散髪を終えて研究所の敷地内に入った頃には日は傾こうとしており、山際にかかる赤色の光をマルスと香織は見ていた。時間が経つのが少し早い気がする。それは隣にいる香織も同じ気持ちだそうだ。車椅子の取っ手を掴みながらジッと夕陽を眺めていた。
「日が落ちるのも早くなったな」
「そうね……もう肌寒くなる季節よ」
研究所の敷地内に入ったマルス達はエレベーターで上昇していき、マルスの案内でとある階に降りた。エレベーターを出た先に長い廊下があり、その廊下に大きな窓のようなものがあるのが見えた。それ以外は何もなく、無機質な白色の長い空間が広がっている。消毒されたような匂いが鼻をついた。
「ここが……?」
「奥に俺が眠っていた部屋がある。その手前は……隼人達だ」
香織は生唾を飲みながらゆっくりと車椅子を押していく。車輪の音に包まれながら香織はそっと窓の奥を見た。色々な機会のチューブに繋がれて眠る隼人の姿。右腕にコードが巻き付けられている状態で眠るパイセン、下半身を埋めるような機械の繋がれたサーシャに目元から頭を覆われた優吾。それぞれの部位に機械を繋がれた彼らを見て部屋についた香織の顔から血の気が抜けていた。
「すまない、刺激が強すぎたか……?」
「ううん、いいの。見て……おかないといけないわ」
口元を拭ってから微笑む香織を見てマルスは視線をスッとそらした。
「これ以上……お前達に迷惑はかけられない……!」
震える車椅子、香織はゆっくりと押してマルスをベッドに寝かせる。天井と香織を交互に見つめるマルスに対して香織は話を変えるために同じように天井を見た。
「そういえば……マルスと私とで部屋で話した時、私がベッドにいたよね?」
「演習前か……。フッ、今は真逆だな」
知るはずもなかった人間の遠い残響。懐かしむという行為に浸りながらマルスは演習の時を思い出していた。言い争いが絶えなかった安藤班との一回戦、悠人の気持ちに寄り添えた二回戦、皆で一丸となって挑んだ準決勝、そして八剣玲華との決勝戦。どれも印象的であった。目を閉じるとその当時の光景が頭に浮かぶようだ。
「でもマルス、今日はやけに空とか天井とか。上にあるものを見てるけど何かあったの? 私ずっと気になってて」
「あ、あぁ……。香織、月は出ているか?」
「え……? ん〜、まだ三日月にもなってないよ。うっすらと出てるぐらい。もしかして、月が気になるの?」
「何故かは分からないがな。……おかしな感覚だ。香織が来る前からずっと頭の中に映っているんだ、満月が」
「満月……ね。満月を見たら何か思い出せることでもあるの?」
「いや……何もない……のかもしれない」
以前として空気は良くならなかった。マルスも香織もこの空気にうんざりしてお互いに複雑な気持ちが生まれてきていたその時であった。ノックもなしにマルスの病室のドアが大きく開かれ、なだれ込むように入ってきた人物がいたのだ。それはあまりに唐突であり、あまりに滑稽な姿であった。口をピクピクと動かしながらマルスと香織は顔を見合い、そのまま倒れ込んだ人物に視線を移す。
「隼人……?」
ヨレヨレの病衣になれない松葉杖を乱暴に使って入ってきた結果、バランスを崩してマルスと香織のベッドの前に倒れ込んだ隼人であった。頭から倒れたにも関わらず、顔は赤くなっておらず本人もピンピンしている。半身を起き上がらせてニッコリ笑う隼人、状況が状況であり、マルスと香織は以前として神妙な顔つきを止めることができず、少し気まずい空気が辺りを覆う。
「マルス君、一瀬君、食事は……何故君がここにいる?」
書類を片手にマルスと香織の元へやってきた大和田は彼らのベッドの前に倒れている隼人を見て動きを止めた。人間、予想の範囲を大きく越えると動揺することはなく、ただ動かなくなるらしい。それはマルスもそうであった。
「君が目覚めるのはもう少し後だったはず……」
「あ、そうだよ。ここどこなんだ? 蓮は? 福井先輩は? 恋塚さんは? あの化け物はどうなったんだ!?」
「お、落ち着きなさい。私から説明するから」
どうどうと落ち着かせて隼人をマルスのベッドに座らせ、大和田は隼人に何があったのか、そして自分は新しい研究所のリーダーだということを伝えた。聞きながら隼人は腕を組んでサッパリ覚えていないような表情をするので大和田は隼人の病衣をザッと捲る。
「おっさん!? ……え?」
急に服を脱がされるのかと恐怖に震える隼人であったがそのつもりはないことを彼は知った。病衣の下、彼の胸部に奇妙な代物があったのだ。それは何かヒビが割れたような色合いの筋だったのだ。隼人の胸の真ん中にできた奇妙な筋はうっすらと全身へと続いているような、それも隼人の体を覆い尽くすような意図的に見える模様をしている。
「俺の……魔装みてぇだ……」
「マルス君や宮村君、そして今眠っている仲間達には同じ現象が起きている。魔装の魔石が君たちの中に潜り込んだんだ」
「じゃあ……俺は……俺はなんなんだよ?」
マルスも一瞬感じたであろう問題である。ただ、自分は根っからの人間ではない。それ故に深く考える必要はなかったが人間としての生を授かった隼人となると話は別だ。隼人が全身の筋肉を張るように力を込めるとぼんやりと筋が光った。薄暗くなりつつある病室にその光は目立つ。自分の腕と腹と胸を見る隼人の顔からは一瞬だけ血の気が引いていた。そのまま倒れそうになるが香織が後ろから支えてなんとか大事には至らなかった。半身を起き上がらせた隼人は頭を掻きながら窓の外を見ていた。
「……蓮はどうなった」
「彼は無事だ。天野原君だけでなく、チームアルマスは全員生還。君のおかげだ」
「俺だけじゃない……」
大和田は一瞬だけ、隼人がなんのことを言っているのか分からなくなっていた。自分の拳をギュッと握り締めながら隼人は俯いてボソボソと喋る。ベッドに座るマルスからは良く見える。歯を食いしばって泣くまいとしている隼人を。彼が覚醒魔獣との戦いで何を感じてどんな痛い目にあったかは分からない。ただ、これらの事実を受け入れるには彼はまだ若すぎる。それだけは分かっていた。
「俺だけの……力じゃない……。それに……俺だけじゃ……死ぬところだった……」
穴が空いていた隼人の腕はもう綺麗に治っていた。だがしかし、隼人の目には血を垂らす腕の穴が良く見える。自分の不注意であそこまで危機になるとは思わなかったのだ。いくら大和田が隼人を励まそうとしてもその励ましは隼人にとってお間違いなので何も響かなかった。かと言って厳しい意見が欲しいわけではない。自分が欲しい言葉を分かってくれる人がいなくて彼は何も言えなくなっている。
「……すみません。一人にさせてください」
ベッドから立ち上がった隼人。もう車椅子を使うことはなく、ヨロヨロと足の痺れに耐えながら歩き去っていった。静かに閉められたドア。取り残されたマルス達は無言で俯く。マルスはただひたすらに彼が欲しがっていた言葉を探っていた。いくら善良な大和田であっても戦闘員ではない、それに初めて会った男の気持ちなんぞ分かるわけがない。
「隼人は……殴りに行ったな」
「殴りにいった……?」
マルスはベッドのそばに止めていた車椅子に器用に座ってからストッパーを外す、車輪にかける腕の力を込めたマルスはそのまま部屋を出て行った。止めようとした大和田であるがそれを香織が止める。
「大和田さん、今はマルス達のわがままを許してください」
「一瀬君……、宮村君はまだ病み上がりだ。しっかりと休養を取らせてから……」
「もう眠れないほど、彼は寝てます」
大和田は香織の言葉に黙り込んでしまった。香織はマルスが去っていたのを確認して少しだけ彼を応援する気持ちを見せた。病室のドアから廊下を眺める香織の顔は穏やかだ。
〜ーーーーーーーー〜
研究員はあまり使うことのないトレーニングルームに隼人はいた。魔装の点検の際や研究所への用事があった際に待ち時間に隼人が入っていた部屋である。各種トレーニングマシンが揃った少し広いスタジオのような部屋で改造魔獣の時は被害に遭っていない部屋らしいことが伝わってくる。
吊るしたサンドバッグに拳で突く隼人。今までとは違って魔装がなくても体が軽いことや湧き上がるような力のおかげか包帯などのテーピングがなくとも指や腕にかかる負担は少なく、自分の体を不思議に思っていた。彼の頭の中には覚醒魔獣との戦いや改造魔獣、そして決勝の恋塚紅音との戦いが再生されている。
映る思い出はどれも彼の悪いところが出ているものであり、隼人は歯を食いしばりながらただひたすらにサンドバッグを殴っていた。大きく凹んで揺れるサンドバッグを片目に隼人は無心になろうと必死だ。がしかし、映像として綺麗に浮かぶ今までの戦闘や自分の姿に耐えられなくなって乱暴に叫びながら思いっきり殴る飛ばす。自分でも想像の付かなかったほどの威力で放たれた拳は吊るされたサンドバッグを大きく吹っ飛ばし、血反吐のように漏れ出す砂を見て隼人は確信した。
「あぁ……俺もう人間じゃない……」
それだけが怖くて仕方がない隼人は急いで砂を集めて処分しようと箒を持つとトレーニングルームの一角にマルスがいたのを発見した。箒を手放して隼人はマルスの元にドカドカと近づいて彼の間近で足を止めた。マルスの顔は以前として飄々としており、今の隼人には少しそれが腹立たしい。
「……眠れないのか?」
その一言で頂点に達した隼人はマルスの胸ぐらを掴んで自分の顔に近づけて彼の目をグッと見た。
「楽しいかよ……、マルス。えぇ? 俺を見てて楽しいからそうやってジョークみたいな言葉吐けるんだよなぁ!! お前はいい身分だぜ……。自分の辛さを吐き出せる相手がいるんだからな……! お前の辛さも良さも醜さも! 全部受け止めてくれる女がいるんだからな!!」
「……お前」
「同情なんて不要だぜ……? だとしたらそこで終わってしまうんだからな……! 見ろよ、人間じゃなくなってるんだよ……。魔装がなくてもこんな力出せるようになってるんだよ……! 傷もすぐに治る。体は光る。拳は特にそうだ!! マルスの変化なんて香織は全部把握して励ましてくれるんだろ!? あぁ、言えよ!!」
「……阿呆」
マルスの言葉に隼人はようやく現実に帰還してマルスを手放した後、腰から崩れるように床に座り込んだ。車椅子に腰が戻ったマルスは病衣の襟を整えてから隼人をみる。何か大事なものが抜かれたような表情をしていた。
「他人の全てがわかってたまるか。たしかに俺もお前も同じだ。魔石が体の中に入って変化を出した。香織が分かっているのはそれだけだ。あとは俺だけが詳しく知っている。体の変化も、気持ちも、今何をすべきかも」
知らないからマルスだって気まずい空気で今までを過ごしていたのだ。が、マルスは決してそのようなことを香織には見せまいと隠し通すつもりでいた。隼人はそれが分かっていない。子供のような隼人にはそれだけが分かっていない。異性の女、それも男女の仲が進んだ者達はお互いに何を思っているのか、すぐに分かると思っている。
「なんだ? お前、大和田が心配してくれている裏で女の承認に飢えていたのか? 言っておくがな……俺はまだ香織のことが分からない。これを今から目覚めるパイセン達や事務局にいる蓮達が見たらどう思う? お前は蓮や福井、そして恋塚を守るために必死に戦ったんだろう? 魔装は決して宿主を見捨てたりはしない。俺はそう思う。お前の『守りたい』という本能が魔装を目覚めさせたんだ」
香織には言えなかった魔石から魔獣への連想。魔獣は本能で生きている。生まれた時から歩く方法や餌を取る方法をそれぞれ理解している。食事、運動、繁殖さえも、本能で叩き込まれている。魔獣の本体、魔石だってそれは同じだ。マルスは少し違うが「神として戦争を終わらせる」という本心、隼人は「何がなんでも守りきる」と言った本能に応えてくれたのだ。激戦を積んだのは使用者である自分達だけではないのだから。
「不思議なもんさ。他人に時間をかけるのも。男女の仲、それも恋愛なんて自我の崩壊と再生、それの繰り返しみたいなものだ。隼人、今まで溜まっていた不満もあると思う。それにこの激戦でお前が感じた畏怖も熱意は感じてくれる人がいる。共有できることはしっかりとしておけ。それ以外は自己で見つめ直すんだ。分からなくなったら知恵を求めろ。人間はそうできてる」
久々に熱く語ったマルス。隼人はそんなマルスの話を聞いて視線をも合わせてくれなかった。が……伸びた髪から覗く頬には涙が滝のように垂れている。声を押し殺して嗚咽を挟みながら涙を流すその様子をマルスはジッと見ていた。吐き出している。自分の叫びも、恐怖も、怒りも。今の隼人に必要なのは女ではなく、安らぎかもしれない。が、彼の気持ちも分からないとは言い切れなかった。
「男泣きを……させてくれ……!」
「好きにしろ。……思えば新人殺しで俺を叱ってくれたのは……隼人だったな」
演習が終わってからの空撃大猿との戦い、感情的になって自己中に動いたマルスに喝を入れたのは隼人だった。でもその後にみんなを楽しませようと銭湯やご飯を提案したのも隼人であった。彼が思う以上にマルス達は隼人に救われているのだ。
「お前……」
「ハハッ、これでお互い様だな。このことは黙っておいてやる」
涙を拭った隼人は歯をスッと見せて笑うマルスをジッと見た後に立ち上がり、勢いよく頭を下げた。あまりにも急なことだったので後ろからバランスを崩してマルスは倒れそうになるがなんとか耐える。
「すまん、変な嫉妬でお前に八つ当たりをして」
こうも自然に謝れるのなら大丈夫だ。マルスは安心して「おう」と返事をする。微笑むマルスを見て安心したのか隼人はニッといつも通りに笑ってから砂と空になったサンドバッグを見る。隼人の横に移動したマルスは倒れた箒を取る。
「掃除するか?」
「いや、俺は腹が減った。晩御飯を頼もう」
「お前らしいな」
二人で笑っていると遅れてやってきた香織が部屋に入ってきて散らかったトレーニングルームとマルス達を見て今すぐ片付けるようにと今まで見たこともないほどのお叱りを受けて床にめり込むほどの勢いで謝るマルスと隼人なのであった。
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