そして迎えた、夜。
胸を震わせる高揚感に、狐は無闇矢鱈と吠えて回りたい衝動を必死に堪える。
もし可能であれば、この辺りで最も高いビルの天辺まで駆け上がり、夜空に向かって己が初陣を叫びたい心地だった。
残念ながら大抵のビルには鍵がかかっている上、壁を登って屋上まで辿り着ける身体能力も有していない為、ひとまずそれは頭の中に最大限格好良い光景として思い描くだけで満足しておく。
そういえば結局、昼の間にねぐらを見付ける事はできなかった。
良さそうな場所には大抵、一匹から数匹の野良猫がたむろしており、集団で威嚇されると手も足も出ない。
猫は協調性に欠けるというのは嘘だなと、ほうほうの体で逃げ去りながら狐は認識を改めていた。
まあ、見付けられなかったものは仕方がない。
当面は「宿持たずのさすらいのヒーロー」という、それはそれで趣のある肩書きを背負うと決めて、狐は英雄としての記念すべき第一歩を、闇の帳が降りた街へと踏み出した。
あまりにも騒々しい場所では、闇は形を成す前に散り散りになってしまう。
よって自動車やバイクの走行音に耳を澄ませながら、なるべく光や騒音が少なそうな方向を目指す。
市の中心部から、外へ、外へと。
濃密な闇を貫くように、狐の双眸は眩い金色に輝いていた。
「感じる、感じるぞぉ!」
やがて前方に、念願の気配を捉える。これは妖のものだ、間違いない。
狐は歓喜した。
持ち上げた鼻をフンと鳴らし、より正確な位置を嗅ぎ取る。
ひと駆けごとに、四肢を通じて全身へ鮮やかに力が満ちていくかのような、至高の感覚。
狐は確信した。今この瞬間の為に、自分はこれまで鳴かず飛ばずの苦渋の時を過ごしてきたのであると――。
「そこだ!」
勢い余ってやや行き過ぎてから、急ブレーキ。
咄嗟に制御したせいで攣りかけた後ろ脚を揃えて、飛び退るように方向転換する。
居た。
立地さえ良ければ飲み屋が立ち並びそうな、だがひっそりと静まり返る夜道の先にそれはいた。
近くの集合住宅で利用されているのであろうゴミ捨て場の、カラス避けの網に半ば絡み付いて、猫くらいの大きさをした奇妙な生物が丸くなっている。
無論、共通点と呼べるのは体格だけで、他は猫とは似ても似つかない。
体型は動物というより瓢箪に近く、全体が褐色の剛毛で覆われていた。
太短い手足はあるが尻尾はなく、一見では頭側と尻側の区別さえつかない。
眼球の存在は確認できないものの、見えはするのか、頻りに狐の存在を気にする様子を示した。
さすがに狐も警戒し、一歩一歩慎重に近付いていく。
まだ、それは逃げない。
今度は幾分大胆に、大股で接近してみた。
まだ逃げない。
既に前肢を伸ばせば届く距離だというのに、この期に及んでもそれは網にもぞもぞ体を擦り付けているだけだ。
人間の街にいる妖というのはこれが普通なのだろうかと、狐は首を傾げる。
「……あれ? 何だこれ」
そこで狐は、見慣れないものを発見した。
蹲る毛瓢箪の影に隠れて今まで気付かなかったが、薄ぼんやりと光る模様が道路とブロック塀との境目にある。
赤と黒の紐が互い違いに交差しているその模様は、町中で見掛けるには明らかに異質なものであった。
どちらかといえば、これは人間の側ではなく妖の側に属している。
狐の注意は、反応らしい反応がない毛瓢箪から、初めて見る謎の模様へと移った。
鼻を近付け、くんくんと嗅ぐ。これといって匂いは無い。
次に狐は右前脚をそうっと伸ばし、爪の先でちょいちょいと模様を突付いてみる。
だが、これが大きな過ちだった。
無反応が続いた事で徐々に大胆になっていたのもあるのだろう、思いのほか力が加わっていたらしく、何度目かで爪が模様を引っ掻いてしまったのだ。
ガリッ、とアスファルトが擦れる音が響いた時にはもう遅かった。
模様の放っていた淡い光が、瞬時に消える。その瞬間あれ程何をしても無反応でいたのが嘘のように、毛瓢箪の妖は一度大きく身をくねらせると脱兎の如くその場を逃げ出した。
驚いたのは狐である。
「ああっ!? まっ、待てっ!」
描かれていた理由は不明だが、あの模様が毛瓢箪の動きを封じていたのだと、遅まきながら狐にも理解できた。
少し、ほんの少しでも行動する前に考えていれば、容易に結び付けられる事だったというのに。
体型からは想像もつかない俊敏さで道路上を逃げていく毛瓢箪を必死に追いかける狐は、だがそこで、更に思ってもいなかった事態と遭遇する。
人間だった。
道路の向かい側から歩いてきた人間の女が、狐を見るや叫んだのだ。
「なっ……狐!?」
しまった、見られた。
狐はまず慌て、それから――驚いた。
女は最初こそ狐を見て声をあげたようだが、いまやその視線は、明らかに毛瓢箪の方を向いている。
普通、人間にああいった存在は見えないのではなかったか。
しかし戸惑ったのも束の間、女が毛瓢箪に向かって身構えたのを見て、狐は本来の自分の目的を思い出した。
「あっ、ダメだよっ! それは俺がっ!」
「っ!?」
喋ってから、しまったと思った。人間の前で人の言葉を使ってしまった事に。
しかし、女の動揺は狐以上に大きかった。
そしてその隙を見逃さない程度には、解放されたばかりの妖は敏捷であり、生物としての本能を備えていた。
毛瓢箪が、逃げる方向を変えようとする。
その動きに、女が我に返る。
妖を逃すまいと、狐が大きく飛びかかる。
追いかける狐、追われる毛瓢箪、待ち構える女。
一直線上に並んだこの位置関係において、毛瓢箪へ向かって狐が跳躍すれば、それは果たして女の目にどう映るか。
冷静な判断ができる状況ならまだしも、予想だにしなかった事態に直面して混乱の只中にあるなら、咄嗟にこう思ってしまったとしても無理はない。
即ち、狐が自分に飛びかかってきた、と。
「ぎゃっ!」
命を奪い合う戦闘においては、即断即決が生死の境目となる。
行動に移ってからは一瞬だった。女の、一切躊躇いのない回し蹴りが狐の脇腹に命中する。
狐はボールのように吹き飛んで、コンクリートのブロック塀に叩き付けられた。
背中を打つのは免れたものの、受け身を取る暇すらなくまともに衝撃を受け、狐はげふっと咳をして道路に落ちる。
「しまった!」
判断から攻撃に移るまでが一瞬なら、その判断が誤りだった事に女が気付くのも一瞬だった。
焦った声は、当然だが狐の身を案じてではない。
ブロック塀を乗り越えて消える毛瓢箪の影だけを、辛うじて視界の端に捉える。
女はブロック塀の縁に手を掛けて、軽々とジャンプするやその上に飛び乗った。
身を乗り出し、遠くを見るように目を細めて数秒。
鋭く舌打ちをして、女は元いたアスファルトの上へ降りた。
もはや妖の姿はどこにもなく、闇雲に追いかけても捕まえるのは不可能に近い。
一方、初めて味わう強烈な痛みに狐は情けなく呻いていた。
蹴られたのも壁に激突したのも脇腹なのに、どういう訳か割れるように頭が痛む。
体を起こそうとするのだが、途中で脚から力が抜けて崩れ落ちてしまう。
一体、どうして。何もかもが分からない中、命の危機だという事だけは何より良く分かった。
「お前……」
殺気を感じてどうにか顔を上げれば、そこには怒りに満ちた瞳が狐を見下ろしていた。
背の高い、目の大きな女だった。所々が銅のように赤茶けた黒髪を、銀色の髪留めでひとつに束ねている。
活動性重視の為か衣服は季節外れの軽装で、腰には使い込んだウエストポーチが括り付けられていた。
つい先程自分を蹴った足に力が篭もるのを見て、狐が甲高い悲鳴をあげる。
「ま、待って! 殺さないでくれよ!」
「命乞いは聞き飽きた。弱さを装っての奇襲にも」
冷え冷えとした女の声に、狐はぞっとする。
仮にも群れの一員として、間近で仲間の狩りを見続けてきた狐には分かった。
これは、獲物を仕留める者の声だ。命を掴み出す行為に慣れた者だけが出せる鉄の声だ。
そしてやはりこの女は、狐という動物が喋っている事をまるで気に留めていない。
狐は時に喋るという事を、女は知っている。狐の中に、そうした存在が混ざっている事を女は知っている。
妖という存在を、女は知っている。
女は、それを殺す事に慣れている。
死ぬのか、こんな所で。守ろうと誓った街の人間に殺されて。
狐の全身は細かな震えに支配され、さりとて萎えた脚では立ち上がって逃げる事も叶わない。
女は、そんな狐を暫く黙って見下ろしていた。
そうしているうちに、次第に女から剣呑な気配が薄れてくる。
それと入れ替わるようにして、不可解そうな表情が女の顔に広がっていった。
狐といえば、この国でも高位に入る妖怪である。
それがただの一蹴りで呆気なく無力化されてしまった事を、女は訝しんでいるようであった。
結局、女は狐にとどめを刺さなかった。
抵抗しないのか、と女が聞く。そう言われても、狐はひたすら震えながら縮こまるばかりだ。
「……はァ、狐は殺したくないな……後々を考えたら面倒すぎる」
張り詰めた雰囲気から一転して、女は疲れた顔になった。
蹲る狐にいつでも対応できるように身構えたまま、あのゴミ捨て場へ視線をちらと投げかけ、すぐに事の経緯を悟ったらしく、あからさまに当て付けた刺々しい溜息を吐く。
「やってくれたな、台無しだ間抜け。
このアホが、あれは人を襲うんだぞ。お前のせいであいつが……」
罵倒はそこで止み、女は苛立たしげに地面を踵で蹴る。
先程の激痛を思い出し、狐は恐怖に竦んだ。全身の毛が逆立ち、普段は細身の体が倍近くにまで膨れ上がる。
「邪魔だからさっさとどこかへ行ってしまえ――なんだ、あんなので立てなくなったのか? 狐が?
明確な攻撃行動を示していた以上、放置しておく訳にもいかないし……ああもうくそっ」
現状を整理しているうちに再度怒りがぶり返してきたのか、女は毒づきながらその場に屈む。
ポーチから取り出した紐で手足が縛り上げられていくのを、悪い夢を見ているような心境で狐は眺めていた。
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