昼間原市。
東西へ伸びた河岸段丘を中央の区切りとして、市は北と南に分かれている。
平地が大半を占める北側には一級河川が流れ、それと平行して国道が走っていた。
道路脇には、頻繁に行き交う長距離輸送の大型トラックドライバーの利用を見込んで、駐車場を広く取ったコンビニエンスストア、ドラッグストア、フランチャイズの飲食店が並ぶ。
川を跨いだ向こう側には、市全体を封鎖する壁のように、標高は低いが緑豊かな山が聳え立っていた。
川向こうの土地は狭い為、住宅は河岸段丘から道路の間に広がる平地に集中している。
山、川、道路、北側の平地、そして南北の区切りであり且つ南側を構成する河岸段丘と、上空から観察する事で、昼間原市はまるで何層にも重ねたケーキの断面のような姿を見せてくれる。
複雑に曲がりくねった道路を登って、昼間原市最大の特徴である河岸段丘の上まで辿り着くと、街並みはにわかに活気を帯びてくる。
個人経営の食堂、和菓子屋、洋品店などが隙間なく軒を連ねており、他にもスーパーマーケットにホームセンター、ファストフード店に総合病院に市立の中学校、高校と、日常生活に必要なものはほとんど賄えるようになっていた。
住宅が大半を占める北側の平地よりも、南側の方がより商業色が濃い。
「ふーむ、ふむ! へえー!」
こうした情報を、真面目くさった呟きを漏らしながら狐は頭に叩き込んでいる。
地図と文字が読めて良かったと、狐は今更ながら群れの教育係に感謝した。
種族間でのみ通じる符丁や、短い鳴き声の連続で素早く意志を伝える手段とは別に、狐という妖は、人間が使う言語の読み書きも学ぶ傾向が強い。
これは、それだけ狐という妖が持って生まれた霊格の高さを証明していた。
元々の力が弱かったこの狐は言語面での能力も低かったが、それでも幼少時から繰り返し行った学習のおかげで、簡単な日常会話程度なら支障なく行えるようになっている。
ちょこんとお座りをし、公園内に掲示された市街図を一心に見上げている狐の姿は、実に微笑ましく珍しいものとして市民の目に映るに違いないのに、不思議と誰一人として目を留めようとしない。
ベビーカーを押す母親も、学校帰りに立ち寄ったらしき小学生も、まるでそこに何もいないかのように、無関心のまま狐の側を通り過ぎていく。
この結果が、狐にますます自分がやろうとしている事への自信をつけさせた。
弱い弱いと言われ続けた力は、人間に対して立派に通用している。
狐は市街図を離れ、見晴らしの良い柵沿いに向かう。
河岸段丘の上にあるこの公園からは、市の北半分を一望できるのだ。
川向こうに連なる山々が、ついこの間まで暮らしていた故郷を狐に思い出させる。
あの山にもひょっとしたら同族の棲んでいる可能性が高いが、差し当たってそちらに用はない。
狐にとって重要なのは市内で生活する人間と、それにちょっかいを掛けそうな妖の気配だった。
人間を守る為に人間に危害が加えられるのを期待するとは本末転倒だが、これについては狐は然程深く考えていなかった。
善が輝くには悪が必要不可欠なのだと、狐の脳内で、話は英雄の定義を飛び越えて正義論にまで発展しつつある。
「いい感じじゃないか、うんっ!」
満足そうに、狐はアーモンド型の眼を細めた。
目指す英雄になる為には、町や村ならどこでも良い訳ではない。
いくら助けたくても、何も起きてくれないのでは介入のしようがないからだ。
その為にはいざこざが発生しそうな所、具体的に言えば、妖の存在が予見できる土地でなくてはならなかった。
更に注文をつけるのなら、そいつらが強そうではない、という点も。
飛び出したはいいものの、返り討ちにあってしまっては意味がない。
この都合のいい条件を満たす為に、狐は、最初とその次の町を諦めなければならなかった。
強い妖に出食わしたからではなく、何も起きそうにないという理由からである。
共同体が発展を遂げれば遂げただけ、妖が隠れ住むのも難しくなっていく。
都会で平然と生きられる妖は、最初からそこで生まれた数少ない種か、強すぎる光すら物ともしない強大な連中だけだ。
ところが、昼間原市のように自然物と人工物とが半々の割合で溶け合っている地方都市、悪く言えば中途半端な田舎には、まだ、そうした人外の存在が隠れ潜む余地が残されているのである。
人知れず活躍する、ではなく人に噂される英雄志願の狐にとって、人工の照明と路地裏で蠢く影が共存できそうな昼間原市は、まさに現状、最適と呼べる土地であった。
「空っぽの稲荷神社が見付かるといいんだけど、そううまくはいかないよな」
仮の拠点があるだけでも相当違う。雨風を安定して凌げるのは大きい。
ただ、放置された建物などがあったとしても、大概そうした場所には先客がいると聞いている。
妖は縄張りを持つと不思議と強くなるから、踏み込む時には重々注意しろ、とも。
もっとも、すぐにねぐらが見付からないからといって狐に落胆はなかった。
遂に自分の活躍する舞台が決まった事と比べたら、ごくごく小さな問題だ。
狐は早くも、今夜から始まる栄光への第一歩を夢想する。
人々が寝静まる深夜。
ふと闇が濃さを増す、白昼の逢魔が時。
影を往く狐は、妖しのものに襲われる人々を救い続ける。
初めは何が起きているのか分からなかった人々も、やがて自分が不思議な力に守られた経験を囁き交わし始める。
そういえば俺もだ、ああ私もよ、と。
驚きと疑問は遠からず確信に変わり、そして喜びという大きな渦を巻き起こす。
この昼間原には、我々を守ってくれる何者かがいるのだと――。
そんな噂が初めて耳に飛び込んできた瞬間を想像し、狐はその場で跳ねて踊り出したくなってしまった。
近くのベンチからよろよろと立ち上がった老人が、大儀そうに曲がった腰を叩いている。
かつてなく昂ぶっている狐には、それさえも自分に助けを求めている光景であるかのように感じられた。
「待っててね、おじいちゃん。この街の人間達は、俺が守るんだ!」
熱く燃える決意と共に、狐は一声高く吠える。
途端に「おやっ?」という顔で振り向いた老人に、狐は慌てて柵の向こう側へと身を踊らせた。
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