「香織ちゃん……?」
サーシャは乃絵からもらったペットボトル入りの補給液を壁にもたれて座り込む香織に手渡しする。香織は無言でそれを受け取ってくれたのだが触れた手は冷たく、目線も何も合わせてくれなかった。サーシャは喉からの音を出してゆっくりとその壁にもたれるように座り込む。
チラッと香織を見ると彼女は弱々しくもキャップを開けたばかりでトポンという音が隣に響いた。サーシャもだんだん視線を合わせるのが面倒になり、お互い違う方向を見る静寂が訪れる。静寂、それは誰も何求めるものだろうが今の彼女達からすれば静寂は恐怖そのものだ。また改造魔獣が襲いかかってきたら自分たちは勝てるだろうか? という念に襲われる。
あの悲劇の時は何も出来なかったという己の弱さへの傷、今回の場合は自分の立ち位置についてだ。今のところ、人間は食物連鎖の頂点に立つことができている。だがしかし、それは道具というものに頼っているからでありその道具を失うと何もできることはない。せいぜい、囲われた籠の中で逃げ惑うことしか……。そこまで考えるとサーシャは怖くなり、大きく震えてしまった。
「不思議ね……」
ある程度補給液を飲んだ香織は一旦キャップを閉めてボトルを地面に置く。視線は未だに合わせてくれない。そもそも合わせようという気すら起きない。香織は香織で自分の弱さとマルスへの気持ちが揺らいでることへの葛藤がある。いつだって笑顔でいてあげたい相手のことが一瞬だけでも怖くなってしまった自分がいる。一度だけでも壊れてはいけないものが壊れてしまったようで香織は自分の気持ちを見つけれなくなっていた。
思えば香織はマルスに頼りっきりだ。戦闘になると彼に迷惑しかかけたことがない。自分は上位適合を取れたというのに結局は迷惑をかけてしまうのだ。疲れたのだ、香織は。
「死ぬかもしれないのに……どうして私はこうやって補給液飲んでるんだろう」
ペットボトルに視線を移す香織。サーシャはその時初めて香織と目があったのだが彼女の目は何かを筒抜けになってしまっているような大きな穴に見えてしまった。色がない。ただ、広がった瞳孔が彼女の動揺を物語っている。そうなればマルスが倒れた理由が魔装の連続行使とは思えないのだ。もっと恐ろしいものを見てしまったのではないか? そんな気にさせる。
「香織ちゃん……」
「私……バカよ……。弟に……エリスちゃんに……そしてマルスに……。私と関わった人は……みんな不幸になる」
香織の表情は以前より変わらなかったがポロポロと涙だけが垂れ落ちている。その涙の味はどういうものか、サーシャは知ることができなかった。ただ、自分が知っている味ではないことは分かる。知らないことは口に出せやしないし、解決にもならないことを知っていたサーシャは何も言わずにどこかを見つめていた。香織の声はまだ途絶えない。
「私……失格よ……」
「え……?」
「人を不幸にさせる戦闘員は必要ない……そうでしょ?」
「そ……そんなことないわ……! 香織ちゃんは立派な戦闘員よ!」
「そうかな……。私はいつも……誰かに守られてばっかりよ」
香織のため息。サーシャは何もいうことができなかった。たしかに香織は誰かに守られてばかりだ。だがしかし、それはあくまでも香織の魔装が特殊すぎるということもある。まだ彼女は魔装を己の体として扱うことができていない。だからと言って使えないというわけではない。彼女の優しさに救われた人はたくさんいる。
「もう……私なんて今頃監獄にいた方がよかったんだわ……」
「じゃあ……あなたは今までなんのために戦ってきたというのよ!」
静かな廊下にサーシャの声が良く響く。廊下中に広がった彼女の声、視線が一斉にサーシャに集まるが今の彼女はその視線を相手できるほどの気力がなかった。筒抜けのような目で見る香織。興奮しているサーシャの肩にポンと手が乗せられた。パイセンだ。補給液を飲みながらあらぬ方向を見て手を置くパイセン。
「落ち着け。疲れてるのはお前らだけじゃない」
その一言にサーシャはハッとして項垂れた。また生き残ることができた東島班であるがその心はどうであろうか? 生き急ぐな、死ぬな、苦しむな、言うのは簡単だが理解するのは難しい。サーシャは完全にその戯言に喰われている状態だ。そんな綺麗事さえ信じたくなるほど彼女の心に余裕はないのである。
「サーシャ、何もできなかったのは俺も同じ。一緒にいた蓮や……隼人だってそうだ。でもな……俺たちはまた死なずにすんだ。今はそれを思ったほうがいい」
「パイセン……」
サーシャの肩を掴みながら話すパイセンの唇はどこか震えていた。彼だって悔しいのだ。自分は戦闘員、人を守る仕事についてお金をもらう立場なのに改造魔獣に襲われた際は恐怖に慄くことしかできなかったのだ。そして……改造魔獣達を救うことができなかった。パイセンがせいぜいできるのはその供養だけである。これが彼からしたらどれだけ悔しいことか、サーシャはなんとなくだが理解ができた。
固まるパイセン達に事務局との連絡を終えた悠人と優吾が歩み寄ってきた。彼は乃絵の鎖によって巻かれるマルスと疲れ果てた顔の蓮と隼人。そしてパイセンに肩を掴まれてるサーシャと座り込む香織を発見する。悠人は一瞬俯いてからゆっくりと頭を下げた。
「みんな……本当に……すまない。みんなが死にそうになったのはまた俺の責任だ」
「おい……」
そんな悠人の肘をゴツく優吾。彼の場合はタオルで汗を拭き取った後なのか、肌が少々荒れている。優吾も悠人の気持ちは痛いほどわかるが今回の出来事は誰も予想が出来なかったところがある。通信をしていたレイシェルも謝ってはくれたが悠人は何とも言えない気持ちになったのだ。敵は亜人よりも近くに味方であるはずの研究所にいたと言うこと。いえばレイシェルも実質被害者なので悠人は責めるにも責めることができないし、そもそも責めることがない。
「マルスは呼吸機に繋いで安静にしている。状態も悪くないそうだ。俺たちも……当分は休暇が与えられるそうだが割に合わない」
エゴイズムの塊は時に希望を生むが大抵醜さを生む。今回は醜いエゴイズムだ。小谷松や佐藤達、敵側の研究員は本部へと護送されて何をされるかは悠人達に分かることではない。考えるだけでも恐ろしいがタダで終わる気はしないのである。
「あぁ〜、お取り込み悪い。そろそろ迎えの車が来るそうだ」
悠人達の間に割って入ってきたのは援軍である遠野班班長、遠野翔太。空気感が伝わっているため、翔太も何とも言えないかおであり、何かに疲れ果てたような気もしないでないのだ。正直、彼らが来ないと新人殺しは全滅だったのかもしれない。地下を除いて。
「この新人、マルスは別の車で救護班へ送られる。元気になったらお前らの屋敷に帰ってくるさ。あ、俺はお前らの援軍、遠野班の班長、遠野翔太だ。よろしくな」
当然だが誰も反応しない。翔太は「そうだよな」とだけ呟いて先導を歩き、案内を始めた。悠人達はマルスを置いて歩いて行く。元々の8人集団。マルスを抜くと何かが違う気がする東島班。なんとか立ち上がった香織の顔から悲壮感が消えることはなく、ポロポロと涙を流しているのだ。その涙のわけを聞く者はいなかった。どこかマルスを頼っている自分たちがいたことと今日の任務に疲れ果てた新人殺しは視点を定めることなく、引きずるように目を動かしながら歩いていくのだった。
迎えの車が来る。悠人達は久しぶりに外に出たわけだがもう夕日は沈みかけている寂しい夕焼け空だった。一人、また一人と迎えの車に乗り込んでいくわけだが最後尾を歩いていた香織はふと後ろを振り向く。瓦礫が積もるロビーには担架で運ばれるマルスが一瞬写ってしまった。
そんな香織を乗せて車のドアは閉まり、夕日目掛けてゆっくりと進み出すのであった。終わった、戦いは終わったのである。夕日と共に地平線に沈む車の影はやけに小さかった。
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