マルスはまどろみの中でただホワホワとした浮遊感を得ていた。何も考えることなく、何をするまでもなく、安らぎと静寂だけがマルスを包んでいる。今、自分の周りはキラキラとした日の光が差し込む海の中で漂っている。これは夢か……、マルスは理解した。そしたらこの静寂さも、浮遊感も全て説明がつく。自由が欲しかったマルスの心の現れ、それがこの夢なんだと。
それにしても夢というのはここまでして心地がいいものなのかぁ……、と思っていると急に海の様子が荒れはじめた。大きな波がマルスを飲み込んで……、
「ほら、起きて〜。もう9時半だよ」
声が聞こえた瞬間、マルスは現実世界に帰還する。恐る恐る目を開けるとそこには呆れ顔のサーシャがいた。服は半袖シャツにショートパンツというかなりゆるい服装をしている。シャツは部屋着用なのか少し薄い作りでマルスの目にはサーシャのボディラインが少し写ったが別になんとも思わなかった。気になったことは朝は髪の毛を結んでいないところ。紫色のロングの髪を綺麗に背中に流している。
「ンァ?」
「おはよう、マルス君」
目をゴシゴシ擦って大きなあくびをする。今は9時半……、ここは俺の部屋……、俺の部屋? マルスはすぐに違和感に気がついた。
「どうしてサーシャが俺の部屋にいるんだ?」
「私はここの副班長ってこと忘れてない? 合鍵を全員分持ってるの。悠人君は管理が下手だから」
「起こす必要があるか?」
「朝ごはんの時間は10時で終わるよ? 私もまだ食べてないから一緒に食べよ? 他のみんなはもう集合部屋にいるわ」
「お前もさっき起きたのか?」
マルスがそのことに気がついて口にすると空中に螺旋を描く水流が現れ三叉の槍になる。目と鼻の先で構えられた海のように深い青色の槍は少しでも間違えたらマルスの顔を貫きそうだった。
「それは言わないお約束」
コクコクと無言で頷くマルス。サーシャはブンブンと槍を回転させると槍は螺旋を描いて消えていく。魔装を部屋で出すなよ……。マルスは心の中でツッコミを入れた。どうやらサーシャも先ほど起きたことがわかる。別に隠すことでもないだろうに……。
「あぁ……、今日は何かあるのか?」
「あるとしたら購買でマルス君の生活用品を揃えることかな。それと戦闘服の配布」
「戦闘服? 昨日着ていた服じゃないのか?」
「アレは仮の服なの。マルス君専用にデザインされた服を今日配布予定よ。魔獣の活性化がすごいから私達の戦闘服も強化される。今日はそれを受け取りに行く日」
自分専用の服、いい響きだな。マルスはベッドから出て大きな伸びをした。今日ほど心地の良い朝はなかった。神の頃とは大違いだ。戦闘員になれて幸運者だ……。 目まぐるしくまわる幸せの気持ちに浸りながらマルスは歩き出す。
服装も寝巻きのまま部屋を出る。このまま出ても問題ないと判断したためだ。少しばかり寝起きで足元がふらつきそうになるがサーシャと共に食堂へ向かった。他にも何人かの戦闘員が食堂に向かう様子が見て取れる。
「ここは新人殺し以外の班もいるんだよな? だいたい、いくつだ?」
「この極東支部は私たち合わせて16班よ。私達の班は人が少ない方。他の班は20人くらいはいるのかな。人数はバラバラ」
「班によって人数はバラバラか。なるほどな」
思った以上にチーム分けは適当なのか? 自分がこの班に入ったことは偶然なのだろうか? 偶然じゃないとしたらここで俺ができることはなんだろうか? 少しの間物思いに沈むマルス。そんなマルスの心情をサーシャは読み取ったのか、肩を叩く。
「そんなに深く考える必要ないからね。生きているだけでも班に貢献できるんだから。お礼、遅くなっちゃったけど昨日はありがと」
「あぁ、どうも」
サーシャはフフフと笑って食堂に入っていった。健気な女性だ……。背中を見せて歩くサーシャを見てそう思った。食堂に入ると席はかなり空いているところが多かったので先に料理受け取りカウンターまで行く。
「朝の定食2人前、お願いします」
「あいよー!」
良い声を張り上げてテキパキと準備する食堂のおばさま。その時に料金のことが気になってサーシャに言うとサーシャは「あ……」と声に挙げた。
「通信機もらってる?」
「通信機? これか?」
「そうそう、それがあったら話は早いわ。これは通信以外も沢山の機能があるからね。料金の支払いもできちゃうんだから。給料から天引きされるの」
サーシャがポケットから通信機を取り出してピッとかざすと画面に「360円、確認しました」と表示された。マルスもかざすと同じ結果になる。
「機能が沢山あるんだな」
「パイセンなんかもうバットに取り込んでここでバットかざして支払うんだから」
本当に困った子、と呆れながらも自分の班員のことが大好きなんだろうなということがわかる。その呆れ顔には優しい微笑みも混じっていた。料理を受け取って向かい合わせの二人席に座る。
「すまない、料理の名前を教えてくれないか? 俺はわからないから」
「えっと、ご飯とハムエッグと味噌汁と納豆。納豆は好み分かれるから一口食べてみて。私は……ちょっと無理だからもらってない」
納豆と言われた食べ物が入った入れ物をとってペラリと蓋を開ける。独特な匂いがマルスの鼻をついた。これは好みが分かれる……。これ……豆か? マルスは納豆を凝視した。
「おい……、これ腐ってるだろ?」
「腐ってるよ?」
「これを食べるのか!?」
マルスの声があまりにも大きくて周りの戦闘員からの痛い視線が二人に刺さる。マルスは小声で「スマン……」と口にした。サーシャは気にしないでと言わんばかりに話し始める。
「大豆を納豆菌という菌で発酵させた食べ物。このタレで混ぜてご飯にかけるのよ」
タレを入れて箸と一緒に渡してくれるマルス。箸も慣れないといけないなと思いマルスは受け取った。昨日の隼人達を思い出しながら親指・人差し指・中指で持ってみる。思った以上に安定して持てた。混ぜると言われたのでグルグル混ぜていく。
ただ混ぜるだけの作業なのにクセになりそうだった。腕が疲れるが混ぜる度に美味しくなっている気がしてならない。沢山混ぜた後にご飯へと乗せる。糸を引きながらご飯へ落ちていく納豆をみて「伸びるな……」と声を上げるマルス。
ご飯と一緒に納豆を食べてみた。一口、口に入れると納豆の食感とタレの香りが口の中に広がる。意外にも納豆は食感が残っている食べ物だった。なるほど、これはご飯に合うわけだ。たしかにクセは強いがマルスは許容範囲だった。昨日のキンピラゴボーといい、この国は独特な料理が多い。
「これがハムエッグか?」
「そうそう、黄身を崩して食べてごらん」
言われたとうりに箸でプチッと黄身を崩す。するとタラリと半熟の卵がハムにかかった。マルスは「ん? まだ調理が終わってないぞ?」と思ったがサーシャがハムと一緒に食べているので同じようにして食べる。こちらも美味しかった。トロリとした黄身のまろやかさがハムとよく合う。こういった調理方法もあるんだな……、マルスは人間に感心した。
どうも神の料理は全てが大味なので食べる気がしなかったのだ。さすがは工夫をこらして発展を成功させた種族だ。食の文化も素晴らしい。マルスとサーシャは夢中になって朝食を食べた。サーシャは食事の際、あまり喋らないらしく静かに食事を取る。朝だからそれも良いものだと思った。夜は隼人達のように騒がしくても良いなと。
朝食を食べ終わり、マルスとサーシャは食堂を出た。ちょうどいい満腹感で今日が始まったんだなぁ、ということがハッキリと明示された。食事は一種の心の切り替えでもあった。少し歩いて自分たちの集合住宅が見えてくるとサーシャは、
「着替えたら集団部屋に集合ね。仮装備じゃなくて普通の服でいいよ」
と連絡を残して自分の部屋に入っていった。こうも自分から話しかけられるというのはいい者だな……。マルスはこの班に入れたことが少しだけ嬉しくなった。本当に助ける神、いるのかも。そう思いながらマルスの戦闘員生活2日目が幕を開ける。
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