目的地までの距離はそう遠くもなかったが蓮からすれば緊張で足が動かず、緊張でかなりの時間をかけてしまった。もう昼時だ。ちょうど正午あたりに約束を取り付けていた蓮は通信機を片手にとある屋敷まで出向いていた。東島班の3位屋敷よりも一回り大きい2位の屋敷。福井班の住居である。
そびえ立つ門をみて過去の自分への記憶を写しながら蓮は門を潜っていった。広い庭だ。自分達の屋敷はレグノス班の名残からか訓練場が建てられてあったり広いグラウンドがあったりするのだが福井班の住居は花壇やテーブルと椅子、芝生と言った寛ぐための庭となっている。よく手入れがされているのか元気そうに花は咲いていた。
玄関ドアの前まで来た蓮は生唾を飲み込んだ後にインターホンを押す。ピンポーンと電子音が響く中でソワソワと足を動かして待つ蓮。目的の人物はすぐに出てきた。
「いらっしゃい、待ってたよ〜」
「あ、こんにちわ……。柔美さん」
ンフと笑いながら扉を開けたのは福井班の班長、福井柔美だ。新生稲田班とも言われるこの班の班長であり、今だにあだ名は「タクティクス」であるこの班。蓮を呼んだのは柔美であり、ある意味で彼のためにこの屋敷に呼んだようなものだ。クーデターに巻き込まれた蓮はあれから恐怖心に囚われてしまい隣で見ていた隼人も心配していたそう。そのことを知った柔美は通信機で蓮に連絡。落ち着くまで一緒に話そうという申し出を二つ返事で返した蓮はこの屋敷にやってきたというわけだ。
二つ返事をしたのはいいものの蓮は17歳。対する柔美は22歳というわけで5年の差がある。年上の女に対して少し緊張するのは男の|性《さが》か。あるいは年齢の差か。柔美は蓮の緊張をほぐすようにいつものトーンで話しかけた。
「緊張しなくてもいいよ。天野原君と私じゃあもう一緒にジュースを飲んだ仲じゃない。部屋に案内するからおいで」
手招きで蓮を入れてから靴を脱がせて柔美は自分の部屋へと案内した。階段の作りや部屋の間取りは序列関係なくよく似ているらしい。そこだけ蓮は慣れたような顔つきで階段を登っていく。
「緊張ほぐれた?」
「いやぁ……なんていうか〜……。俺、入っていいんです、マジで? 男ですよ?」
「天野原君ならかまわないよ。ほら、ここが私の部屋〜」
ガチャリと開けられた先にあった柔美の部屋。緑を基調としたマットや布団にカーテン。どことなく森の中と言った雰囲気を醸し出しておりみていると目が落ち着いてくる。緑には落ち着く効果があるというのを蓮はどこかで聞いたことがあったがその通りなのだと実感した。初めて会ったのもバーチャル世界の森の中だったなと思い出す。
「天野原君、コーヒー飲める?」
「お砂糖マシマシなら」
「あれ、意外と甘党?」
「子供っぽいと思うんですけどね。俺は砂糖マシマシじゃあないと飲めない」
可愛い、少し照れながら話す蓮をみて柔美の母性は爆発した。言われた通りに砂糖マシマシに入れたマグカップにインスタントコーヒーをパッパと適量。あとは電気ポッドのお湯が沸くのを待つだけである。支度を終えた柔美をみているとようやく慣れたのか、いつものトーンで蓮は話しかけた。
「柔美さん、他の班員さんは下のリビングですか?」
「そうだね。あとは地下の訓練場かな? あ、ずっと立ってたらダメダメ。座椅子ならあるからこれに座って」
ありがたく座椅子に座る蓮。少し天井が高い部屋で座椅子に座るのはモゾモゾするがお湯が沸いた電気ポッドとマグカップを片手に向かいの座椅子に座った柔美を見るとどうでも良くなる。柔美は椅子よりも座椅子の方がいいのだろうか? ちょうどいい高さのテーブルにカップを置いてコポコポお湯を注ぐ彼女をみていた。
「はい、熱いから気をつけてね。あ、フーフーしようか?」
「柔美さん……、俺もう17だから。こんなのよゆ……あっつ!?」
蓮の想像を越える熱さにカップを手放しそうになったがここは彼の意地が勝った。ギリギリこぼれない絶妙な角度でカップを耐えさせた蓮。日頃投げナイフを構えているからか指先の器用度は自慢できるものだ。カップを置いてシュンとする蓮を見ている柔美はどこか楽しそうである。
「いつも通りの天野原君だ」
「うっさいっす」
今度こそ優雅にコーヒーを飲む蓮を見て柔美も口をつける。そのままコーヒーを飲むだけの時間が続き、ある程度の量まで行ったところで柔美は本題に移ろうと咳払いをした。
「ところで天野原君。まだ私が呼んだ理由を言ってなかったね。ずっと心配になっちゃっててさ。一緒にジュース飲んだ夜から」
あのピーチジュースの味は忘れたくても忘れられなかった。蓮の心や体にはまだ抱擁の温もりが根付いている。どうして柔美は自分を抱きしめてくれたのか。その答えがわかるほど蓮は素直ではなかった。恥ずかしながら柔美にはそのことがバレていたのだろう。研究所の任務が終わり、何か大切なものが抜かれた表情で帰ってきた蓮を見た時、柔美の胸の奥がキュッとなった気がしたのだ。柔美自身にも蓮を放っておくことができないという心がどこか芽生えており、まだ傷が残る蓮の心をどうにかするために呼んだのだ。細かくは説明しないが一通りの説明を終えた柔美はクスっと笑う。
「お節介かなって思ったんだけど。私と話して楽なことがあれば何でも言って。こう見えて私聞き上手なんだよ?」
「えぇ〜……っと。急に言われると困るっていうか……」
蓮は指で頭頂部を掻きながら苦笑い。柔美の気持ちは嬉しい。できることなら蓮は柔美という信頼できる大人を頼りたい。自分だけじゃあどうこうできない。同い年で一番信頼している隼人とでも解決できそうにない傷を蓮は持っている。明確に隼人にはある守りたい意志。それに比べてよく考えてみると何もない蓮。親元から離れる、クソみたいな生活から抜け出すために戦闘員になった蓮と隼人の差。守りたいものもなく、根拠のない何かにすがることでしか生きていけない自分自身が蓮は嫌いだった。かと言ってこの思いを柔美に説明できるかと言われても頷くことができない。分からないから。
困ったような表情で腕を組み、唸る蓮を見て柔美はハッとしてしまった。
「難しかった?」
「正直……分からないのが本音なので……。ハハッ、俺も柔美さんみたいな余裕が欲しいや。どんな悲しいことがあってもケロッとできているような柔美さんのメンタルが欲しい」
それを言った途端、今まで笑顔気味だった柔美の顔が引き攣った。蓮はそれを見逃さない。一瞬の表情だったが蓮からすれば初めてみる柔美の表情を見てしまった。冷や汗がタラリと垂れる。柔美の機嫌を損ねるのはまずい。そう判断した蓮は無理矢理にでも笑顔を作って勢いよくコーヒーを飲む。
「あ、あー! コーヒー冷めちゃいますよ〜っと。やっぱり砂糖マシマシはうまいっすね! えっと……お、おかわりは……あぁ……えっと、いらないっす」
それにも疲れて蓮の表情は元通り。芝居できるほど蓮の心に余裕はなかった。柔美はまたハッとして蓮をみる。関係のない蓮に心根を出してしまったようだ。蓮は関係ない。柔美の過去と蓮は何の関係もないのだ。申し訳ないことをしたと思った柔美はハンカチで蓮の冷や汗を拭った。
「汗かいちゃってるよ。ごめんね、心配させちゃって」
「あ……はい……?」
ハンカチをポケットにしまった柔美。さっきの引き攣った表情は一切なく、ハンカチで拭いてくれた時はいつもの優しい柔美だった。まだ柔美と知り合って少ししか経ってない。相手のこともよく知らないのにないものねだりを言うのはよくないのかもしれない。蓮は呆けた表情から普段の表情に変える。さっきから忙しなく動く蓮の目の奥に柔美は救いを求める何かを見た気がした。
「すみません。贅沢かもしれないんですけど……。俺は何もないんですよ。隼人にあるような守りたい意志があるかなんて自信がもてない。ただ生き残るためだけに強くなった俺と関わる人を守りたい勢いで強くなったアイツ。見てるだけで分かるし、思い知らされる。それが自己嫌悪か劣等感なのか、俺には分からないだけです」
「天野原君……」
柔美も少し彼の心意気が分かった気がした。彼は今悩んでいる。己の正義は何なのかということに。この亜人との襲撃や研究所の件で蓮はいくつもの正義を見てきたはずだ。それが悪でさえ、正義は正義。形は違う。それらと自分を照らし合わせて見た時に蓮自身に疑問が湧いたのだろう。
「そっか。ねぇ、天野原君。私がその答えを教えれるかは正直分からない」
「まぁ……」
「この前も言ったけど……大切なのは自分自身。宮村隼人君と天野原君とを比べたくなる気持ちは分かるけど、他人を比べることで自分の個性を確立させるなんて、ほんとに幸せとは思わない」
ポスンと頭の上に手を置かれて優しく撫でられた蓮は一瞬本気で泣きそうになったがグッと堪える。泣くのは流石に恥ずかしい。男がこうやって女に泣きつくなんてカッコ悪い。18にもなろうとする青年が泣きつくだなんて。蓮からすれば屈辱感に苛まれそうだが今は何故か違う気がした。
叩いても伸びないほどに蓮は叩かれた。人の業や残酷な現実に。そして身内間でのコンプレックス。自分自身。叩いて伸びるほど蓮は無機質じゃない。その答えは蓮自身の中にある。柔美はどうか蓮に気がついて欲しかった。蓮は明らかに成長している。初めて出会った時と比べても今の蓮の方が立派だ。
そうやって震える蓮を柔美は机越しに頭を撫で続ける。しばらくの間ジッとしていたが蓮が首を横に振ったのを境に手を離す。
「もういいです」
蓮は目をぐりぐり擦って柔美から離れる。流石に羞恥心が勝ったらしい。目頭が赤くなった蓮を見て柔美は彼らしいと思った。
「とにかく……比べることはやめないと。生きて、生きて考えます。生きないと考えれない。魔装もある、体はまだ動ける。まぁ、そんな心捨てれるほど充実したような経験が俺にはありませんが……絶対に」
気まずそうに笑う蓮に対して何かできたであろうか。撫でたり、抱いたりしても癒えることのないような悩みにも見える。蓮の境遇や心根は知っているようなつもりでいた柔美だが、彼自身、柔美の境遇や道を知らないでいることが複雑に思えて仕方がなかった。打ち解けるタイミングを見失った気がしていた柔美は隠すようにクスリと微笑む。
「分かるといいね、その答え。お姉さんは味方だよ」
「だから恥ずかしいんですけど」
「男の子はこういうの……『バブみ』って好きなんじゃないの?」
「人によります!」
目頭はもう赤くないが顔を赤くして吠える蓮。今度は男を見せてやると決意する蓮といつでも甘やかしてしまいそうとまた母性が爆発しそうになる火薬庫、柔美なのであった。
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