灯玄坂の巣の中で

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昼間原の女 - 8

公開日時: 2020年9月1日(火) 21:24
文字数:8,178

声がする。

とても近くて、そして遠い、どこかで声が。


「……は……い……」

「そ……ね…………」

「…あ………………」

「…………だと……」


誰かと誰かが囁き合っている。

いつかの昔に聞いた声のような気もしたが、思い出せない。ただ、ひどく懐かしい。

真っ黒な幕が下りた意識にも、その声はじわりと染み渡ってくる。

誰かは知らない。分からない。それでも憶えている。だから、こうして声に浸り続けるのが心地良い。

……ああ、そうだ。ひょっとするとこれは、記憶の一番底に刻まれた、顔も憶えていない両親の……。


「いやまったくお恥ずかしい」

「いやはや」

「いやはやはやはや」


ではなかった。

覚醒は劇的な演出を伴わず、平凡かつ突然に訪れる。

眼が開くのと同時に猛烈な痛みが腹部を中心に走り抜け、ぎゃあ、と狐は堪らずに吠えた。

はたりと会話が止み、その場の全ての視線が呻く狐に集中する。


「あ、起きた」

「起きたよ兄さん」

「ああ起きたな弟」


呑気に頷き合っている狐二匹の前には、皿に盛った食事が置かれていた。

肉じゃがを汁ごと米の飯にかけたもので、言ってしまえば朝の残り物を温め直しただけなのだが、ひとつ違う点として、その上には更に細かく刻んだ油揚げが乗っている。

がま寿司の光安も仕入れに使っている老舗の豆腐屋で、女が購入してきたものだ。

どうしてそれを今朝出してくれなかったという不満が狐に浮かぶも、それを口に出来る状態ではなかった。

とりあえず、とても痛い。


「い、いた、いたい……」

「病み上がり……じゃなくて怪我上がりだからな。

完全に馴染むまでにはまだ暫くかかる、それまでは大人しくしてろ」


どことなく悄然と告げる女を訝しみながらも、狐は安堵した。

喋ったという事は、生きているという事だ。

次に狐は、知己の二頭へ注意を向ける。

座布団に座って肉じゃが飯に舌鼓を打つ二頭から、あの虚ろな眼差しは跡形もなく消えていた。

無論、目が合ったからといって襲ってくるでもない。

二頭は狐をちらりと見ただけで、尻尾を振りながらの食事に戻った。

殺しかけていながら素っ気ないにも程がある。水を持ってきた女に向ける目の方が、余程熱がこもっていた。


「いやあ姐さん強えな、たまにこんな人間いるけどビックリしたぞ」

「蛇なんて久しぶりに見たね兄さん」

「そう感心するな、本気で腹が立ってくる」


心底からの苦い顔をして、女が言う。

さして広くない室内は滅茶苦茶な荒れようだった。

焼け焦げた畳に、ひっくり返った座卓。外れたままの戸。砕けた蛍光灯。

壁には穴が幾つも空き、一体どういう力の加わり方をしたのか、箪笥は中央からへし折れていた。

さながら爆撃でも受けたかのようである。これがつい先程まで平和に朝食をとっていた部屋だとは信じられない。

それだけ、短時間で激しい争いが繰り広げられたのだろう。

意識を失う寸前までの恐怖と絶望が生々しく蘇り、狐はぶるりと震えた。

皿についた汁を名残惜しそうに舐めていた二頭が、そんな狐を見て言う。


「あ、大丈夫もう元に戻ってっから」

「まさかアタマを侵されるなんてね、兄さんだけならまだしも僕まで」

「兄さんだけならってどういう意味だよ弟」

「そのままの意味だよ兄さん」


へらりと笑う兄と、くすりと笑う弟。

最初に尾で致命傷を与えたのが弟で、続けて狐火を放とうとしていたのが兄であるらしい。

良く知る二頭の性格に戻っている事に狐はほっと息を吐いたが、安心したらしたで、まるで悪びれない兄弟への怒りがふつふつと湧いてきた。


「何が大丈夫、だよっ!! 大丈夫で済ませていい事じゃないだろっ!?

こっちは殺されかけたんだぞ、ちょっとは反省するとか……!」

「なんで?」


聞き返されて、狐は言葉を失った。

狐自身が反省という概念からだいぶ遠い生き方をしてきたものの、この怒りには筋が通っているというのに。


「――な、なんでってそんなの当たり前じゃんか! 悪いって思わないの!?」

「だって俺ら殺せって命じられて来たんだしな」

「狐的にはやるべき事をやっただけだね兄さん」

「え」

「まァあれだ、さすがに上もオカンムリだって話だよ」


指導者か、と話に割り込んだ女に、その通りと兄狐が頷いた。


「山で馬鹿やってる分には、皆で助けてやるし守ってやるけどな。群れの外に出たとなったら話は別だ。

知らなかった訳じゃないだろ? はぐれ狐が人間に危害を加えでもしたらそらもう大変よ。

日頃の不干渉なんて撤廃されて討伐隊派遣されかねない。そこの姐さんみたいな人間が山に攻めてくる」

「なんて言っときながら、他ならない僕たちが危害加えちゃったみたいだけどね兄さん。

どうするのこれ、体で払う?」

「どうしような弟」

「私から事を大きくするつもりはないよ。

お前らもまさか自分が暴走するとは思ってなかったんだろう。

……仲間内で迷惑をかけているだけなら許す。しかし群れを巻き込みかねない行為は容認できない、か」


規律があるから寛容さが認められる。

普段が甘すぎるくらい甘いから、厳しい処分にも納得できる。

この程度の決まりも守れない奴が悪いと。

理解が追いついたらしく、しょぼくれている狐を女が見やる。

狐は、くぅん、と切なげに鼻を鳴らした。


「ううっ……こんなの英雄の姿じゃない……」

「まだ言ってるんだそれ。

とにかくそういう訳でね、僕たちのイチの目的は君の首を持ち帰る事だったの」

「任務とはいえ殺意は殺意だ。それが霊場で増幅された結果ああなってしまったのか」

「使命感って言って欲しいな」


積極的に原因を探る女とは対照的に、狐の口数はどんどん減っていった。

外的要因により狂っただけならまだしも、それとは関係なく最初から殺す気だったと聞かされて、さすがにショックを隠し切れていない。


「やはり妖にとって昼間原は……しかしそれなら、こいつはどうして……」

「ん? 僕たちみたいに一回暴走して正気に返ったんじゃなかったんだ?」


弟狐は特に理解が早いようで、即座に経緯を察して小首を傾げた。

てっきり自分達と同じく、暴走していたところを女に叩き伏せられたものだと思っていたらしい。

合っているのは叩き伏せられたという点だけである。英雄志願も暴走といえば暴走だが、精神状態でいえばあの夜の狐は正気を保っていたし、今も保っている。


しかし、それはそれで話がおかしくなってくる。

紛れもない強者であるこの兄弟狐すら惑わせる程の呪いに、狩りさえまともに出来ない弱小代表狐が耐えられる筈がないのである。

育ち切っているから、幻惑を得意とするから効かないという仮定も、今回の件で消えた。

やや遅れて兄狐もそれに気付いたようだったが、より重要な話に移る為にひとまずこの話題は途切れる。

命が失くなってしまえば、呪いがかかるかからないを論じるどころではない。


「俺らが来たのはそういうワケ。

ただ正直なとこ殺したくもない訳よ、友達だろ?

だからきつめに言い聞かせてさあ、こう、今度こそ本心から悔い改めるって感じの?」

「うん、懲罰前提で助命狙えないかなって落とし所を探してたんだけど」


兄弟狐が、交互にうんうんと頷き合う。

怯んだのは殺されかけた狐である。殺すと言いつつ何とか命を救おうとしてくれていた事には感動するが、罰を受けさせるという事は即ち、最悪このまま山へ連れ戻される可能性がある。

そうなればもう、群れの外へ出られる日は二度と訪れまい。尚も挑めば、今度こそ命は無い。


「ま、待ってくれよ! 罰ならこの大怪我で丁度いいじゃん!

怪我が完全に治ったら、俺は英雄になる旅を再開するんだっ!」

「無理だろ」

「無理だね兄さん」

「無理じゃないもん! いつか絶対……」

「だってお前もう従僕にされちゃってるぞ。離れられねーよ、少なくともその姐さん生きてる間は」


今度こそ、狐の時間は停止した。

吹き飛ばされた瞬間でさえ、スローモーションに過ぎなかったというのに。

今の今まで女と仲間にばかり奪われていた目を、のろのろと腹部へ向ける。

大きく、深く抉られていた肉。いかに法外な生命力を誇る妖といえど、死は免れない程の肉体損傷。

その幅15センチばかりの横長の傷が、びっしりと鱗で覆われていた。

鱗の一枚一枚は小さく、非常になめらかだ。凹凸に乏しい為、全体で一枚の革のように見える。

赤と黒と黄のまだら模様の鱗が、脇腹の吹き飛んだ箇所とそっくりそのまま置き換わった様は、まるで皮膚病にかかったかのようだった。


「他に方法がなかった」


絶句する狐に、女が目を伏せて言う。


「私の体を……というか身体能力を構成する一部を、移植……した。

おかげでその力はほとんど失くしてしまったが、それはいいんだ。勝手にやった事だからな。

問題はお前だ。お前が受けた傷は、いくら妖でも手の施しようがないものだった。

治療法を知っていそうな奴らは、何とか沈静化させたばかりで……」

「いやー、まず俺たちを起こしてーなんてやってたら間に合わなかったと思うぜ。

そもそも起こされたってあんなん治せないし」

「救命って課題には最適解だったと思うよ。決断力のある女性って僕は素敵だと思うね兄さん」

「俺もだ弟」


兄弟狐に褒められても、女は浮かない顔のままだった。

己の身に何が起きたのかをいまだ正確に把握していないのは、当の治療を受けた狐だけである。

途方に暮れている狐に、すまない、と女は告げると、それきり黙り込んでしまった。

ここまで気落ちした姿を見るのは初めてだっただけに、狐はただおろおろしているばかりだったが、女が大切な力の源を差し出して命を救ってくれた事だけは遅まきながら理解できた。

とにかく何か喋らなければという思いが、勝手に口を動かす。


「え、えっと、なんで謝るの!?

ほっとけば死んでたのを助けてくれたんでしょ、感謝してるよ!

そりゃコレには凄く驚いたし、助けられたからって従う訳にはいかないけどさ、でも」

「だから従わないの無理なんだって」

「正確には治したというより取り込んでるからね。ほら、丁度そこの」


弟狐が、畳の上に放置されたままになっていたリードへ目をやる。


「あの綱で彼女に繋がれちゃってる感じ。

動き回れはするけど綱の長さから先には行けないし、綱を引っ張られたら戻らなきゃいけない。

彼女もやりたくてやった訳じゃなくてさ、手持ちの札で何とか君を助けようとしたら、こうするしかなかったんだと思うよ」

「……その通りだ。私は、お前を強制的に従わせる気なんてなかった。

だが私のやり方で助ければ、結果的に繋がってしまう。せめて、死か従属かをお前に選ばせられていればな……」

「そ……そんな! じゃ、じゃあ俺、ずうぅうっとこのままなの!?」

「あー、その事なんだけどな。お前が寝てる間に、俺らと姐さんで話し合ってよ。

お前、ちょっとこの姐さんのとこで勉強させてもらえ」


更なる爆弾が投下された。


「…………え?」

「従僕ついでにね兄さん」

「従僕ついでにな弟」

「従僕ついでって何!? 何そのついで!?」

「むしろ従僕がついで?

道具扱いしたりしないって言ってくれてるんだよ、高待遇じゃない」

「だ、だってそんな……まずジューボクとか従うとかそういうのがさ……!

本当にそれ話し合ったの!? そんなの冗談じゃないって嫌がったのに押し付けたんじゃないの!?」

「ここで拒むくらいなら、最初から助けてないと思うけど」

「ほっぽって全力で逃げてりゃ済む話だもんな。お前あんまこの姐さんに失礼な事言うなよ」

「う……」


確かに、命の恩人に対して限りなく失礼だ。

両耳を伏せて上目遣いになる狐に、女はぽつりと呟く。


「あのままお前を死なせる事は、私には出来なかった」


そう言われてしまっては、狐も喚くのをやめて項垂れるしかない。

あの日から今日までの扱いだけでも、女の善意は充分過ぎる程心に染みていた。

だから、分かる。これは本心であるのだと。


「話、聞くか?」

「……うん」

「ここではない何処かの、誰とも知らない、だが何処かにいた人間の話だ。

その人間は、言ってしまえば平凡な男だった。

平均的な家に生まれ、幾つかの長所と短所を持つ性格で、学歴もまた標準。

長じて家庭を持ち、贅沢こそ出来ないが極度の貧乏に悩まされもせずに、男は歳を取った。

そんな男が、自らの人生の変革を試みたのが80歳の時だ。

男は自宅の庭に小屋を建てると、買い集めた画材を抱えてその中に引っ込んだ。

以後、男は一日のほとんどの時間を、そこで絵を描いて過ごした。

家族との関わりも、友人との付き合いも、ほとんど全てを断って。

あまりの変貌に誰もが驚き、呆れ、案じた。歳を取っておかしくなったのだと噂する者もいた。

その6年後だ、男の絵がとある大きな賞を得たのは。

男は命の終局に差し掛かって、これまでの人生とはまるで無縁だった、画家という夢を叶えた。

それが、本当に男の夢だったのかは分からない。

ただの趣味だったのかもしれないし、周りが噂した通りおかしくなっていただけかもしれない。

それでも、男は結果を出した。本心を計り知る事は出来なくても、結果だけは確かだ。

10年。僅か10年で揺るぎない名声を得、その2年後に男は死んだ」


女はそこで、一度呼吸を整えた。

何度か瞬きをし、つい固くなりがちな顔の筋肉を解そうとする。

話の内容は物語を読み聞かせているようで、今ひとつ実感が湧くものではなかったが、それでも狐は真剣に聞き続けた。


「月並みな言葉だが、何かを始めるのに遅すぎる事はないという。

華々しい成果を挙げられるのは選ばれた者だけだとしても、それは間違いなく真実でもあるんだ。

だったら、お前が目指す英雄になるのだって同じ事じゃないかと私は思う。

人間50年、今は100年か。

たったそれっぽっちの生涯でさえ、遅すぎるという事はないんだ。

それと比べたらお前はどうだ? 妖の、狐。生まれ持った時間は人間よりずっと長い。

全力疾走をやめて、一回ここで立ち止まって学ぶのも、お前にとっては僅かな足踏みに過ぎない。

学んでもやっぱり無駄に終わるかもしれないが、英雄への道が拓ける可能性も、まぁゼロとは言い切れないさ」


必ずなれると言い切らなかったのは、救う為とはいえ夢に水を差してしまった狐に対する女なりの誠意だろう。

口調はぶっきらぼうであっても、語る声は優しく狐の耳に入ってくる。

女の口元が緩んだ。やや寂しげに。


「……ずっと、ではないよ。

私とお前の関係は、対等な協力とは程遠い強制的な支配と隷属だ。

それも、私が死ねば終わる。

何十年後か、何年後か、私がお前に使ってやれる時間は、お前の一生からすれば長くはないが――」

「そういう事。

どっちみちそんな状態じゃ連れて帰るのは無理だからさ、置いてくしかない訳よ。

どうしても嫌だってのなら姐さんごと連行する事になるけど、それだと今度は俺らがマズイ」

「人間一人の一生の間ここで使役される。

それを刑罰って扱いにして上と掛け合ってみるつもり、僕と兄さんでね」

「お前ときたら意識ばっか先走って、何やっても地に足着いてなかっただろ。立ち止まんのはいい経験だよ。

姐さんが言ったみてぇに、ホントに英雄ロードが拓けるかもしれないしさ。ま、無理だと思うけど」


話を引き継いだ兄弟狐が、交互に話をまとめにかかる。

勝手に決めるなという困惑や怒りは、不思議ともう狐の中には湧いてこなかった。

完全に納得した訳ではない。しかし女がしてくれた話を思い出すと、激しい感情はすうっと引いていく。


何かを始めるのに、遅すぎる事はない。


その時、ふと狐は思った。老いて画家の夢を叶えた男の話を、女は、いまだ決まった道しか歩けない自分自身へも語り聞かせていたのかもしれないと。

才能があったから店に残ったと、あの公園で女は狐に言った。

しかし、それは首輪と鎖にまではならなかった筈だ。何度だって、他の生き方を選ぶ機会はあった筈である。

それをしなかったのは、この街が好きだからというのもあるが、何よりも思い切れなかったからだろう。

だからこそ、無力なくせに夢のままに生きている狐に優しかったのだ。

だからこそ、夢を抱いていた狐を自分と同じ囲いに閉じ込めてしまった事に心を痛めているのだ。


「……それとも、私を殺すか?」

「え」

「私が死ねば、いわゆる使い魔のお前は自動的に解放される。

お前が私を直に害するのは無理だが、そこの友達にやってもらえば不可能では……ない。

群れに帰れば別の罰が待っているとしても、人間に使役される屈辱は避けられるだろう。

だから、もしもお前が――」

「やだっ!」


膝の上に飛び乗ってぶるぶる首を振る狐に、女が目を丸くした。

仮に群れへ戻れても、そこで受ける罰は死の影がちらつく非常に厳しいものになる可能性が高い。

だったらここに留まる方が得策だ。ある程度頭の回る者なら、誰でもその結論に落ち着く。

だが、狐を動かしたのはそうした損得勘定ではなかった。

また、英雄として相応しくないという判断からでもない。

もっと単純に、血塗れで横たわる女の骸を代償に自由を得るのは、嫌だと思ったのだ。


「それは、やだ」

「おし、じゃ決まりだな」

「決まりだね兄さん。選択権なんて一切無かった気もするけど」

「言ってやるな弟。男には自由を捨てても女の膝枕を選ばねばならない時があるのだ」

「違うんじゃないかな。それにしても人間が短期間で随分と懐かれたものだね。どうやったの?」

「さあなぁ……強いて言うなら稲荷寿司かな……」

「稲荷寿司? 興味ある」

「それは興味あるな弟」

「興味あるね兄さん」


本題は解決したと見たらしく、兄弟狐は稲荷寿司、稲荷寿司と連呼している。

さすがに苦笑しながら、出前を取るべく電話を探そうとした女は、いまだ膝に乗りっぱなしの狐に気付く。

狐はじっと女を見上げていた。女は暫くその眼を見詰め返してから、そうだな、と、ひどく穏やかに呟く。


「お前は、足踏みついでに私を踏み台にしていけ」


伸ばされた手が、膝に縋り付いた狐の頭を優しく撫でた。






派手に荒らされた店内の掃除には、数日を要した。

掃除機。水拭き。ゴミ出し。壊れた品物の確認。買い出しに発注。ただの大掃除とは訳が違う。

戦いが決着するまではおそらく一瞬だったろうに、それでこの有様である。

今更ながら、気絶していた為にその光景を見られなかった事が、狐には少し残念に思えてきた。


あらかた室内が片付いたら、次は庭だ。

建物内と比べたら遥かにマシとはいえ、力の余波を食らいでもしたのか、こちらはこちらで台風明けのような惨状となっている。

めくれた庭土を周囲から集めて平らに直したり、庭石を鼻で押して転がして戻したり、引っこ抜けた植木を咥えて運んだりしていた狐のところへ、女が何かを抱えて家から出てきた。


「ほらどけ、そこに置くぞ」

「あっ、お店の看板作ったんだね!」

「お前が気にしてたからな。いい機会だと思って決めた」


そう言うと、女は店先に看板を立て掛けた。

切り株を真横にスライスして、足を付けただけの雑な造りだが、それなりに味がある。

表面には、剥き出しの年輪に重なるようにして、大きく「きつねや」の四文字が記されていた。

看板が出来ても、何屋なのか不明なのは相変わらずである。

幾分ぐらつく足元に、つっかえ棒代わりの植木鉢をあてがい、よし、と満足そうに女は頷いた。

塗りたての染料の刺激臭を嗅いでしまった狐が、ふしゅん、とくしゃみをする。


「ねえ、そういえば俺、あんたの名前知らないや」

「なに? ……いや、そういえばそうだったな。確かに教えてない。

忘れてた私が言えた義理じゃないが、看板より先に気にするのはそっちじゃないのか?

なんで一度も聞かなかったんだよ」

「んー、俺たち誰がどんな名前とかあんま気にしないんだ。

名前持ってない奴も多いし、キホン集団行動だから用があるなら鳴けばいいし。

でも、地形については細かく憶えるんだ。どこに何の木が生えてる、みたいにさ。それでかな」

「なるほど、生活上の優先度の違いか」


人間社会同様に、狐社会の価値観や習俗もまた独特であるらしい。

それで名前は?と小首を傾げて狐が問う。

そうだなあ、と、女は答える代わりに息を吐き出す。

躊躇った訳でも、勿体ぶった訳でもなかった。何となく間が空いてしまったのは、妖を相手に名乗ろうとしている事を、とても新鮮に感じたからだ。

先週の自分に、お前は眷属にした狐と同居するぞと教えても絶対信じないだろうなと思うと、少し、可笑しい。


「私の名は、楝かがり。まぁ、よろしく頼むよ」

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