暗い廊下をひたすら走っていた。感じるのは敏感になった聴覚のみである。マルスはスペックとして耳がよく聞こえると言った特技はないはずなのだが今は足音だけでどこを進むべきかをわかってしまうぐらい全身の神経が緊張していた。改造魔獣はマルス1人でも相手はできる。だがしかし、香織や大和田を守りながらの戦闘となると色々と忙しいのだ。
「マルス君、待ってくれ!」
廊下の一番奥にそこそこ大きな黒塗りの扉があり、それを見つけた途端大和田はマルスの肩を思いっきり掴んで引き留めた。マルスは少々目を釣り上げて肩越しに振り返る。
「なんだ」
「あの先が目的地の地下シェルターだ。今からカードキーでこの扉を開ける。小谷松が何をしてくるか分からないんだよ? 君の命は1つしかないんだ」
「分かっている。今俺の与えられた任務は小谷松を捕らえ、改造魔獣を破壊し、できることなら俺たちが生き残ることだ。覚悟はもうできている」
「マルス君……」
「なぁに、俺だって戦闘員なんだ。今の大和田に必要なのは日の光だろう。叶えさせてやる」
心配させまいとフッと微笑んだマルス。長い間人間として生きていると元々少なかった神の記憶がさらに消えていくようだ。どこか丸くなったマルス。自分の目的のために必要な戦闘員という立場、仲間たち、そしてこの大和田という人物。手駒は必ず守らなくてはならないのだ。
大和田はゆっくりと頷いてカードキーを差し込んだ。一瞬だけ読み取りの赤色の光が放たれたかと思うとドアが自動でゆっくりと開いていく。マルスはすぐに大和田を背後に隠し、その横から香織がハンマーを構えながらシェルターの中に入っていった。足音がよく響く。明かりは一切灯っておらず、近くうっすらと浮かぶ大和田や香織の姿しか見えない。その時だ。
「ようこそ!」
シェルター中に声が響いたと思うと天井の電灯が一斉に灯されることとなり、マルス達は目を瞑ってしまう。夜目になっていた彼らは襲いくる明るさに耐えることはできなかったのだ。ゆっくりと瞼を開けると自分達の正面、シェルターのど真ん中に突っ立っている人物がいた。初老の歪んだシワの男、小谷松だ。
「小谷松……!」
彼を見た瞬間、大和田が敵意をむき出しにして吠える。当の本人である小谷松はいつもの引き笑いをしながら満足そうな表情でマルス達を一瞥した。武器らしい武器は一切持っていない小谷松。このまま近づけば斬り倒すことができるが今は動いてはならないと体が警告を発している。
「これはこれは大和田副所長、ドラム缶生活は抜け出せたのか。まぁ、予定より随分早かったが……」
「小谷松、お前は何をしたのか、どれだけの過ちを犯しているかまだ気がつかないのか! 無理矢理にでも魔獣の生態系を変えてまでして行う研究は本部も禁止にしているだろう……!」
「既存の考えに囚われていては我々は一歩進むことができない。レイシェルもそれをよく理解していないようだ。だから……私がこの極東支部を統治しようとしている。お分かりかね?」
「思い上がるのはやめろ!! 必ず貴様は裁かれるぞ……本部にはもう通告してある……お前も……お前の部下もだ!!」
「記者会見を開くのか? それともネットにホームページを特設するのか? そうなれば……本部ごと叩くしかないようだな。私の仕事が増えるだけさ」
小谷松の元にまで飛び出そうとした大和田をマルスは足をグッと踏んで現実に帰還させた。マルスの真剣な表情を見た大和田は我に返って小声で謝る。マルスはそんな大和田に視線を送って正面のエゴの塊に話しかけることにした。
「レイシェルが理解してないのではない。彼女は理解をしているから既存の方法で対策を練っている。お前のように身勝手に破壊を行い進歩しようとするものがいるから禁止されている。それだけのことだ」
「新人の君も囚われているようだね。いいかい? 我々人間はゼロから何かを創造して発展することに成功した。食物連鎖の頂点に立ったのだ。もっと上の境地を目指したくはないか? もっと上、人間を越えるほどの境地を目指したくはないか?」
失笑。所詮人間は神が作り出した人形に過ぎない。ゼロから創造したのは全て神であり、人間はその創造されたものを更に発展させて繁栄してきたのだ。それに上の境地にはその境地を生業にする存在がいる。進歩を行い、その食物連鎖の頂点で居眠りをしたところでいざ目覚めると連鎖の底辺にいるということはよくあることなのだ。
「もっと上か……。そうやってお前は血で血を拭いながら1人悲しく走り続けるのか? お前は知らないから言えるんだ。上の境地にはお前が想像できないほどの恐ろしい存在がいるぞ」
「怖がらせようとしたって無駄だ無駄無駄。改造魔獣を製造した私は無敵だ。今や魔獣は忠実な私の兵士となるのだ。魔装を手放すと何もできない人間が弱気者のために戦う? 馬鹿にしてる。負け犬となった人間が守ることができると思うのかね?」
一瞬だけ香織と目が合った小谷松はデロリとした嫌な視線を向けて話だした。マルスだって香織のことを話していると理解している。
「わ……わた……私……」
「一瀬君……!」
マルスの後ろで大和田が励ましているような声が聞こえたので彼女のことは大和田に任せるとして……マルスはゆっくりと剣を小谷松に向ける。自分が少々優位になっているからと言って好き勝手物事を喋り、人を傷つける輩はマルスは嫌いだった。あの裁判を思い出す。エデンが自分に対して放った言葉が今になって自分に降りかかってきた。
「小谷松……そんなに境地に行きたいのなら刃を向けろ。そして証明してみせろ。お前が上の境地へと行ける存在か……俺が確かめてやる」
「ホッホ~ウ。これが若いってことかねぇ」
小谷松はパチン! と指を鳴らした。ガタガタ音がしたかと思うとシェルターから各所へつながる隠し通路のようなものが壁一斉に出現し、そこからアサルトライフルを持った研究員が一斉にマルスに銃を向けた。隠し通路に潜む研究員……マルスはここで今まで疑問だった研究員の行方を知ることができた。おそらく、小谷松に敵対、大和田側の研究員はドラム缶詰だ。小谷松側はこうやってシェルターの中に隠れていたとするとある程度の辻褄があう。そうなれば事務局にいる研究班、佐藤の部下はどうなっているのだろうか? そちらの心配もしてしまうがあそこは研究員の相手ならできる戦闘員が豊富だ。そこは心配しなくていい。
「この数相手に……君は戦えるとでも言うのかい?」
「少なくとも……他力本願なお前よりかは俺はマシだと思うが? 遠くから眺めて強そうなことしか言えない弱い人間が……小谷松の爺さんよ?」
遠くからマルスを見る香織。今まで見てきたマルスの表情、はじめての物を食べた時の目を見開いて驚く顔、大好きなきんぴらごぼうをむせながらも美味しそうに食べてくれる顔、時折見せる戸惑いながらもどこか可愛らしい照れ顔、そして戦闘する時、香織自身を背中に回して見る集中した横顔。それら全てとは該当しない表情をマルスはしている。香織は生まれて初めて額の部位に血管が浮き出た状態の人物を見た。誰も見たことのない表情だ。滅多に見せない負の感情が全て詰まったような……。マルスは一瞬俯いて動かなくなる。
一斉にマルスめがけてライフルの弾丸が発射された。発射された弾丸はマルスめがけて正確に飛んでいく。マルスは剣を地面に突き刺すような動作を見せ、刃を分散させてチリのように浮遊させる。そのチリ一つ一つが舞い散る花びらのように、あるところでは吹き荒れる嵐のように、あるところでは雄叫びを上げて襲いかかる津波のように自由自在に動き弾丸を喰らうように消し炭にしていった。
ほぼノーモーションで魔装を起動させ、一瞬のうちに弾丸を無効化したマルス。チリとなった細かい刃はマルスの柄に一斉に集まり元通りの剣に戻っていく。いつもよりも濃く、そしておどろおどろしく赤黒く光るマルスの剣。いつのまにか出来上がっていた亀裂からは今まで見たことがないほどの量の灰が出現している。香織達が隠れているところからは灰に隠れてマルスの表情がよく見えない。マントがマルスの存在を見せつけるように大きく揺れていた。
次にマルスは無言で自分の利き足を軸にして勢いよく回転する。遠心力によって研究員を薙ぎ払うかのように旋回された灰は彼らのアサルトライフルを飲み込んで内側から焦がしていった。そしてその旋回する灰に吹き飛ばされて小谷松を除く全ての研究員が気を失い、その場に倒れて動かなくなる。マルスの目は一瞬だけ赤黒く光っていた。
「そ……そんな……馬鹿な……!」
「お前が選んだ土俵だろう? 何を慌てている」
小谷松は舌打ちしながら無駄だと分かっていても自分の魔装である強制機能停止因子のリモコンをマルスめがけて起動させる。もちろん、意味はなく無言でそのリモコンは勢いよく射出されたマルスの刃で貫かれて破壊された。火花を上げて壊れていく機能停止因子。
「因子が!! 私の結晶が!」
「俺の魔装はここで作られたものじゃないということ……存じなかったか?」
一歩づつ後ずさる小谷松。それを追い詰めるように歩むマルス。魔装が使えるようになった香織はマルスの手助けをしようと立ち上がったその時だ。目だけを動かしてマルスは香織を見る。その時に香織はマルスの表情を理解してしまい、「ヒッ!」と声をあげてしまった。
マルスなのは分かる。それは分かるのであるが……微妙に彼ではない気がするのだ。香織が知っているマルスは黙っているとかなり凛々しい表情をしており、年相応……17歳のような顔つきの青年だ。しかし今はそうでない。何も感じさせないような冷酷な表情。その中に一種の狂気とも言えるような笑みを浮かべており、戦うためだけに生まれたかのような無慈悲な雰囲気。肌も血を感じさせない真っ白さに加えて枯れ技のような霞が見える。長き時を生きたかのような肌だ……。その白い肌と血のように赤黒い目が妖しく光っており、マルスによく似た別人のような気がしてならない。体格も少し変わっており、普段は戦闘服の中に収まっている彼の肉体も多少たくましくなったような気がした。
「マ……マルス……!?」
「手を出すな……。汝のようなヤワな存在が手を下すべき時ではない」
口調もどこか違う。冷や汗を垂らしながら香織は本能的に後ずさってしまう。マルスだけど……マルスではない。今自分は何を見ているのか、それさえもわかっていなかった。口を小刻みに動かして元の位置に戻る香織。今はマルスに近づきたくなかった。
小谷松はというと不気味な笑みを見せながら歩んでくる人物を見て心のそこから震え上がるかのような恐怖を感じている。強さがまるで違う。一瞬意識を失ったかのように見えた小谷松、だからさっきは部下に発砲させたわけだが小谷松は正面から見ていたので見逃すことはなかったのだ。マルスの剣から黒色のあの魔石が飛び出して彼の腕から掻き分けるように潜り込んでいった瞬間を。魔石が自らの意思で動き、人間の体に潜り込むなど前代未聞の例だ。その潜り込んだ魔石がマルスの顔や体格に多少の変化をもたらし今に至る。
「貴様……!!」
小谷松はまだ白衣の中にしまっておいた予備のリモコンを起動させる。するとまたシェルターの壁が一斉に開き、中から改造魔獣が一斉に出現した。二足歩行、四足歩行がそれぞれ二体づつだ。このシェルターは一種の隠し通路になっており、製造された改造魔獣はこの通路の中に隠されて小谷松のリモコンに従って各所に移動する仕組みになっている。それに今出した改造魔獣とは違って最後の切り札の改造魔獣も残っているのだ。小谷松は声を荒げて豪語する。
「ど、どうだ!! お望みの強者を出したぞ!! これだけいれば貴様1人では勝てん!」
「勝つ……? それは否……」
マルスのような人物は全身から赤黒い灰を放出しながら小谷松を見つめる。体に潜り込んだ魔石と今は心の中に潜んでいる人形の自分。そして入れ替わるように現れた魔石の自分。彼は不気味な口元をゆっくりと歪めて声を発した。いつのまにか……その声は今までのマルスとは違った声になっている。喉の奥から発せられた低い声、誰も聞いたことのない異質な声だった。
「神に勝負を仕掛けた時点で……汝の負けだ」
神、人間亜人魔獣という三つの存在を創造させたもう一つの存在。マルスの存在を借りたもう一人のマルスは赤黒く光る剣と辺りに浮遊する大量の灰と共にゆっくりと歩んでいく。そこに人間の感情はない。甘さを捨てた……人間のマルス理想の姿だったのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!