に射抜かれるまでもなく明らかであった。
狐が一刻の猶予もならない重症を負っていようと、向き合う順番を間違えた瞬間に両者とも死ぬ。
「めいわくだ」
「ああ、めいわくだ」
「そう、めんどうだ」
「めんどうだから、殺す」
「殺そう」
虚ろな声が交互に呟く。
血を流して倒れる狐ではなく、眼前の敵二匹に対し女は吐き捨てる。
「どこまで恨まれてるんだよ、お前は」
「……何、これ……? ねえ、俺……あいつら、の……」
「ああ分かってる、お友達は普通じゃない。分かってるから喋るな。
だが普通じゃないからといって、待ってれば解決してくれる訳でもない。
やはり、あれこそ…………が……この…………街……あるべき姿………………の……」
女の声が、狐を囲む世界から遠ざかっていく。
急速に、急速に。
ああ、世界とはこんなにも霧の深いものだったのかと。
左側の狐が高々と掲げた尾を中心に、ぽっ、ぽっ、と子供の握り拳程の火球が灯り始める。
森を焦がす野火の橙とは異なる、まるで日光を浴びた狐の毛並みそのもののような、黄金色の輝き。
狐火。
店内を照らす光の正体を、狐は悟った。
今まさにそれが放たれようとしている事も、放たれた結果も。
口先ばかりで肝心の力を持たない自分では、たったひとつすら使いこなせない火。
どうしてこんな事になったのか。
どうして攻撃してきたのか。
これからどうなるのか。自分は、あの人は。
逃げて。
狐の口が動く。声に出せたのかは分からない。もう、何も見えない。
徐々に呼吸の間隔が長くなっていき、やがて途切れた。
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