仄暗いかと思われている新人殺しの屋敷であるが一部だけ少し明るい空気に覆われているところがあった。訓練場の中に設置された25メートルのプール。この屋敷の訓練場は一種のスポーツジムのような立ち位置でもあり、トレーニングルームやプール、射撃場だって完備だ。
そのプールには波打たせながら綺麗なフォームで泳ぐ人物が一人。自由形の水かきでグングン進む中、不思議なことに息継ぎは一回もしないで100メートル分を泳ぎ切る人物がいる。競泳水着姿のサーシャはゆっくりとプールサイドに上がっていった。その視線の先にはヴァインダーに挟んだ書類をじっとみるパイセンがいる。
「パイセン、タイムどうだった?」
「もう何セットもやってるのにラップタイムが変わらなくてビックリだぜ」
「競泳じゃあ100メートルはアップだしね」
水泳帽とゴーグルを取ってパイセンからタオルをもらう。いつもはキュッとまとめたポニテ姿に慣れているからか、パイセンは今のサーシャの髪型が気になって仕方がない。携帯椅子に座りながらチラチラとサーシャを見ていたのだがその視線に気がついたサーシャがニヤッと笑った。
「な〜に見惚れてんのよ。私の水着に一番慣れてるのはパイセンでしょ?」
「いや、お前の髪型……普段は見ない感じだからさ」
「あぁ、昔はあんまり長くなかったから今みたいなまとめ方しなかったんだけど……。正直、戦闘員になってからちゃんと泳いだのは久しぶりかしら」
水泳帽の中でお団子状にまとめられた髪型、普段のサーシャからは想像もつかない魅力を感じる。今このプールにはパイセンとサーシャの二人きり。水着相手に欲情するほどパイセンはウブな男ではないが少しばかり気になるものだ。いつものタンクトップ半パンのパイセンは書類に目を移した。
「にしても……海龍などの水棲魔獣を適合だと装備した際に水中活動が出来るとは本当のことだったんだな。判明したのがクーデター準備の少し前……。まだマルスが入ってこない頃だ。あの研究員、大和田がくれた書類のおかげで証明されたぜ」
「一応、パイセンが作ってくれたブレスレットに入った魔石のおかげで水を吸い込んでも呼吸が循環できたのよ。いつもの槍を持っていても変わらない……それか魔石の大きさは槍の方が大きいからもっと呼吸がしやすくなるってこと?」
「恐らくな。現状、よく分かってないものを使って戦っているのが俺たちだ。俺の予想では水棲魔獣と適合した人間とその魔石が影響しあって水中活動を可能にするのなら……。魔装による身体強化は人間としての機能を減らし、魔獣としての機能を上げる……。魔獣に近づける技術なんじゃないか? 最近はそう思って仕方がないんだ」
「それが研究員も言ってた擬似的な亜人の再現ね。当たり前のように見てきた魔石だけど……マルス君の変異や改造魔獣達、それと活性化も合わさると不気味なものよ」
サーシャの腕に光るブレスレット。これは試験のために支給された海龍の魔石が内蔵されたブレスレットだ。サーシャが息継ぎをせずに水中で呼吸ができたのも、この海龍の魔石との適合による身体強化における結果だということが分かったのである。本来、人間は水中に漂う酸素を呼吸として取り入れる器官は存在しない。だがしかし、水棲魔獣と適合する人間は魔石との反応によって訓練は必要だが水中の酸素を利用したガス交換が可能になるのだ。ただ貯めた酸素を消費するだけではなく、水中の酸素とのガス交換が行われて長時間の水中活動を可能にする。
わかっていることは魔装の身体強化のギミックのみ。人間としての機能に合わせて魔獣としての機能を上書きすることで更なる力を得る魔装のギミックだ。少なくともそうやって歴代の戦闘員は戦ってきたということなのだが亜人や改造魔獣を見てきたパイセンからすればあまりにも重すぎる議題であった。言わば人間でなくなる可能性も出てくるわけで……あのマルスの変貌は魔石による身体強化のその先を行ってしまったものだと結論づけられることになるのだ。
「香織の暴走もそういう原理だろうな……。それに亜人が欲しがった研究所のデータは改造魔獣のデータ。アイツら……それを使って何がしたいんだか……いくらか案はあるが確証がない。空撃大猿や幻狐の活性化、ツタの魔石、そして奪ったデータ……」
衝撃波を応用した筋細胞の刺激による空撃大猿の身体強化。同族の魔石をツタで絡めることで合体を実現させた幻狐達。彼らにあったのはツタの魔石。本来はない遺伝子情報を組み込んで全く違う魔獣を作ろうとした亜人の産物だ。
「全く違う魔獣……」
パイセンの呟きを聞き逃すほどサーシャの耳は疎くない。
「ちょっとそれ……研究所で見た改造魔獣のこと?」
「あれとはまた考えているのは違うよ。あれは色々な魔獣を組み合わせたやつだ。俺が思い出しているのはツタの魔石があった活性化魔獣」
「そんなのもあったわね。ヤケに賢い雷猫やツタの魔獣もいたかしら」
「懐かしいな。アイツらは共通して……何だっただろう」
「うぅん……見た目は一緒だし……。あ、賢かったよね。地下ケーブルを利用したり、柵を作ったり」
本能で動いている気がしなかった。どの魔獣もインプットされた情報を使ってみようといった雰囲気で戦っていたのを思い出す。それに比べると研究所の改造魔獣は足りない部位を機械で補っているからか電子データ内における行動しかすることができない完全兵器。あれに活性化魔獣の賢さや超常現象をプラスできれば弱点のない魔獣が出来上がる。パイセンは一瞬だけ寒気が止まらなかった。
「なぁ、サーシャ。亜人が盗んだのは改造魔獣のデータだよな?」
「えぇ、製造方法。遺伝子ショックを防ぐための因子。そしてその種類。……ちょっと待って」
どうやらサーシャも気がつく何かがあったそうだ。顔の雰囲気はパイセンも同じである。そのまさかだ、パイセンは冷や汗を拭き取ってから口を開いた。
「今までの亜人に足りなかったのは科学的な技術だ。オカルト的なことはアイツら最も簡単に達成しやがる。科学的で言えば俺たち人間の方が早かったらしい。その産物が改造魔獣だ」
「そうよね? 亜人は活性化魔獣。今まで活性化された魔獣がもし……あの改造魔獣のような安定さを取り入れたら……」
「考えていることは一緒みたいだな。魔獣の歴史が大きく変わることになる。活性化していても一部の亜人は魔獣を従えていた。どこか不安定な魔獣よりも安定した強さの魔獣が欲しい気持ちはわかる。どうして研究所に亜人がやってきたのか……、その目的は……」
「改造魔獣のデータを……亜人達の魔獣に応用するため?」
「これが正しいことだとすれば……とんでもないことになるな。だから遅すぎたんだ……、俺たちは。戦争は始まっている。一度目の人魔大戦が起きた時から……この二度目の人魔大戦はもう始まっていたんだ」
「でも、でもパイセン。考えすぎよ。まだ確証があるわけじゃあないわ。それに大和田さんと言った残った研究員も今必死で彼らに対抗し得る技術を研究してる。きっと、きっと大丈夫よ」
「でも……!」
「大丈夫、私がいるから」
パイセンはサーシャの真っ直ぐな目に何か込み上げることがあったらしくそのままゆっくりと携帯椅子に座るのだった。これが杞憂だと思いたい。もしパイセンの考えが現実になると今の自分達では太刀打ちできない。それは何故か? 簡単である。パイセン達は人間なのだから。
「サーシャ……」
「もうパイセンは自分のことだけを頑張れるようになって欲しいから。私が強くならないと」
「でもさ……」
「ん?」
女に守られることはパイセンのプライドが許さなかった。サーシャは俺が守る。名付けをされた時に決めたパイセンの掟だ。サーシャが成長してくれるのは嬉しいがパイセンはパイセンで無理に背伸びをしようとするサーシャを見るのは嫌だった。十分彼女は背が高いのだ、人間として。少し吃った後にパイセンは手を振った。
「なんでもない」
「……そ。今までとはなんか違うってのは私も分かるの。もうさ、もう……一人じゃないから」
サーシャの視線を感じたパイセンはフンスと鼻息を漏らした。奥手だ、サーシャは奥手すぎる。そんな素直になりきれないパイセンを見て凛とした笑みを見せたサーシャは水泳帽とゴーグルを手に取った。
「もうひと泳ぎしてくるわ」
水泳帽とゴーグルを装着して勢いよくプールに飛び込んだサーシャをパイセンは目で追った。息継ぎをしながら泳ぐサーシャを見てため息を漏らすパイセン。一人じゃないと言ってもらえて嬉しかった。「私も」ではなく「私が」と言ってくれてパイセンは嬉しかった。そうだったとしてもパイセンという人間にできることは少ない。そう思い知らされた気がしてスッと目を逸らすのであった。
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