「やだああああぁっ!!」
室内の環境は整った。外を歩くのに必要な品も揃えた。
となれば最後に残っているのは、ペット必須にして試練の地、動物病院である。
渋々ながら服を着て、やっと散歩に行けると外に出た後で目的地を聞かされた狐の内心こそ修羅場であった。
首輪が頬骨に引っ掛かり、リードを引っ張られるのに抵抗する柴犬のような顔になっている。
元々顔立ちも似ているといえば似ている為、なんとも滑稽かつ悲惨な光景だった。
もはや人目を引く危険も忘却の彼方に追いやり、いやだいやだと首輪や服どころではない抵抗を示し続ける狐。
人に聞かれる静かにしろと諌めるかがりの声も、騙して連れ出した自覚がある手前どうにも力強さに欠ける。
「ちょっと見てもらうだけだ、見てもらうだけ。聴診器当てて終わりだよ。
もし人に聞かれた時に、病気の予防はしてますって答えられないのはまずいだろう?
あとは飲み薬とか予防注……とにかく今日は病院やってるようだから、さっさと済ませてしまおう」
「予防注射って言った!」
「見てもらうだけだ」
「予防注射って言った!」
「見てもらうだけだ」
かがりはリードをぐいぐい引っ張るが、狐は頑として動こうとしない。
突っ張った両前脚の爪が、歩道のタイルと擦れてガリガリ音を立てている。
「注射なんかされたら死んじゃうよ!」
「死なないだろ妖怪なんだから。
注射はともかく駆虫薬だけは出してもらわないと。ほらあれだ、エキノコックスだエキノコックス。寄生虫。
現代人の間では、あいつらの方が妖怪なんかよりよっぽど恐れられてるからな」
「そんなのいないよ俺!」
「だから実際にいるいないじゃなくて予防してる事実が必要なんだよ、円満な社会生活の為には。
英雄になるなら動物病院の試練くらい笑って乗り越えてみせろ。注射が怖くて平和を脅かす強敵に立ち向かえるか?」
「うっ……そりゃそう……だけどさぁ……」
狐は呻いた。切り札ともいえる英雄志願の文句を持ち出されては口を噤むしかなく、全身の抵抗が急速に弱まる。
そんな狐に、欲しいのはあくまで体裁だから、余計な治療などは全て断るとかがりが保証した。
それでも尚、諦め悪く狐はぐずっている。
「獣医は狐の診察できるの? 行ったって帰れって言われるかもしれないじゃん……」
「噂じゃスカンクやコウモリまで診てるくらいだから大丈夫だろ。だいたいあのペットショップのせいだが」
「あそこ本当に何なんだろうね」
「知らん。そのうち恐竜でも売り始めるんじゃないか」
「この前見た時はヤギのブラッシングしてたよ」
「本当に何なんだろうな……」
ほら行くぞと促され、ようやく狐はとぼとぼと歩き始めた。
出掛けの意気軒昂とした姿はどこへやら、見るからに悄然としている様子にはさすがにかがりも気の毒になり、時々立ち止まってやりながら、狐に歩調を合わせて進んだ。
結局、普通に歩いた時の二倍程の時間をかけて、目当ての動物病院に到着する。
駐車場には車が一台だけ。入り口に貼られた診療時間表によれば、ちょうど午後の診察が始まったばかりのようだ。
かがりが扉を押す。狐はいよいよ覚悟を決めたのか存外に素直だった。鳴き声ひとつ立てず、引かれるままに歩く。
心の中では遺言でも残しているのかもしれない。
カラカラと静かなベルの音を立てて、一人と一匹は待合室に入る。
診察を待っている飼い主たちから視線が集まったのを意識しつつ、かがりは素知らぬ顔で受付に向かった。
カウンターの向こう側にいた若い女性が、愛想よく挨拶をしてくる。
「こんにちはー! 本日はどうされました?」
「ええと、健康診断をしてほしいのと、薬を出してほしいです」
「はい、診察券はお持ちですか?」
「初めてです。それと犬じゃなくて狐なんです」
「狐さんですね。それでは初診ですので、こちらにご記入をお願いします。
お席はあちらの方でお願い致しますー」
犬や猫からは離れた場所の椅子を指定される。
何か言われるかと思ったのに、受付の女性はまるで動じていない。あのペットショップもつくづく業が深い。
カウンターに置かれた問診票を受け取り、かがりは狐を連れて席へ向かう。
幸い今は飼い主の膝に乗った犬が二頭と、キャリーケースに入った猫が一匹いるだけで、狐とトラブルを起こしそうな動物は見当たらなかった。
今後もこうして人目につく機会が増える事を考えると、ああいうペット用キャリーも買っておくべきかとかがりは考える。
待合室はとても静かだった。
掃除が行き届いているのか、低く唸りをあげている空気清浄機のおかげか、動物が集まる場所にも関わらず異臭は一切ない。
おそらくは犬なども乗る事を前提とした幅広のクッション椅子に腰掛け、かがりは改めて室内を見回す。
入り口近くには観葉植物。壁には健康診断や予防注射を推奨するポスター。様々な商品のパンフレット。
大きめの窓によって採光も充分で、壁紙の色も目に優しく、落ち着ける環境だった。
もっともそれは人間目線での話で、人より遙かに優れた嗅覚を持つ狐にしてみれば、雑多な動物の匂いに得体の知れない薬品の匂いにと、到底リラックスとはいかない心境に違いなかった。
足にぴったり寄り添って硬直している狐の頭を撫でてやってから、さて、とかがりはボールペンを手に取り、ホルダーに留められた問診票に目を落とす。
思っていた以上に項目が多く、最近の動物病院は色々書くんだなと思いながら、ひとつずつ埋めていく。
記入欄は住所氏名、連絡先といった基本的なものから、来院した理由。
どこでこの病院を知ったかの簡単なアンケートや、どこまで治療を行うかの希望といったチェック欄まであった。
この辺りは、いかにも最近のクレーム防止策という雰囲気が漂う。
あとは肝心の動物の種類に、生年月日、性別。そして忘れてはならない名前。
「名前……名前!?」
ペン先が止まる。かがりは思わず狐を見た。
狐も黙ってこそいるものの、何事かと見上げてくる。
看板より先に人間の名前を気にしろ、どころの話ではなかった。
当のかがり自身が、今の今まですっかり狐の名前の事を忘れていたのだから。
「おい」もしくは「お前」で通じていたし、それで全く不都合が生じなかったからとはいえ、これでは狐に対してどうこう言える資格がない。
反省は後回しとして、とりあえずは目下の問題に取り組まなければ。
間に合わせで適当な名前を書いてしまうというのは、妖が名を持つ事の意味を考えると躊躇われる。
かといってここで直接狐に問い質せば、幾ら小声でも他の飼い主に聞かれるし、何より高確率で名前など持っていない。
困るかがりだったが、困ったからといって名前が自動生成される訳でもない。
ペンを握ったまま数分間悩んだ後に、この場での解決を諦め、他の項目を埋めた問診票を持って受付へ向かった。
「書けました。
それですみません、少し前に来たばかりで名前はまだ無いんです」
「でしたら空欄で結構ですよー」
相変わらずの鍛えられた笑顔で、女性が問診票を受け取ってくれる。
咎められるかと思っていたかがりは、差し障りなく手続きが進みそうなのでほっとした。
念の為、今日は簡単な健康診断と、できれば駆虫薬が欲しいという希望を口頭でも伝えてから席へ戻る。
自分の名前が診察待ちの欄に表示されるのを確認し、かがりは早くも一仕事終えたような気になってふうと息を吐いた。
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