まだ目覚めたばかりで足元がフラフラする中、優吾は未珠に連れられてエレベーターに乗り込んだ。壁にもたれかかって大きく息を吸ったり吐いたりする雄吾を未珠はちらっと見てから最上階へと行くボタンを押す。エレベーターが無事に起動してからは未珠も優吾の隣で立ちながらフッと短い息を吐いた。
「無理をさせておるかの?」
「い、いえそんなわけでは……。未珠さん……俺……どうなってるんですか? あれから俺は何をしていたんですか?」
「何もしておらん。ベルゼブブをお主が倒した直後、お主は今まで意識不明じゃった。それはお主だけではない。お主の仲間達も同じ。魔石がお主の体に入り込んでおる」
「ま、魔石?」
最上階に着いた。そこには屋上へと続く階段だけがある奇妙な部屋で未珠はそそくさと歩いていってしまう。優吾も追いつくように歩くが彼の視界にフッと緑色の影が映ったような気がして手で振り払うようにして動いた。何もないはずの空間で腕だけ動かして怯えている優吾は滑稽に見えるが本人は至って真剣。未珠もそのような影を見たことでことの重大さを思い知らされる。
「優吾、ここなら影がない。ゆっくり話そうではないか」
屋上への扉が開かれる。たしかに影はなかった。雲ひとつない大空であり、屋上には影は少ない。さっきまで写っていた緑色の影はすぐに消え去った。優吾は目を擦りながら屋上と未珠を見る。何もない。
「……あれ?」
「あの影は日の光が通らないところにやってくる。まるで亡霊じゃ。最近、妾はよく見るのじゃが……まさかお主も見えるようになるとはの」
「見える……。でもなんで……」
「それは……まだ分からん」
優吾の目は依然として宝石のような怪しい光を発しており、人間らしい目ではなかった。未珠はそれだけが気がかりなようで一歩二歩優吾に近づいてから覗き込むようにして優吾の目を見ている。
「み、未珠さん……?」
「魔石は眼に宿っておる……。優吾、亡霊とやらが見えるのは妾も今だけなんじゃ。何かあるに違いないとは思う。少しの間の辛抱じゃな……」
「そもそも……俺には訳がわかりません。魔石が入った? 魔石は魔装の核なだけじゃないですか。それがどう言う?」
「妾よりも仲間に聞いた方が良さそうじゃ。ただ、妾はお主と亡霊についての共有がしたかった。それだけじゃよ」
「なんだって言ってそんな……」
優吾は手すりに頭を叩きつけながら真下の庭を眺めている。正直、目の精度が良すぎると未珠は感じた。偶然ではない亡霊の一致。今回の魔石騒動においては年齢の若い新人殺しだけが被害を受けていること。不自然だが偶然とは言えない点が多すぎる。だが未珠にできるのは原因の究明ではなかった。同じことを繰り返さない。ただそれだけだ。
未珠も優吾の隣に出向き、両手をそっと手すりに置いて瞳を閉じていた。優しい風が吹いている。瞑想をしているようにシンとした未珠に気がついた優吾は自分がいかに子供のように振る舞っていたかを思い出して恥ずかしく思えたのか咳払いをしながら病衣を整えた。左目を閉じていた未珠はそんな優吾を見て声を上げて笑う。
「本当に素直なものじゃ。いつも妾も楽しませてくれるわい」
「そ、そんなことより。未珠さん、あの亡霊は何なんだと思いますか? 俺は……どうして今まで屠ってきた獲物が出てきたりするのか全く意味が分からない。それも急にだ。今までずっと暗い部屋にいるような感覚だったのに夢の中の視界で奴らが出てくる。ろくに動けない体で奴らは近づいて呼んで来るんだ……」
「なんて呼ぶのじゃ?」
「えっと……それは……『帰ってくる』みたいなことです」
「ふむ……妾と似ておるな……。ここまで共通点があるとは……」
「今まで見えなかったのに急に見えたってことは魔石に関係しているのでしょうか? もう……考えれば考えるほどわからない……。いつだって冷静になろうとしてきましたが冷静なだけじゃダメなんです。かと言ってこうも慌てるのも良くないと思う……。それに俺、もう今まで通りには振る舞えないような気もどこかで……。ふと反射した顔を見たらわかる。目が……目が……違うんだから」
目が変わればその人への印象も変わる。優吾はそれをよく理解していた。それに自分がもう人ならざる者になりつつあることなんて。たしかに優吾は覚悟を決めて戦闘員になったし、ベルゼブブとの戦いではその覚悟を頑固たるものに変えていった。覚悟はあれど恐怖には勝てないのが人間。手すりを持つ手から震えて足も崩れそうになる雄吾を未珠はジッと見ていた。
「他の者も同じじゃ。皆、隠しておるがそれぞれ……恐怖に勝とうとしている。あの銀髪や紅音と戦った男もそうじゃな……皆、苦しんでおった」
「パイセンと隼人が……?」
無言で頷く未珠。それで一瞬仲間がいてホッとしたが優吾はすぐに考えを切り替えて未珠に向き直る。
「じゃあ……なんでアイツらには知らん顔をして俺だけにそんなことを言うんですか!? アイツらだって苦しんでるって分かったのなら……放ったらかしにすることはないでしょうに!」
「それもそうじゃな。そうではあるが……お主は下に一人いるじゃろう? そうやって苦しむ姿は見せたくない、そうではないか?」
「ヴ……、それもそうですが……未珠さん、いい加減に教えてください。なんで……なんで俺を選んだんですか? なんで……表で活躍しているアイツらじゃなくて……俺を選んだんですか?」
そのまま足から優吾は崩れ落ちてしまった。情けない体勢で座り込んだ優吾の目からは涙が滝のように溢れている。今までに見せたほどがないほど感情的になった優吾。慎也に隠してきたはずの弱さ。年長としてしっかりせねばという戒めが一気に砕け、そこにあるのは魔石にたぶらかされる憐れな若人のみであった。そんな優吾を見て未珠はいつもの短い息を吐きながら口を開く。
「妾が何かを教えるのは気まぐれではない。お主を選んだのも決して偶然ではないと言っておく。今まで妾が教えてきた子もお主のような奴が多かった」
「え……?」
未珠は下腹部、ちょうどヘソの辺りを優しく撫でながら空を見上げ、また視線をヘソに戻して優しく撫で続けている。
「……妾は子を授かることができぬ。理解はせんともよい。これは妾の運命じゃ。……じゃが不思議なものよ。愛なき子は生きれぬことと同じ。それだけを妾も分かっておる。愛を与えるべき人が視える時があるんじゃ」
優吾にとっては衝撃的な事実であり、お腹を優しく撫でるその様子にはある種の悲壮感を感じて仕方がなかった。飄々とした態度でいつも誰かに接している見鏡未珠が女になった瞬間である。
「看取る時もあった。看取れずに散った時もあった。痛みを……痛いのをどこかに飛ばしてあげる時もあった……」
きっと彼女の目には今まで教え導いてきた我が子のような思い出が流れているのであろう。瞳がキュッと引き締まったように見え、そのレンズの中では未珠の思い出が踊っている。優吾はゆっくりと崩れた足を元に戻して胡座に近い形に持っていこうとしていた。
「妾が今まで教え、導いた者は皆、雑念のないものであった。他がどうであれ、心が黒いものであった。……清ければ白いものだと思ったの?」
「え!? あ、いや……」
「まぁ良い。白は確かに綺麗なものだがまだ清いとは言えん。いずれ何かに染まる。染まる前の白は歳をくう前の備えと思っても良い。そう考えた場合、妾は黒こそがある種の清い色だと思うのじゃ」
今まで立っていた未珠はゆっくりと優吾の側にしゃがんで視線を合わしてくる。こんな未珠を今まで誰が見てきたのであろうか。普通なら絶対に見れない光景である。同じ視線、同じ高さにいる未珠の表情はどこか優しく、それでいて厳しく、それでいて愛のあるものに見える。
「それは本当にある種の境地と言ってもよい。もう染まりきるものがないんじゃ。煩悩……エゴとも言うな。それによって塗りつぶされた結果、どうもうまくいかなくなるじゃろう? それがお主と初めて会ったあの副将戦よ」
あの時の優吾は昇が八剣班に配属されていることを知ったり、準決勝での足手纏いへの葛藤がずっと続いている状態だったので確かに澄んだ心ではなかったはずだ。思い出が頭の中で回り、未珠の言葉や仲間の行動が鮮明に浮かぶ。
「そこからお主はずっと考えておったのじゃろう? どうすれば強さを手に入れれるか。人はそこから何かを得るために色々考える。煩悩に浸かりながらの。その結果、染まり切るものが何もなく、周りの者と共に生きる道を選ぶ。己は目立たなくても、見える誰かにはその力に圧倒される何かよ」
「慎也……それに相楽もそんな俺を……。あの時はだって……アイツが死にそうになってたから……。ハッ……それ以外何も考えてないじゃないか……」
未珠はゆっくりと頷きながら優吾の背中を少し強めに叩いた。普段なら「痛い」と振り払いたくなるような痛みであるが何故か今になっては悪いものが飛んでいくような不思議な感覚がある。
ベルゼブブの時だってそうだ。優吾は必死で考えた結果、冷静なだけじゃ何も変わらないことを悟った。それ以外何もなかった。彼の心にはそれ以外の煩悩を受け付けるほどの白さは残っていなかったのだ。それ故に何も影響されず、ただ己の世界の中を歩き、そして敵を打ち倒したのである。煩悩からの逸脱、いや煩悩そのものを力へと変えたのだ。
「優吾よ。お主はそれを全部一人で成し遂げよった。じゃが……まだまだ半人前じゃ。お主はまだ若いからの。まだ欲から解放される時ではない。今は欲を身につけよ。己の心に素直であれ。道を逸らそうとするのなら妾がまたくる。……皆そうじゃ、若いのはすぐ大きくなろうとしてひん曲がる。妾にできるのは曲がった若者の背中を叩くことぐらいじゃ。今は分からんでもまたいつか、妾が話したことの意味がわかる時がくる」
スッと未珠が立ち上がったので優吾も後を追うように立ち上がった。足の崩れはどこかに飛ばされていた。幼少期に転んで泣いていた時、いつだって母がやってくれていた魔法の言葉、「痛いの痛いの飛んでいけ」、スンと思い出した優吾はただ未珠に圧倒されて声にもならない声を口から発するだけであった。
「そうすればまた妾も楽になり、未来も明るくなる。そんなところじゃ。ここまで話が長くなったがお主が得たその眼はいつか痛みを持つ者を救う。同じ痛みを持つ者は必ずいるからの。その痛みを理解し、そして共に生きる道を選ぶのじゃ。その時までに何ができるのか、考えよ。そして……やってみるがいい。手はその時のことを覚えておる」
振り返って優しく微笑んでいるであろう未珠。日光への反射で優吾にとっては後光が光っているようにしか見えない神のようにも見えた。無駄じゃなかった、それだけを知れただけでも優吾の心は楽になった。
今優吾がすべきことは亡霊に苦しむことでも、自分に嘆くことでもない。これからどうするかの策を練ること、そして残された者達を安心させることである。やるべきことは沢山あるのだ。
「未珠さん……、俺……やること沢山あります。お先に失礼しますよ。……用事は後残っているんですか?」
「いいや、もう特に残っておらん」
「俺……慎也のためにも……それに悠人のためにもやってみます。昔の俺に戻りたくないんです」
「おぉ、やってみればいいじゃない」
未珠のその言葉に頷いた優吾は屋上から階段を勢いよく降りていった。初めてみた時よりも自信のある身のこなし。そして表情。これからどうするかが主な課題の優吾を精一杯見守ろうと思う未珠なのであった。
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