「じゃ、また明日ね」
食事を終えてパイセンとサーシャと分かれたマルスと香織。サーシャとパイセンは部屋が隣同士なので一緒の方向を歩いていく二人をマルスと香織は見送っていた。ガチャリとそれぞれの部屋に入っていくのを見送った後、マルスも部屋に戻ろうとする。「俺も戻るよ」と言おうとした瞬間、マルスの背中にトンと香織の手が当たる。
「ねぇ、マルス」
「なんだ? もしかして……まだお腹空いているのか?」
「ち、違うよ!」
ポケットから通信機を出して自販機の方向を指差すマルス。それに対して香織は少しだけ顔を赤くしてマルスの額にデコピンを決めた。バシィと音を立ててマルスのデコに鋭い刺激が走る。彼は自然と「ってぇ……」と片手で抑える。その先にはほぉを少しだけ赤らめた香織が人差し指を突き立ててムスッとした表情で立っていた。
「私は大食いじゃありません。いい?」
「わかったから……何?」
少しうんざりとした表情になるマルス。香織はいつも要件をいうまで時間がある。サッサと用事を言って欲しいものだと思うマルスに彼女は少しだけ顔を赤くして話した。
「決勝のあとさ……、覚えてる?」
「……あと?」
「うん……抱きついちゃったじゃん? 私」
マルスはあの光景を思い出した。八剣玲華に負けて悔しくて壁を2、3発殴っていると先に仲間と合流していた悠人達が部屋に入ってきて……香織に抱きつかれた。その時の感触や香織の涙を思い出して一瞬だけ考え込んでしまうマルス。その間があったのか香織も何やら心配そうだ。
「あぁ、そんなこともあったな」
「あ……そうだよ……ね」
香織は一瞬だけガッカリする。マルスのことを思う気持ちが爆発してしまってあんな行動をとってしまったのは事実。抱きついたことに対して動揺もしていないようなそぶりを見せるマルスに少しだけガッカリしていた。やっぱりマルスは気付いてくれないか……とそのまま部屋に戻ろうとした時、「けど……」と彼が口を開く。
「嬉しかった……かな、俺は」
マルスは頭を掻きながらボソッと呟いた。抱きついてくれて自分のために涙を流してくれたこともマルスにとっては嬉しいものだったがなによりも嬉しかったのは両腕がなくなっても立ち上がるマルスに周りがドン引きしていた時に自分の名前を呼んでくれたことなのだ。自分を心の底から応援してくれている、必要としてくれている所がなによりもマルスは嬉しかった。神であった頃からずっと欲しがっていた他の者から必要とされているということ、それを初めて味合わせてくれたのは香織だったから。
「決勝の時、お前だけだったよな。俺のことを本気で心配してたの。普段は正直言っても気にも止めない人の声に……動かされた気がしてさ。俺は一歩進めたんだ。まぁ、結局負けたのだが……」
ハハっと笑ってマルスは2、3歩、香織に近づいた。そして「あぁ……っと」と声に出しながらフッと笑う。
「あの時はありがとな、香織。お前のおかげで俺は今満たされてるんだ」
感謝、それは他人への思いやりの一歩である。悠人が自分に「この班に入ってきてくれてありがとう」と言ってくれた時もマルスにとっては舞い上がるかのように嬉しかった。元々喧嘩ばかりしてた班長とここまで仲を深めることができるとは思ってなかったから。これが人間の強み、「団結力」だと知れた瞬間でもあった。
「礼が……遅い」
「ハハッ、許せよ。じゃ、俺は寝る」
そう言って部屋の鍵をポケットから取り出していると香織が「マルス!」と声を上げた。振り返るマルス。視線の先にはいつもの笑顔となった香織がいた。やはり香織は泣き顔よりも笑顔の方がよく似合う。
「風邪……引かないでね」
「引くもんか」
マルスは部屋の中に入っていった。ガチャンと扉は閉まって長い息をつく。知らないうちに他人に優しくなった自分がいたことに驚いた。これが人間くさいということであろうか? 元々は仕方なく人間を救う側に周っていたようなものだが今では人間として生きることに慣れきっている。
これ以上人間になってしまうと甘さを捨てることが出来なくなってしまう……。マルスはそう思いながらテーブルに置いた辞典を手に取ってソファに座った。ドガっと座ったマルスをソファは優しく受け止める。リモコンを使って部屋の明かりをつけた。ピッと音を立てて部屋が白い光によって照らされた。マルスは早速、食事の時から気になっていた今の自分の気持ちがなんなのかを調べていく。「物心」というワードはすぐに見つかった。「世の中の物事や人情について朧気ながら理解できる心」辞典にはそう書かれていた。
マルスは「なるほどなぁ……」と辞典をテーブルに置いて深く息をついた。朧気ながらというワードにマルスは少しだけ引っかかった。自分が人間としての心を得たとして……その先には何があるのか? 吉と出るか凶と出るかはわからない。ただ……忘れてはいけないのは自分があくまでも中間的存在であるということ。
この先、亜人が何をして襲い掛かってくるかはわからない。もし……もしこの先亜人が自分たちの仲間に手を出して悲劇を生むようなことがあっても、自分はベイルが襲ってきたときのように客観的に処理ができるかはわからなかった。今の狂気的な亜人がいるのは完全に人間が悪い。狂気に染まった存在はどんなことでも平然とする、殺しだって………。そうであるのだが罪は存続することができないものだ。今の人間は悪くない。そこまで考えたときにマルスは舌打ちをした。よほど敏感になっている自分がいる。
とりあえず、落ち着こうとマルスは服を脱いで浴室の扉を開けた。鏡に映る自分の姿を見てみるとその顔は曇っていた。マルスは舌打ちだけして浴室に入り、シャワーの蛇口をひねる。温かい湯が自分の体をうつ。悪いことを考えるのはもうやめにした。負のスパイラルに飲み込まれると簡単に壊れてしまう。そうではあるがマルスはエリスを取り返しにやってきた亜人であるベイルの狂気的な顔を忘れることが出来なかった。
「俺は……人間ではないんだ……。戦ノ神……戦ノ神……マルスなんだ……」
壁に拳をドガっと打ってしばらくの間沈黙する。先ほど香織と話していた頃のテンションは消えて、今では人間として生きるか神として生きるかの葛藤だけが続いていた。闇雲に悩んだって答えが出ないことは理解している。その葛藤の答えは人が教えてくれるものじゃあないんだから。マルス自身がその答えを知っている。自分は神なのか、人間なのかの答えは。
結局あまり落ち着くことのできなかったマルスはシャワーを終えてタオルで濡れた体を拭いて脱水処理の終わった戦闘服を浴室の乾燥機にかけてスイッチを押した。それを確認し終わるとマルスは寝巻きに着替えてベッドに寝転ぶ。ソファと同じように自分を快く迎えてくれるがマルスはそのおもてなしを受ける気分にはなれなかった。部屋が静かな分、マルスの心の声はよく響く。このままいけば自分は客観的に物事を考えることができなくなってしまう。本来の自分に戻れなくなってしまう。神としての役割を全うすることができなくなってしまう。
「俺は……戦ノ神……」
こんな形ではあるが早速物心の意味を知ったマルス。目を瞑って眠りにつこうとするが今日は眠りにつける気がしなかった。人間として生きるか、神として生きるかの議論の終わりが見えることはない。火種が彼の心に飛び込むまでは。
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