先に体を洗っていた悠人と優吾。慎也はサウナに入っていたらしく現在は奥の水風呂を浴びているとのこと。二人は湯に浸かる。「ハァ〜」と息をつきながら白い前髪を上げるような動作をする優吾。いつもは眼鏡をかけている優吾に慣れていたので外した姿を見るのはマルスは初めてだった。インテリ感が外されて目に鋭さが宿るようになったのだがその奥では優しい碧色の瞳孔が光っている。
「……顔、なんかついてるか?」
「あ、いや何もない。眼鏡を外したお前を見るのが初めてで……」
「別に何も変わらんだろ。その言葉、学生の頃の女子から聞きたかったな」
そういえば優吾はしっかりと高校を卒業してから戦闘員の適合検査を受けたのだったと思い出す。演習の決勝戦で水喰昇を見た時に少しだけ言ってくれた。過去に何があって戦闘員になる決心をしたのか、マルスは少し気になった。
「深い理由はないから……詮索するな」
「あ……スマン」
マルスはその場から逃げるように洗面台までいった。眼鏡をかけていない優吾のギロッとした睨み顔は「あ、明らかに怒っている」と一瞬でわかる仕様となっている。一瞬だけ悪い気がしたがもう少し隼人みたいに開放的になってもいいのでは? というのが本音だった。シャンプーとボディソープ、洗顔剤を準備。マルスは顔を少し濡らして洗顔剤を泡だてた。モコモコとした泡が出来上がっていき、マルスはその泡の中に顔をダイブさせる。
いつもは香織が選んでくれた固形石鹸を使って顔を洗うので液体の洗顔は初めてだったがこの銭湯で買った洗顔剤もマルスの肌にピッタリな気がした。小鼻を洗っている時に脂が落ちてくるのがわかる。隣の椅子からガタガタと音がしたので誰かが座ったのだろうと思いつつマルスは目を瞑って顔を洗う。そしてシャワーをつかんで洗い流そうとすると肩をツンツンと誰かに突かれた。
「うわ!?」
急に冷たい指で突かれたのでマルスは声を上げて驚いてしまう。一体、誰だ!? と目を瞑りながら考えた。目を開けて確認する方が早いのだがそんなことすると目に洗顔が入り最悪の事態になってしまう。
「あ、すみません……」
「……なんだ慎也か。なにか用か?」
シャワーで顔についた泡を洗い流しているマルスに隣に座った慎也は「大丈夫だよねぇ……」と声に出しながらオドオドした様子で話しかけた。
「驚かないですか?」
「な、何がだ?」
「僕のこと」
「驚くわけないだろう」
「まぁ……そういうと思いました……」
「一体なんなんだ……」
完全に洗い流したマルスが隣の慎也を見ると驚きのあまり、言葉が喉に詰まる。慎也は思った以上に体が細く、体重は何キロだ? と思うほど体がほっそりしていた。それよりも目を引いたのが両腕にある無数の切り傷の跡である。彼の腕には四角や線などの無数の傷跡があった。
「お前……それ……」
「リスカですよ、リストカット」
平然と言い放った慎也に対してマルスの思考は完全に停止してしまう。傷跡は彼の手首のあたりで完全に消えており、長袖のシャツを普段から着ている慎也にとってはちょうど外から見えないようになっていた。
「誰にやられたんだよ……それ……」
「僕の父です」
そういいながら慎也はシャンプーを泡立てる。依然として驚いた表情をするマルスを置いてけぼりにしながら慎也は髪を洗い始める。そしてマルスに辿々しく語るのであった。
慎也の家庭は父、母、慎也の三人家族。父は一般企業に勤める会社員で母は専業主婦のいたって普通な家庭に生まれた。お金持ちでもなければ貧乏でもない普通の家庭。だがしかし、慎也は両方の親から愛されてきたし欲しいものはなんでも買ってくれる幸せな家庭だった、彼が小学校2年に上がるまでは。
「その8歳の頃になにがあった?」
「……母さんが……不倫してたんです。父さんじゃあない他の男と関係を持っていた。街中のお城にね。入り込んでたそうですよ。僕が放課後児童に行ってる間に」
そう、母親の不倫が確認されたのである。今でも慎也は思い出して吐き気を催す思い出であった。自分の30後半の母親が他の男と快楽を求めて行為を行うのを想像すると吐き気がする。元々小学校に上がった頃から親の仲は徐々に悪くなっていく気がした。まさかこれに繋がるとは当時8歳の慎也は想像できなかったのだ。
弁護士を雇った親権争いで母は負け、慎也は父方についていくことになった。結果、母は慰謝料と養育費を払うことになり関係を持った男には逃げられてクズのような生活をしないと生きれないことに。父方には父以外に親戚がいなかったので慎也と父とで二人で暮らす新生活が始まった。そのために大好きだったクラスメイトと別れる転校を慎也は経験する。そこまではまだよかったのだ、まだ家庭的な父はそこにいた。問題は引っ越しをしてからである。
慎也にとっては望んでもない新生活だったのであり、新しい学校に中々馴染むことが出来ず孤立する毎日を送っていた。仕事が終わる父を待って家で一人でいることも慎也は苦痛であった。
「僕は……甘えん坊なのかな……。元々は母さんの胸の中が一番安心すると思ってたほど母さんが大好きだったから……」
一応父からは「母さんは遠くへ離れることになったんだよ」と曖昧な情報を聞かされていた。それで納得できたのか? と聞かれれば今はわからない。いっそのこと「母さんは他の男の人が好きになってお前を見捨てた」とハッキリ言ってくれれば慎也は戦闘員になることはなかったのである。そんな毎日を送りつつ長い時が経ち、慎也は中学生になった。中学になっても人と関わることが苦手だった慎也は学校では孤立している立場であったが彼にはある想いがあった。
中学生になったのだから父に聞き出そう、と。本当のことを父から教えてもらおうと慎也は思うようになる。物心をつき始めた頃に自分の親だけが参観日になってもこないところに違和感が募るようになっていた慎也は改めて自分には母親がいないことを知った。家に帰って父が帰ってくるのをずっと待つ。そして夜になってようやく父が帰ってきた時に慎也は聞いたのだ。「母さんとはなにがあったの?」と父は小学校の頃に言ったことと同じようなことを言おうとしたが慎也は嘘はつかないでほしいと父に言った。真実をずっと知りたかったのだ。
母さんのどこが嫌いだったの? なにか満足ができないことがあったの? それとも僕の見えない所で喧嘩をしてたの? どうして理由を隠すようなことをするの? どうして……母さんを置いてここまで引っ越したの?
慎也は自分がずっと思ってきたことを洗いざらい父に聞いた。もう自分は子供じゃあない。知る時が来たと自覚しているが故に慎也は父親に質問したのだ。しかし、父に慎也の気持ちが通じることはなく、彼の見当違いの方向へ進んでいく。
「僕のことを『俺の子供じゃあない! お前はあの女の隠し子だな!』って……。わけがわからないですよね? 僕は知りたかっただけ、それなのに父さんは自分を否定されたように感じたって……」
そこから虐待開始である。慎也の人権はここで終わった。学校には行けた、学校には行けたが帰ってくると監禁されて縛り上げられ拷問紛いの虐待が開始される。姿見に縛られてジタバタともがく自分を写されて「醜い姿をしやがってと慎也は蹴られるのだ。アザができない程度に蹴られたあとは……。
「爪も剥がされた。カッターナイフで腕も切られた。正直言って……思い出したくない」
隣で体を洗う慎也を見てマルスは硬直してしまう。監禁されて拷問を受ける痛みはマルスも知っていた。慎也はまだ16歳である。誕生日はマルスが入隊する少し前に迎えたので実質15歳。その若さなのにここまで辛い人生を歩んでいたのか? と衝撃を受けた。痛みを耐えるにはまだ早すぎる。彼には愛情が必要だった。その必要な愛を必要な時に受けることができなかった悲しい少年をマルスは黙って見つめていた。
よく見ると慎也の腕の傷跡は本当に服に隠れるようなところをきっており、長袖の制服を着せておけば誰からもバレないような仕様となっていた。そこのところは考えれても息子のことは考えることができない彼の父を愚かだと思いつつマルスは話を聞く。実質不登校だった慎也を心配して担任が家に来るのだがその時は拷問が終わってゲッソリした慎也を「学校に行きたくないと言っていて……」と白々しく嘘をついて先生を返していたそうだ。父親から事前に脅されている慎也はなにもできなかった。
そして運命の日、今から半年ほど前の頃。慎也は中学3年になっていた。将来にも現在にも希望が見えなかった慎也は父親が仕事に行ってる時に爆発した。こんなところにいれば自分は一生実験動物のような扱いを受けてしまう。縛られたロープを無理やり引きちぎり、家の窓ガラスを強引に割って慎也は逃亡した。大通りを通っているとバレそうだったので山道へ向かう路地などを利用して慎也はずっと山に沿って走り続けた。薄暗い山道をひたすら裸足で走っていた慎也。その光景は今にでも思い出すらしい。いつ肩を掴まれて父親に家に連れ戻されてしまうかが怖かった。
半日ほど走っていた時、慎也は自分がいるところが魔獣の生息地であることを知らなかったのである。ここまで逃げたら安心と思っていた束の間、慎也の目の前に巨大な蜘蛛が現れた。白と紫の気持ち悪い体色の大蜘蛛は慎也を見るなり近づいて咆哮する。本来は縁のない存在であった魔獣。名称だけ知っていたが実物を見ることになった慎也は「ここで死ぬのか」と自分の運命をかすれて笑みで嘲笑った。何にもない人生だったなと思っているとガウン! という銃の引き金を引く音が。耳を塞いで目を瞑った慎也は自分を守るかのように立っている一人の人物を見ていた。
当時、楓が死んで悠人のやる気がなかった頃の新人殺し所属の戦闘員。大原優吾、その人だった。たまたま辺境調査を行っていると慎也を発見。急所を打ち抜いて動きを封じてから慎也を担いで優吾は撤退したのだった。なんとか助かったことへの安心感によって慎也の意識は眠るように落ちていったのだった。
「その結果、戦闘員事務局に僕は保護されて。目が覚めたら事務局の救護室にいたんですよ。丸一日眠ってたって。そこから事情を話して、父さんは逮捕されました」
事情を聞かれたとき、相手をしてくれたのは救護室の主任の田村だった。田村に「よく今まで頑張ったね。えらいえらい」と抱きしめられた時は15歳であったが慎也は大きな声で泣いてしまったのはいい思い出である。父は児童虐待として逮捕。身寄りのなくなった慎也は孤児院へ移されそうになったがその時に極東支部所長レイシェルに申し出たのである。自分を雇ってくれと。自分を助けてくれた人物の元で働きたいと申し出た。
「その結果、新人殺し戦闘員として活動を始めて今に至ります」
「お前……そんな……」
自分は大人になろうとして真実を教えて欲しかっただけなのに当の父親は子供だからという理由で真実を教えずに逆恨み。役2年も拷問紛いの虐待をされたという慎也の人生。結局は人間はエゴの塊なのだということ、こういう人間がのうのうと生きている事実に舌打ちをするマルスだったが上からバシャアとお湯をかけられてマルスはビクゥ! と体を震えさせる。
「お前な……銭湯でそんな暗い話するなよ……。全部聞こえてるんだ」
「あ……優吾さん、すみません」
優吾はサウナルームへ入って行った。そんなことをいう優吾はいい人間なのである。大人になる……か、とマルスはまた新しい考えが頭に入ってくるきたことに物思いに沈む。今現在、慎也が幸せならそれでいいかとマルスは蛇口をひねる。温かいシャワーが彼を包み込むのだった。
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