「ほーらー、起きて〜」
ユッサユッサと大きくベッドが揺れる感覚をマルスは感じる。まだ眠気が残る朝にここまで揺れるようなことがあるのか……? と思っていると一瞬だけ、ふわりと甘い香りがした。その香りにつられるように目を開けるとマルスを覗き込む香織と目が合う。
「おはよう」
「……は?」
目と鼻の先に自分を覗き込む香織がいる。彼女の髪は出会った当初よりかは少し伸びておりパシャンとはだけた髪がマルスの顔を包むように広がっていた。一歩間違えればキスをしてしまいそうでマルスは唇をモゴモゴしながらゆっくりと体を動かした。動いたマルスの体を見て香織はハッとして距離を置く。大きく伸びをしてからマルスはチラッと香織に向き直って視線を送る。
「なぜお前がここにいる」
「合鍵をサーシャからもらった」
人差し指に円形のキーホルダーをかけて得意げにマルスに見せる。そこにはマルスの部屋の合鍵がプラプラと踊っていた。頭を一瞬抑えながらもマルスは布団をどけてベッドから床に足をつく。あの日、亜人の悲劇が起きた日の夜からやけに香織の距離感が近くなった気がする。そう思いながら窓を開けて換気をするマルス。
「鍵をもらったのはわかった。だがお前に俺の寝巻きを見せるほどの仲にはなってないはずだぞ?」
「えぇ〜? 私のお膝の上でグッスリ寝てたのに?」
ウグ……とマルスはあの夜を思い出して一瞬だけ赤面してしまう。あの夜はソファの上で香織の膝枕を受け、そのまま二人とも寝てしまうという状況としては最高の時間を過ごしていたのだ。そう考えれば寝巻きを見る程度の仲であることには間違いない。マルスはフゥ……と息をついて水道から水を注ごうとした。それに待ったをかける香織。
「まって、コーヒー淹れるね。インスタントだけど」
「なぜだ?」
「マルス、あの時以来から疲れてるでしょ?」
「それを言えば……お前もそうだろう。俺よりも怪我が酷かったじゃないか」
田村の治療で治ったとはいえ、香織は内臓を傷めているというかなりの重症でもあったのだ。魔装の身体強化で歩くことはできたが足を踏み締めるたびに痛みが襲ってきて痛そうだったのを覚えている。香織はお腹を優しくさすってから少し目を逸らして「えっと……」と声を出した。
「なんか……マルス……変わったね」
「変わった……? まぁ、戦闘員になってからは様々な経験をふんだから……」
「いやそうじゃなくて……えっと……やっぱり何もない」
香織は水仕事用に髪を束ねて手を洗う。滅多にお目にかかれない香織の一つくくり。初めて会った時は髪なんぞ纏めれるか分からないほどのボブショートだったはずだ。もう今になると肩にかかるかそうでないかぐらいまで伸びている香織の髪を見た時、マルスは時の流れを実感した。神の頃はよく分からなかった時間の流れ。人間は限られた中でしか生きれないということを思い知らされる。
「コーヒーってこれか? ん、人数的になんか多いぞ?」
香織の足元にあった布製のカバンの中に色々な食材が入っている。そこにインスタントのドリップコーヒーならぬものがあったわけだが食パンとかそういうのを含めるとマルス一人分ではなかった。
「一緒に食べたいから。ほらほら、マルスはここに座ってて。私、頑張っちゃうから!」
ニッコリ笑顔でエプロンをかけてポーズした香織にマルスは「おぉ……」と声を上げてしまう。人間の女にたいして興奮したことはないがドキッとしたのは確かだった。心なしか、人間になりつつあるマルスの感覚。これが慣れか……と思いながら朝食の準備は香織に任せて椅子に座ろうとする。
そうであったが自分だけが作業しないのはなんだか億劫だったのでテレビをつけてそれをBGMにテーブルでも拭こうとリモコンでテレビをつけた。パチッとつけられた画面には朝のニュースが流れる。デカデカと「悲劇 極東支部戦闘員死亡……その実態とは?」と見出しが載ってるのを見てマルスと香織の手は止まった。
テレビでは戦闘員が大量に死んだことがもう報道されており、内容は街の民間人に「戦闘員死亡」のことを聞き出してなんの専門家かは分からないが討論してるという内容だった。マルスはどうしてかは分からないが亜人のことは伏せられている。あくまで魔獣によって殉職したことを述べており当事者であるマルスからしたら少しズレているかのような内容だった。街の人は「怖いですねぇ……」とか「あの人らがしっかりしないと……」とか無責任なことばかり。中には「若者が戦っているという状況もねぇ……」と言った否定的な意見が多かった。
「なんだこれは?」
「あぁ……やっぱり話題にするのね。こういうのは印象操作もあるから気にしないのが一番よ」
「だが……これだと死んでいった稲田達が不憫で仕方ない」
「戦闘員の辛さが分かるのは戦闘員だけ、そうでしょ?」
香織の言葉にグッと黙り込むマルス。今頃、悠人や稲田班生存組はこのニュースを見ているんだろうか……と考えるとマルスの中で重い感情が蠢き始める。考えれば考えるほど亜人、ビャクヤの「正当な殺しだ」という言葉が蘇ってきてマルスの体から嫌な汗が噴き出てきた。
「大丈夫?」
キッチン越しで話しかける香織。マルスは心配させまいと「気にするな」とだけ言ってテーブルをフキンで拭いた。依然として気分は悪い。トースターがチン! といい音を上げて焼き上がりを教える。そのタイミングで香織はフライパンからハムエッグを皿に移してコーヒーもゆっくりと注いでいった。
「はーい、できたよ〜」
コットンとマルスの目の前に置かれるトーストとハムエッグが乗った皿。コーヒーも一緒に置かれた時にマルスは「おぉ……」と声を上げた。その対に香織も同じように配膳して座る。
「すごいものだな……。お前、料理できたのか?」
「弟に作ってたからねぇ〜。はい、いただきます」
パンと手を合わせる香織。マルスは手を合わせる意味がわからなかったが「いただきます……」と言ってトーストにかぶりついた。おいしい。香織が作ったと考えると尚更おいしいトースト。パンにかじりつくマルスをジッと見る香織。目線を感じたマルスはトーストを皿に置いてコーヒーも飲んだ。
「うまいな」
「ホッ……よかった」
大袈裟に胸を撫で下ろす香織。今はどのようなモードなんだ? と不思議に思ったが気にしないでフォークを動かし、ハムエッグを口に運んだ。卵とハムってあうんだよなぁ……と思いながら食べ進める。しばらくは無言で食べ進めたのだがニュースの反応で一つ耳を疑う単語が出てきてマルスと香織は口の動きを止めた。
「戦闘員……民間の人からは野蛮というイメージが多いです。そんな彼らの中には学校にも行かないで戦っている子供達もいると聞きます。死者の前にそれはどうかと物申したいですね」
テレビに映るコメンテーターなる人が放った言葉にマルスは「あぁ?」と声を上げた。取り消せよ、その言葉! と怒鳴ってやりたかったがそんなことしてもなんの意味もないことはマルスが一番よく知っている。その場は舌打ちだけで終わった。そんなマルスを見た香織も何とも言えない表情だ。マルスは最前線であの狐の亜人、ビャクヤを致命傷にまで追い込んだ戦闘員だ。それに稲田の死を目の前で見てしまった人間でもある。そんな彼からすればコメンテーターの言葉は刺さるところがあったのであろう。
「もっと考えて欲しいね。コメンテーターなら……」
「この事務局の支持率が落ちたということも事実だがな。レイシェルも危ない立ち位置なんだろう。もし、レイシェルが降ろされたら誰が所長になるんだ?」
「えっと……魔研の所長の小谷松さん……かな? 本部から派遣するよりも今のご時世ならあの人を所長にした方が処理は楽だから」
「小谷松……」
あのデロリとした視線を持つ魔研の所長。奴は何かを企んでいる。マルスにはそう思えた。その何かは分からないがこの悲劇の連鎖に食い込むようにやってくるんじゃないか……? と少し心配になる。フォークの動きが止まったのを見て香織は「美味しくない?」と聞いてきたのでマルスは慌てて否定し、朝食を平らげた。
「ご馳走様、片付けは俺がやるよ」
香織は手伝おうとしたがマルスは「お前は休めよ、な?」と肩を叩きながら言うと少しだけ顔を赤くして香織は「うん……」と答えた。マルスは香織の分の皿を受け取ると最近覚えた手順で食器を洗っていく。食堂を除いて誰かの手料理を食べたことなんてなかったな……と思いながら洗っていると香織の服のポケットから通信機の着信音が。
香織が急いで取ると「ネェチャァアアアアン!!!」と言ったすごい声が響き渡った。香織も「ヴァ!?」と奇声を上げる。どうやら彼女の弟からの連絡だそう。そういえばこの通信機は一般的な電話回線も通じるんだっけと思い返していると香織と弟の会話が聞こえて来る。
「心配してくれたのね。おばさんは元気? そう……。よろしく言ってね。まだ帰れそうにないけどアンタの入試前には顔を出すから。姉ちゃんは元気だから。アンタも元気でいなさいよ? おばさんやおじさんはアンタが守らないといけないんだからね? 風邪、ひかないで」
マルスは一連の会話を聞いて本当に弟思いなんだな……と胸にこみ上げるものがあった。ピッと通信機を香織がきるとマルスを見て「え!?」と声を上げる香織。
「ちょ、マルス! 洗剤出し過ぎ!」
「え? あ、すまん」
洗剤が垂れ流し状態でゴッソリ減ったボトル。結局、洗い物は香織が行うことになり少し申し訳なさそうにソファに座るマルスが口角をピクピクと動かすという気まずい時間が続いた。集合の連絡が来たのはその三十分後、十時を回ろうとした時である。
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