昼ごはんを屋敷で食べようとしたがマルスがリビングでフラフラしていることをキッカケに全員が久しぶりに食堂で食事を取ることになった。作っていた昼ごはんのカレーをそのまま冷凍していても誰も食べないと思った慎也は福井班や遠野班といったいった顔見知りの先輩にお裾分けでもしに行こうと、タッパーに入ったライスとカレーをバッグに入れて屋敷から飛び出した。
皆、屋敷で食事を取る気が亡くなったんだろう。事実、慎也はそうだった。マルスは慎也にとって命の恩人だ。最初の任務から演習、その他任務の時に何回も助けられた。「嫌い」と言ってはいけないはずなのに慎也の目に移るソファに寝転んで空洞のような目を向けるマルスが怖くて仕方がなかった。
ほんの一瞬、ほんの一瞬のことで人が壊れてしまうのだろうか。どうして壊れたのか何も話してくれない。ただ何かに怯えている。そんなマルスに嫌いと言いたくなかったから屋敷を飛び出したんだろう。居住区の広場についてから遠野班の住居に行くか、福井班の屋敷に行くか、それとも八剣班の屋敷で行くか、慎也は迷った。
縁があるのは遠野班や八剣班だが、前回や覚醒魔獣の時の見鏡未珠にお礼をした方がいいのか、彼は迷った。自分が行けなかった優吾の見舞いを代わりにしてくれた未珠への礼を出すべきか否か……。ただ、一人でカレーを抱えた若造が八剣班の屋敷の門をくぐるのはどこか億劫だった。彼自身、未珠にしか面識がないではないか。演習の時の印象で八剣班は怖い人という印象があるので足は自然と遠野班、福井班の方向を向いていた。
「枝で決めようかな……」
適当な枝を立てて転がった方向に行こうか。そう決めて枝を探していると声がかかる。タッパーを抱えて枝を探そうと腰を曲げている少年は異様だったのだろう。声をかけた相手の顔を見ると片方の眉がピクピクと動いていた。燻んだ色をした髪の戦闘員、沙耶である。木原班の攻撃役。ジャケット薄手ズボンの戦闘服と違って普段着らしい薄い青色の半袖シャツにキュロットを履いていた。
「何してるの……?」
「え? 枝探してる」
「枝……?」
枝は見つからなかった。仕方がないので立ち上がった時に慎也はようやっと相手が何を考えているのかを分かって少し気まずくなり、ぎこちなく笑った。間の空気の取り方が下手くそな慎也は優吾がいないと話が盛り上がらない。事実、沙耶は任務で一緒だったこの慎也という男に声をかけたのは間違いだったと後悔していた。
「ご飯いらなくなっちゃったから他の班にお裾分けしようと思ってて。ルート決めるために枝探してた。ほら、よく言うよね? 枝が倒れた方向に進めって」
「聞いたことない」
「えぇ……? 君の地元ではそんなことなかったの?」
「地元……さぁ」
何処へ顔を向けて黙った沙耶を見て地雷を踏んでしまったのかもしれないと思った慎也は急いで機嫌を取り戻そうと必死で考えた後にタッパーの一つを開けた。カレーの香りに釣られて沙耶の目がピクリと動く。
「これ、食べて。譲るものだったからいいよ」
「あたし他に食べたいものがあったんだけど?」
「ゔ……えっと……」
「あたしなんかに渡すものじゃないでしょ、それ」
「そんなことない! ないない! 遠慮しなくてもいいよ!」
ゆっくりとタッパーを体に寄せながら慎也は念の為に持っていた使い捨てのプラスチック製スプーンを沙耶に渡した。それから名刺を出すようにカレーの入ったタッパーを出す。滑稽で沙耶は笑ってしまった。口元を押さえて笑う様子は年相応ではなく、木原マキエに似ていた。二人は広場のベンチに座り、スプーンで掬ったカレーを沙耶は頬張る。外で食べるカレーは何かが違う。外気に出汁が染みているのかと言うほど味が変わる。沙耶もそれを感じていた。
「美味しい」
「口にあってくれてよかった……」
「……どうしてそんなに怖がってるの?」
「え……? いや、そんなことないない。いつも通り」
「いつも人の機嫌を伺ってるの? しんどいでしょ」
この沙耶という女、慎也のように丸く包むカバーのない鋭い一言を出し続ける性格なのだ。それも正しいものだが棘をそのまま飲み込んでしまう慎也にとっては少し聞きづらいものだった。首元の襟を摘んで動かしながら慎也は肌寒くなった広場のベンチに座り続ける。沙耶はそんな慎也を見て半ば呆れ気味な顔をしつつも、美味しくカレーを頂いたのだった。
「ごちそうさま、美味しかったわ。あなた料理得意なの?」
「得意っていうか……料理しないと落ち着かないんだ。一回すっぽかしただけでも怖くなっちゃって」
「……作らされてた?」
「あ、ここに来てからはそんなことないよ! ……まぁ、前の家で……」
首元をパタパタと動かしている時に沙耶はシャツの形に沿って隠されたような傷跡を見て何か思うところがあったのか、少し考えた後にシャツの袖を捲って腕を見せる。急に肌を見せられて戸惑う慎也はすぐに見ないようにしようとしたが沙耶の腕にあった傷跡を見て喉から声を出した。
「おそろいなのね」
似たような傷があったことに慎也は驚きつつ、胸元に隠した傷がいつのまにか丸見えだったことにギョッとした慎也はすぐに隠して咳払い、しても無駄なことは分かっていたがそうするしかなかった。さっきまで呆れたように慎也を見ていた沙耶の顔が少し変わったような気がした。落ち葉が風に運ばれて言って音が響く。変な時に耳が良くなってしまうもので耳を手でこねくり回すように動かしてから慎也はハハっと笑った。
「こういうのは……おそろいになっても嬉しくないね」
「どうしてここに来たの?」
「このままだと死ぬって思ったから。手がめちゃくちゃになるほど窓を叩いて脱走した。追いつかれたら怖かったからずっと走ってた。山に向かったんだ。寝なかったし、食べもしなかったし、目立たない山道をずっと走って……靴も脱いで……走って……拾われた」
一度銭湯でマルスに話した時とは全く違う。相手はもしかすると自分よりも酷い状況だったのかもしれない。そう考えると何故か自信がなかった。沙耶はジッと話を聞いた後に「そう」とだけ呟いた。
「聞いて悪かったわね。震えてる」
「……アッ。やだなぁ、なんで震えてるんだろうね。僕なんかよりももっと酷い立場の人もいるってのに……」
「そういうのどうでもいいから。私もあなたと同じような立場。なってみれば分かるでしょう? もっと酷いも何もないの。それは酷いものなの」
初めて見た時、沙耶のことを慎也は感情がない子だと思っていたがそれは大きな間違いだった。慎也は八つの頃から酷い立場だが沙耶はずっとだったに違いない。沙耶と慎也は同い年なんだと聞いている。自分が大人になるしかなかった環境で育ってきたが故の感情のなさなのかもしれない。そう考えていた。
「こんなところで油を売っていてもいいの?」
「え?」
「貴方の仲間が今、大変なんでしょう? 苦しい時に大切なのは、食べ物と太陽の光。お腹いっぱいであったかくいること。私なんかと話しててもいいの?」
「それは……マルスさんなら大丈夫だよ。ああ見えて根は真面目でなんでも自分でできる人なんだ。大丈夫」
「根は真面目とか、そんなのどうでもいいでしょ? 表面しか見てないのに」
沙耶はマルスのことをよく知らない。対面したこともないはずだ。それなのに沙耶のその言葉に慎也は釘で胸を打たれたかもしれないほど突き刺さった。慎也の悪い癖だった。人を勝手に見定めて扱いまで決めてしまう悪い癖。慎也は屋敷の空気に耐えれなくなって飛び出したが、ここは残ってマルスの相手をするべきだったのではないか。マルスと相手をするのは悠人と香織と勝手に役割を決めていたのではないかと頭の中でグルグルと考えが回るに回る。
「そ……それは……。でも君は会ったこともない人の性格が分かるっていうの?」
「分からないけど、心身共に疲れた人が何を一番欲しがるのかは分かる。体も心も冷えてるいるのよ。このカレーは配るためのものじゃないって思わない?」
まだカレーは温かい。慎也はどうするかを頭の中で迷いながらもゆっくりと立ち上がった。そのまま唾を飲み込んで去ろうとした時に待ったの声がかかる。沙耶は去ろうとする慎也をまた厳しそうな顔で見ながら立ち上がり、軽く頭を下げた。
「カレー、美味しかったわ。でも私なんかよりももっと渡すべき人が貴方にはいる。知らないところで嫌いな人間のような行動をしていないか、考えることね。縁を切るってそういうことよ」
それだけ言い残して帰っていく沙耶を見て一つだけ空のタッパーをグッと掴みながら慎也は帰路に着いた。カレーは少しだけ冷めていた。嫌いな人間のような行動、慎也の悪い癖はどこからやってきたものだろうか。明確に思い出そうとするとあの時のトラウマが一瞬だけ写ってタッパーを落としそうになったが後ろから慎也を支えてくれる人のおかげで助かった。
「悠人さん……?」
「慎也か。カレー抱えてどうした?」
「お裾分けしようとしたんですけど……やっぱりみんなで食べたいなって……」
「お前らしいな。……マルスのこと、レイシェルさんに話したんだけどアイツは休暇扱いになった。俺が離れる間、マルスは大丈夫だったか?」
「いや……実は……ずっとフラフラしてて」
「そっか……。カレー抱えてフラフラはちょっと面白いな。俺まだ昼を食べていないんだ。屋敷の中で待ってるぞ」
慎也の背中を叩いて屋敷の玄関に駆けていく悠人を見送りながら慎也は歯を食いしばった空になったタッパーを投げそうになったがグッと堪えた。これだとあの親父と何も変わらない。こぼれないようにカレーを抱えてトボトボと屋敷の中に入って行った。沙耶は親との呪縛を断ち切れているのだろうか。いるからあんなに冷静なんだ。そう思いながらドアノブを握る。
「バカだろ……僕は……!」
何もマルスだけが戦っているわけではなかった。
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