耳を澄ませながらルルグは足を進めているとどこからか窓ガラスが割れたような音が立った。その後に銃声のような鋭い音が発生する。ルルグは敏感になっていた耳を閉じて腕を組んだ。聴力が自慢の虎人族は耳を立てている時の感覚は凄まじい。音だけで共感覚としての視界を得るルルグはクレアの一撃による空気の擦れる音は死活問題なのだ。
「派手にやってるねぇ。っと……そろそろだ」
ヒュンと尻尾を動かして微笑みながらルルグは頭の中にインプットした地図を頼りに歩き進める。この記憶力も自分の判断の仕方も全ては解放戦線時代の賜物だった。
ルルグは捨て子だ。本当の親は誰か知らない。虎人族は典型的な戦闘民族であり、戦いを好む血気盛んな者たちで溢れかえる種族だ。しかし、ルルグは大人しい子として生まれた。あまり戦いは好まない優しい性格だったのだ。そんな彼に絶望した親はルルグを捨て、当時人間への報復を考えていた解放戦線に彼を売り飛ばしたのだ。
金で捨てられた愛は非常に軽い。物心つくまでは解放戦線の兵士に育てられ、彼は兵器としての訓練を受けた。体術に彼の武器である鉤爪の訓練、戦闘の知識や軍事用機器の使い方まで全てを教えられた。その間にルルグは好戦的ではないが何も躊躇うことなく殺しを行う冷酷な殺人兵器として名を馳せたのである。
そんな訓練を行なっていた時に人魔大戦が勃発したのだ。ライカンスロープとある種族が主導になって行われたこの戦争でルルグは多くの仲間を失った。とは入っても何も感じない。ルルグにとって仲間の死や殺しは昨日の晩御飯を思い出すかのようにどうでもいいことなのだ。他の亜人と違って故郷も滅ぼされてない、仲間も殺されてない、特に何もないルルグは平然と人間を殺してその肉を食料にしながら戦っていた。血反吐と肉片だらけのルルグは見るだけでも恐怖だったのか、人間はルルグに近づかないようになる。そんな中でルルグはご主人様との出会いを果たして話を聞いた。
「私と共に人間へ報復しないか?」
報復するものも何もなかったがルルグにとっては退屈な日々だったのも事実、知らない間に終わっていた戦争を思い出して楽しそうだと思えたルルグはご主人様に仮初の忠誠を誓ったのだ。そして今に至る。感情を取り戻したというわけもなく、昔よりかは喋るようになった程度。日々退屈するだけだったが今日からそんな日々を抜け出すことができるのだ。そう考えながらルルグは目的地へ何の障害物をも越えることなく到達したのだ。
そこは改造魔獣のデータが保管された場所、要は研究所の中核部分である。ルルグは扉を蹴り飛ばす勢いで入り、中を物色した。辺りには各種戸棚のような物が広がっており、人は誰もいない。警戒して辺りを見るとどこからか急に弾丸が飛んできてルルグはすぐに顔を逸らして回避した。弾はルルグの背後の棚に当たってキュルルル! と音を立てる。
「これどうよ、すごいでしょ?」
ジッと射線を見ると立派なアサルトライフルを掲げた一人の女性がいる。メガネをかけた切長の目にしっかりと櫛で整えられた髪、白衣の下に覗くスーツ。上和田だ。小谷松は安全なシェルターに避難し、今は戦闘員がここに駆けつけるまでの時間稼ぎ。戦闘員がやってくると計画が始動する。
「アナタが亜人ね? こんなところに一体何のようかしら」
「そういう君こそ、度胸のある女だ。女子一人でやってくる度胸は認めるよ」
ルルグは鉤爪を装着してニヤリと笑った。どこか下心を感じる歪んだ笑みだ。拍手のように両手を合わせてパシ、パシ、と指先でをゆっくり合わせる動きをとる。
「へぇええ」
ニタァと笑いかけながらルルグは拍手を早めていく。気味が悪かったので上和田はライフルの引き金を引いた。音と光を放ちながら連射される弾丸の嵐。ルルグはチラリと弾道を把握してから爪で払うように迎撃する。切るではない、払う。弾道を逸らして周りの棚に衝突し、音を上げた。
昔の方が速い弾が飛んできていたなと思い返しながらルルグはゆっくりと近づく。上和田は引き金をまた引いた。同じ結果。また引いた。同じ結果。全てが同じ結果。ライフルの意味がない。ルルグは近づくに連れて彼の頬は裂けるように口角が上がる。
「あぁ〜……ちょっと怖がってるねぇ」
「うるさい!」
「では試させてもらうよ」
ルルグは凄まじい速度で上和田の腹に爪を差し込んだ。急所ではない、あえて血の流れが激しくない地点に。上和田は急に襲いかかる激痛に顔を歪めながらなんとかしてライフルの引き金を引いた。
ルルグはニタっとして爪を彼の目の前で振るう。するとどうしたことか、爪を振るった地点に黄色の亀裂のような線が発生。弾丸はそれに呑み込まれるように切り刻まれていった。上和田は信じられない表情をする。
「うぅ……どうして……? どうして弾丸が……!?」
「僕が君達と同じ武器を使うだけの存在だと思ったのかい? それはお間違いだよ。僕は特別な力を手に入れたんだ。ご主人様のおかげでね」
ルルグは上和田の髪を掴んで顔を近づける。上和田はここで知った。時間稼ぎだからと言って単身で挑んでいい相手ではない。自分と共に時間稼ぎ枠に入った研究員の荒張は部下と共に亜人の殲滅に向かった。使えないやつを使うのは無駄だと判断した上和田のミスである。後悔にくれる彼女を一瞥しながらルルグは軽く腹を殴って動きを封じることにした。ルルグにとっては軽い一撃でも一般装備も当然な上和田の体には深刻なダメージが与えられたらしく、内側からグニャリと曲がるようにして形が変形する。
「あぁあぁ、やっちゃった」
ルルグは血が垂れる彼女の首筋をゆっくりと撫で回しながら顎を指で挟むようにして彼女を見る。
「生身同然で僕に手を出そうと思ったらお間違いさ」
ルルグは上和田を蹴り飛ばした。「グゥう!」と悲鳴を上げた上和田に対してルルグは面白がるように「グゥう!」と声真似をしてケラケラと笑う。
「ウッツクククゥアアハハハハ!! あぁ……僕はここに存在している! 御伽噺の存在じゃあないんだよ……最強のライカンスロープとして……!!」
上和田は恐怖で動けなかった。どうする、この状況でどうする? と考えていると動けない彼女に対してゆっくりとルルグが近づいてくる。
「こ、来ないで! ねぇ!」
「やめなぁい」
ルルグは倒れる上和田の頭を踏んで彼女の背後にあるモニターを物色した。おそらくここにお目当てのデータが入っている。
「おい、女。僕はあるデータを探しているんだ。ここのモニターに写るのがそうかな?」
「そんな……こと……! ……う、ウゥウウウ!」
彼女の顔には先程の黄色の亀裂が作られており、手で押さえるようにして振りはだこうとすると逆に手が切り刻まれるように切れていき、彼女の手は切傷だらけとなってしまった。それを見たルルグは特に表情を変えることなく声を上げる。
「剥がそうとしても無駄だよ。これは僕が残した斬撃だ。僕が許可するまで消えることはない」
ルルグの与えられた力。それは斬撃の固定。ルルグが行った斬撃による現象は任意でその場に固定され、動かそうとした物なら対象を切断する。対象の体にそれを行うとふれるたびに傷が増す怪我を与えることができるのだ。その名も悪魔斬撃。一体どういう原理か解明しようとしたが頭がそれを許さない。彼の言うことに従ってコンピュータを起動すべきか、死んでも反抗すべきか分からない。反抗をすると一生嬲られるそんな気がした。
「答えて」
ルルグは爪を振るうとその先から発生した黄色の線が上和田の右親指を切断する。自身の指が切断された激痛と衝撃と恐怖が一気に襲いかかり彼女は悲鳴を上げたがルルグに頭を強く踏まれてその声は遮られる。
「うるさい。言わないなら続けるよ」
「やめて……! お願い……離して……」
「答えてよ」
「アァアア!」
返り血がルルグの服につく。もうさっさと終わらせたいのにこの女はしぶとい。ルルグからしたら面倒な相手だった。さらに頭を強く踏んでまた優しい声で話しかける。
「頑張るんだなぁ。タフな女は戦争の時にちょっと見たくらいか……。色々と懐かしいもんだけど諦めが悪いのは良くないよ」
ゆっくりとしゃがみ込んでニッコリと笑顔を取った後に凍りつくような真顔になった。笑顔は一切ない、無表情の中に狂気が見え隠れする顔を上和田に近づける。
「ここのモニターかな?」
「……い……いわ……いわな……」
「目玉抉るよ?」
「……ウウゥァアアア!」
本当に面倒な女だとルルグはため息。顔を離してどうしようかと考える。上和田も同じだ。せっかくの研究データを小谷松の理想が叶う前に渡されて破壊されるわけにはいかない。彼女にも彼女の意思がある。そっと自分を踏みつける亜人を一瞥した後、ゆっくりと腕を伸ばしてライフルを手に取り、引き金を引いた。
音を立てて発射された弾丸は標準がブレブレだったがルルグの頬を掠める。ピシッとだけ傷が入ったルルグの顔。垂れる血を眺めてそれをレロリと舐めとったルルグは「へぇ……」と女を見た。目は死んでる。ただ笑顔。上和田はもしかして間違ったことをしてしまったかと寒気がするのを感じた。
「あ……いや……」
「ここまでシツコイ女は初めてだよ。すごいすごい」
ペシペシと拍手するように指同士を合わせるルルグ。癖でよくやってしまうこの指遊び、はなから見れば不気味そのもの。特に善悪の基準もなく、罪悪感もなく、ただ気楽に生きたいように生きているルルグは余裕がある。他の亜人とは一風違うのは特に目的のない空っぽな男という理由だ。下唇をとんがらせて「フゥむ……」と唸ったルルグはまた表情を凍らせた。
「え……?」
「人間ってのはさ。協調性ってものがあるから成り上がることができた。戦争やってた時にお偉いさんが口酸っぱくして亜人の僕らに言っていたことさ。まるで僕らはそんな協調性がないとでも言うかのようにね。実際にはお上に操られてるお人形さん。血より堅い群れで生きてきた僕らとはまた違う」
急に始まったルルグの一人言に上和田は大いに戸惑った。もう体は使い物にならず、血も滴ってきているのか凍えるような寒さを感じている。彼女にできるのはその話を聞くことぐらい。何もできないのをいいことにルルグは声色を少しだけ変えて話を続ける。
「みんな正しいって思ってるもんだね。戦争なんてそんなもんさ。亜人がああだこうだ考えるのも面倒くさい。予想ぐらいしか今までできてなかったけど……人間は僕らと戦う以前にまだお互いを信頼しきれてないんだなぁって。同じ種族で争おうとするのもバカバカしいよ。短い生命の中で競争しあっても変わらない。形あるものだけを追いかける人間がどうも僕は理解できないんだ。神や仏が嫌いなんじゃあなくて、僕には僕の正義を保障してくれるご主人様がいる。名もなき兵士も人を沢山殺せば英雄になれるんだ」
「……え?」
「君らの正義は誰が保障してくれるんだろうね」
1人で展開されるルルグの応答。次の瞬間、上和田の腹に拳が勢いよく突きつけられた。あまりに強すぎる一撃に血反吐を吐く上和田。ルルグは彼女の足を掴んで地面に勢いよく叩きつけた後、戸棚に向かって勢いよく蹴り飛ばす。返事をする前に、言葉を紡ぐ前にこときれた上和田を見てルルグはため息。
「やっぱりちっぽけなんだよなぁ。どうして限られた時間の中で競争だけを求めるんだろ……。あぁ、考えても面倒くさいな……」
一人頭をかきながら血生臭い部屋の匂いに懐かしさを感じてルルグは一人で笑った。声だけが不気味に響く。
「えぇ〜……っと? ッゲ、カードキーでログインする方法か。これは予習できてなかった」
困ったなぁと頭を掻いてると彼女の白衣のポケットから何やらカードのようなものが見える。少し警戒しながら手に取るとそれは彼女のマスターキーだった。眼前のコンピュータを見るとカードを差し込む所が見える。それに気がついたルルグは少し時間を使いすぎたと後悔してムスッと頬を膨らませた。
「ヤンなっちゃうなぁ……」
カードを差し込むとすんなりと読み取られるコンピュータ。彼にとって必要な情報が沢山映し出されて計画通りであることを知る。ルルグは興奮して「っほほほほ!」と声を上げながらキーボードに情報を打ち込んでメモリーカードを差し込んだ。そしてデータをコピーする。
「これで……僕の仕事は終わりっと……。ん、時間もちょうどいいや」
時計を確認するとちょうど30分になりかける頃。その時である。ルルグの背後の扉が勢いよく開かれたのは……。
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