マルスは暗闇の中にいた。正確には暗闇に似た何かの中にいた。人間としての視覚では到底表現できないような世界だ。例えるなら黒色のカーテン、銀色の霧、赤褐色の地層のような色合いの天井……、どの例えでも明確には表現できそうにない。平衡感覚や上下感覚、その全てもよく分からない所に至っては宇宙とも言い難い。
そんな空間の中にマルスはポツンと1人。聞こえる音としては砂嵐のようなヴウゥウン、ヴウゥウン、と言った奇妙な音だけだ。そのような音と暗闇の中に存在するマルスは遠くの一点に人影を見つめた。その人影に向かって走るようにして近づく。
「待て!!」
マルスは声を張り上げた。だがしかし、自分の目の前にまた表現し難いような層が重なり、自らの意識を遮断しようとしてくる。それでもマルスは声を張り上げてその影を追った。
「止まれ!! 戦ノ神!!」
その影、戦ノ神はゆっくりと振り返る。漆黒の鎧、赤黒い血のような目にどこか流木のようにも、苔が生した岩にも見えるようなシワのある肌。薄い唇から覗く歯は少し鋭く、細い。黒い髪から覗くその表情は冷徹であり、マルスの目をスコーンと突き抜けるように見つめている。戦ノ神は歩みを止めてマルスをジッと見た。
「ここで会うのも……実に何ヶ月ぶりであろう……」
やっとのことで追いついたマルスは何故か息切れがしないことを不思議に思いながら戦ノ神を見た。キッと彼を見るマルス。それに対して下目でマルスの眼を見つめる戦ノ神。まさに神と人間、いや人形の立場である。マルスは声を張り上げた。
「どうしてお前はあの時急に姿を現したんだ……! 今まで剣の中……いや、剣となっていたお前が……」
「汝よ、一体いつ、我は剣になると言った? 汝の力では到底奴には勝てないと思ったからな。やさぐれの魔獣、そして業に堕ちた人間には我が思い知らせるのがよかろう」
技量ではマルス一人で勝てる相手ではなかった。それもそうである。多数の改造魔獣に合わせて大多数の武装した研究員、マルス一人だけでは勝てそうにもない。そこは分かる。そうだとしても彼が分からなかったのは一体なぜ、剣としての戦ノ神が自分の体を乗っ取って動こうとしたのかだ。
「それはそうかもしれない……。じゃあ何故正体をバラすようなことをした?」
「愚かな人間に知らしめるのはそれが手っ取り早い。エデンが我を石にし、汝を下界に堕とした時点で神の掟は破られたようなものだ。我と汝は均衡を整えるだけで生きながらえることができる。そうではないか? それをなんだ。汝は一体いつから人間を好きになったのだ? 人間の心をいつ持つようになった? まさか……そこまで堕ちたのではあるまいな? 我はそれが心配になった。故にあの時は汝の体を借りた。それだけの話だ」
淡々と告げられる事実にマルスは何も言い返せなくなる。ある意味でマルスが一番恐れていたこと、それが甘さだったのだ。甘さを生んで神としての仕事意識や威厳を失ってしまう。心根までもが人間になってしまうと倒すべき相手である亜人に向ける剣の先端がぶれてしまう。その通りだ。
「ずっと剣だったお前に分からなくてもいい。確かに人間の業を見てきたのもあるが……俺は人間としてこの世界で戦ってきてその希望も見てきた。人間としての強さをな。この戦争は俺が人間として終わらせるべきだ」
「汝が信じているものはなんだ? 信頼か? そんなもの、簡単に崩れ去る。まぁ……汝が死なれては我の存在も消えてしまう。本末転倒だ。今までこの剣の力を増幅してきて手助けをしてきたつもりだが……戦争は激化してきているようだ。人魔大戦が起きた時から……いや、我が奴との接触を許した時から……この戦争は運命として繰り込まれたものらしい」
「奴とは誰だ……?」
「まだ確証がついたわけではない。お前の記憶にもまだ残っている筈だ。仮にやつが生き残っている亜人の神だとしたら……この戦争を引き起こした後に下界へ降りているはずなのだ。人魔大戦が発生してから奴は天界より姿を消し、我は牢獄に閉じ込められ……汝へとすり替えられた」
「ちょっと待て。そうなると俺のような人形じゃなくて神自体がこの下界に紛れているということか? 一体なぜ?」
「結論が早い。そろそろ時間だな……。何か話をしたかったら我を呼ぶが良い。もう我は汝の中に入っているからな。魔石とは面白いものだ」
「まだ話は終わってないぞ!! おい、戦ノ神!!」
手を伸ばすマルス。戦ノ神の姿はドンドン遠ざかっていき、マルスの視界は渦のように揉みくちゃにされていった。先ほどの砂嵐の音も次第に大きくなっていき、右も左も、上も下も境がなくなっていく。そのままマルスの意識は飲み込まれて消えていった。
「あぁッ!? え……?」
勢いよく半身を起こしたと思えばマルスはベットの上だった。青白い色をした緩い貫頭衣のような服に着替えさせられており、どこか引き攣ると思えば右腕に針が差し込まれている。その針はチューブと繋がっていて元を辿れば黄色の液体が入ったパックと繋がっていた。顔には絆創膏だろうか、何かが貼られている。辺りはカーテンで覆われており、どこかしら、日の光を感じた。
「ここ……は……?」
マルスがそう呟くと勢いよくカーテンが開かれる。驚くマルス以上に驚いたような表情をしながら入ってきたのは極東支部救護班主任、田村だった。わけが分からないような表情のマルスに同じく気が動転している田村。一瞬二人は固まった後に田村はドットベットに倒れ込むように動き、「よかった……」と声を漏らした。
「目が……冷めたのね……!」
「田村……何を焦っているんだ? 俺が任務に研究所に入ったのはつい昨日のことだろう?」
「……昨日? あなたが担架でここに運ばれたのはつい2週間も前のことなのよ?」
「2週間……?」
マルスは想像以上の時間が経っていたことに驚愕した。つい先ほどのようにも感じられた戦ノ神との対談、意識が覚めればもう朝のように感じられたのに田村から告げられたのは2週間意識不明の事実。未だに信じられないマルスは少々ムスッとしたような表情を取る。
「バカ言え、そんなことは信じられない」
「嘘じゃないわ。その証拠に、貴方のブツに管が刺さってるでしょ?」
「は……? ……ん!?」
「それほど長い間眠ってたのよ」
「これを刺したのは誰だ……」
「私よ」
「ヴァ!?」
チューブが引き攣り、腕を押さえるマルス。一応、動けるようだと確認されたマルスを見て田村はマルスの布団を捲る。布団を捲ると管と繋がって盛り上がったマルスの服が見えた。もちろん、ブツも見える。
「少し痛いけど我慢して」
「田村……一体何を……あ……アァアアアアア!?」
深い眠りからの洗礼を受けたマルスは涙目になりながら己のブツを抑えて叫び声を上げた。恐ろしい、ただそれの一言である。血のついた管を持つ田村と涙目でブツを押さえてジタバタとベットを蠢くマルス。男として、いや、神としての尊厳を失った瞬間でもあるマルスはそのまま半身を起こして田村に飛びかかる勢いでカッと目を見開く。
「貴様ぁ!! 説明もなしに俺の体を汚しやがったな!! あぁ……もうおしまいだ……」
「ブツから抜くのは痛いと思うわ……。ごめんなさい」
看護師としても田村は仕方がないと割り切るが田村も女だ。管を抜く痛みは分からない。管を治して血を拭き、田村はゆっくりとマルスの腕から点滴を抜いて栄養補給液を入れたカップをマルスに手渡した。今だにキッと睨んでくるが渋々とカップを受け取って一気に飲み干す。よほど喉が渇いていたのか、補給液が甘く感じたマルスであった。
「どうする? 今は朝の7時を少し過ぎた後だけど……。仲間の所に戻りたい?」
「……今、アイツらは何をしているんだ?」
「今はお屋敷で休養を取っているわ。みんな、貴方のことを心配して落ち着けていないと思う。特に……一瀬さんが……」
マルスはそれを聞くとベットから立ち上がり、横に置いてあった着替えを手に取った。マルスの考えに察した田村は念のためにまた栄養剤だけ渡して気分が悪くなったらこれを飲むようにと命ずる。マルスは素直に受け取った。そこからカーテンを閉めて田村は背を向く。彼女の手には見せようか見せまいか、迷った挙句に隠した彼の検査結果が写っている。
「知らぬが花……かしら。でも……」
その検査結果であるマルスのレントゲン写真を見て一瞬吃る田村。この検査結果は新人殺し班長である東島悠人にだけ見せている。彼の判断で香織やその他仲間には見せていないが前代未聞の結果になったということは確か。田村にも、悠人にも、そして療養を受けた研究所の大和田にもその結果の詳細は分からなかった。唯一わかったことはこのマルスが異常であること。それだけだ。
「田村、世話になったな」
「え、えぇ。またしんどくなったら来るのよ?」
「分かってる」
服を着て救護所を出ていったマルスの背を追いながら田村はそのカルテをジッと見ていた。そのカルテ、マルスのレントゲン写真には構造は人間と同じなのだが唯一違う部分、心臓がよく写っている。一見人間の心臓に見えるのだがその器官はなんと魔石と融合しており、所々黒色の滲みのような物ができているのだ。
気がつけばもうマルスの影は無くなっていた。救護所にも朝が訪れる。
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