着いたり消えたりする電灯の下では血生臭い匂いが立ち込めていた。悠人達が着々と準備を進める地上と違い、ここは地下の世界。壁を跨いだ先にある地下のシェルターの中でマルスは今日行われた拷問に耐えて息を上げたところであった。全身切り傷や打ち身の後、剥がれた爪がほんのわずかな皮膚に絡まってブラブラと振り子のように揺れていた。
ここまで痛みつけられても死ぬことはない己の体をマルスは最初の方こそ呪うことができたが今ではもう呪う気持ちさえない。磔にされたマルスが逃げ出さないように監視、という名目で亜人は身動き取れないマルスをいいことに武器の試し撃ちであったり、来る人間との決戦に向けての訓練用の人形として扱われていた。
地上に降りてまでして神の世界から追放されたのに地上でも拷問じみた真似をされることだけが不快だっただろう。人間の世界に降りてから人間達の暦や時間の感覚で生きてきたため、体に染み付いたはずの痛みへの耐性がどこか抜けており、マルスの中に「久しい」という感情が湧いていた。
魔石が体の中に入ったことから死なせることはない、また死なせてくれないこの体が肉を擦るような音を発しながら元に戻っていく。戻るとは言っても地に落ちた血液が自分の体の中に戻ってきたり、表面が覆われて体がある程度まで戻るだけであって内側、体の中はズタズタであった。
「人間達の言葉では『断腸の思い』とか言って必死さを表現するようだ。あぁ、今断腸してたのは俺の方だったな」
「憎まれ口を叩くな! 姫君やご主人様の命令で貴様を監視している。逃げ出さないように、体を弄っただけだ」
今日の監視役は人狼、クレアだった。クレアが担当の日はマルスも少し苦い顔をする。ベイルに続いて復讐心が強い亜人はクレアだ。亜人が崇拝する姫君と同格の存在でもあるマルスを何の躊躇いもなく、刃物で斬りつける。それも駄々を捏ねるようにがむしゃらにマルスを斬る。そしてジワジワと戻りつつあるマルスの体を見て憎たらしい顔を見せながら刃物を研ぐのだ。
もはや何が理由で彼女は戦いに身を伏せているのか分からない状態だとマルスは感じたが戦場で狂った兵士が出てくるのはマルスが今まで作ってきた戦争でも同じだっただろうと思えばある程度は納得できた、理解はできなかったが。クレアは時折、いつも髪で隠している引き裂かれた唇を見せながらマルスの腹に拳を叩き込んでいた。その傷を見るたびにエリーニュスと己の存在に疑問が湧いてしまった。
「お前のお仲間の蜥蜴人族は俺と話をするだけだった……。狐人はただ俺を横目に居座るだけ、虎人族はお前ほどではないが体を弄ってくる。……お前が一番抱えているものがあるように見えるな。ベイルの次に」
「何回言わせる……。私の生活は失われた! 一瞬だ!! あぁ、ほんの一瞬だったさ。後ろから牙で首を噛まれたぐらいに一瞬で死んだ、生活がだ。今お前が受けている痛みなんぞ私と比べれば……! 姫君からお前のことを聞いた時は何も思わなかった……。が、一人になるとお前のことが憎くて仕方がなかった……! お前の仕事、とやらで私の生活が! 住む場所が! そして心を消されたんだから」
「そしてお前は今、この国に生きる人間の生活を奪い、住む場所を奪い、心……いや、命さえも消すために尽力を尽くしている……か。一度出来上がった亀裂はそうは簡単に戻らないな」
ここまでマルスが喋ったところでクレアは髪を逆立てながら腿のベルトに差し込んだナイフをマルスの口の中に突っ込んでギンと睨みつけた。かなり微調整がかけられており、マルスの口の中は一切の傷がついていない。ただ、ピクリと舌を動かせば切れて血が吹き出してしまうであろう。
「口を慎むか噛んで死ね。これ以上私を挑発してみろ。貴様も、そして貴様の仲間だった人間も私が殺す。あぁ、お前の目の前で殺してやる。そして奴らがお前に向ける憎しみを持ってしてわからせてやるさ。私には晴らさなければ、前に進めぬ恨みがある。その邪魔をするものは殺す。そしてこの力で掴み取って見せる。私の理想郷、誰も私が生きる邪魔をしない世界を、私は作る」
悲しいかな。彼女に酷い行いをした人間達はもう死んでいる。彼女が恨みを晴らすべき相手はもうこの世にはいない。その矛先を向けられない怒りを必死に自制しようとしているその姿が哀れで仕方がなかった。マルスが感じているこの哀れに近い。結果論でしか感じられなの感情だった。
ナイフを抜き、拭き取ってからマルスを睨んだ人狼は「すぐに戻って来る」とだけ言い残して部屋を後にした。今もジワジワと戻りつつある体を目にしてマルスは大きなため息をつく。長い間ここに磔になっているが何故自分が一人でエリーニュスを倒しに来たのか分からなくなってしまった。
自分の手が動くか動かないかを確かめながらマルスは去っていった人狼を目で追う。彼女が思う以上に人間は弱い。人間讃歌など単なる娯楽に過ぎない。ただ彼女には「復讐」という十字架を長い時の中で背負い続け、ああなってしまったように感じた。力で理想を手に入れた人魔大戦後の人間がどうなったか、彼女は痛いほど知っているだろうに。
〜ーーーーーーー〜
放棄された地下シェルターの廊下は暗くてジメッとした匂いで溢れていた。人狼として生きて来たクレアにとってこの暗さは何ら問題ではない。細かい音も拾える狼の耳と人間よりも効きのいい鼻を持っているクレアは目を奪われても物との距離感を把握することができる。監視の交代のためにルルグを呼ぼうと歩いていたクレアだったがふと立ち止まってマルスに言われたことを反芻していた。
今まで自分は恨みを晴らすためだけに戦って来た。そして同じような意志を持つベイルとビャクヤという亜人に出会い、クレアは嬉しさと何か複雑な思いを両方抱えながら今を生きているのだ。そんなビャクヤも恨みはあるだろうに彼が監視の番の時は何もせずに横目に見ているだけということに驚いた。
ベイルが人間に殺されることなく、今もここにいれば同じ意志のものとしての交流ができたであろうにクレアは姫君とご主人様の計画が進むにつれて磨耗していく亜人達の心を不審に思っていた。
「クレアちゃん、監視は?」
「そろそろ交代の時間だ。お前を探していた」
「呼ばなくても僕から向かっていたさ。彼、放ったらかしでいいの?」
「逃げないように痛みつけたさ」
「なるほど、ご立派。戦士の鑑」
なりたくて戦士になったわけではないことを目の前のルルグには分かってもらえなさそうなことをクレアはもう知っていた。顎だけをしゃくって合図をし、さっさと自分は自室に帰ろうとするとルルグに止められる。嫌々ながら振り返ったクレアの顔を見てニヤニヤと笑うルルグはいつものペースで話し始めた。
「なんか彼に言われたんじゃない?」
「何を……」
「動揺すると君の耳はよく動く。何言われたの?」
「……憎まれ口を叩かれて少し気分が悪くなっただけだ」
「フゥン、まぁ彼は姫君よりも長い間、人間達と暮らしていたから人間みたいな考えになっていそうだよね。でも僕達のご先祖のことだったり、僕達がやって来たことについては姫君よりも良く知ってる。心根までは彼は知らない、知ってるのは姫君さ」
「だからなんだ?」
「失礼なこと、聞いていいかい?」
ルルグは細い尻尾を壁にパシンと叩きながら腕を組んで背中から一気にもたれかかる。ついたり消えたりする電灯を眺めるその姿、クレアは自分の思い違いを知った。がらんどうな目の奥に初めて光を見た気がした。が、その光は輝いているものとは違う。異質で、触れれば体が腐るような本能が嫌がる光だ。クレアはルルグの目の中に見たことのない色を見たのだ。
「自由になった世界、本当は怖いんじゃないの?」
「なっ……、何を馬鹿なことを……!」
「時々考えるんだ。僕がここでご主人や姫君に対し、働くのはここが居場所でこれ以外ないと思うからさ。……ベイルもそうだった。あいつの口から直接聞いてないけど、イカれてたよ」
「今更だろう? 私は望むぞ。その先が地獄だろうと、苦しい世界でも私が望んだ理想の世界だ。美しいと思える世界だ。怖がることはない……!」
「ご立派ぁ。やっぱり僕ら、分かり合えないや」
スッと立ち上がったルルグは大きく伸びをして細い瞳をめいいっぱい開いてからいつもの目に戻った。ルルグの目からは色が消えている。珍しく弱々しいルルグを見たクレアは何か不安になり、ルルグの元に駆け寄ってその肩を掴んでいた。初めて彼女から体に触れられたルルグは肩越しにゆっくりと振り返る。
「……地獄が怖いか?」
「いいや。僕に逃げ場なんてない。ゲリラで命令通り殺しをしていた頃からそうだ。今もそう……森林の案内……僕もそういうのしてみたかったよ」
「お前らしくない。しっかりしろ。まだまだ戦いは終わらない。その戦いはもう近い。わかっているはずだ」
「違いない……。ん? クレアちゃん……!」
ルルグはクレアに覆い被さるように壁際へ勢いよくよった。叩きつけられた感覚を覚えて引き剥がそうとするクレアだったが地下シェルターが大きく揺れたことに気がつく。電灯が一斉に消え、夜目の虹彩が開いていった時、ルルグは唇を噛み締めたと思えば深い息を吐いて指先に力を込めていた。
暗い廊下で光出すルルグの爪、飾りのように爪から伸びた光は揺れて廊下を照らす。
「その戦い、もう来る」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!