風が少し首を撫でたような気がして稲田光輝は咳払いをした後に上着の襟を立たせて首を守る。集合時間は夜の8時だ。夜がふけると心もどこか暗くなる。それは今日の戦闘演習の結果からか、いつもより少し肌寒い夜だからか。稲田はベンチに座って深く息をつく。
少しの間、目を閉じて自然音に身を委ねる。バーチャルの世界の音とリアルの世界の音は少し違う気がした。8時は過ぎ、時刻は20分遅れの時。稲田の背後から足音が近づいてくる。振り向きもしないで稲田は声を上げた。
「そっちから呼び出してきたんだろう? 20分の遅刻だ」
「わりぃ、俺の可愛い部下が酒を持ってきてくれたんだぁ。ちょっと酔ってる」
稲田はゆっくりと立ち上がって肩越しに振り返る。居住区の街頭に照らされる人物は橙色の髪しており、迷彩柄の運動着を着ている。開けっ広げた上着からは薄い半袖シャツがのぞいており布越しに見える肉体はガッシリとしていた。ボサボサの髪、迷彩柄の服、そして斜め上からのアングルでニヤつく顔。序列三位ハイドネーム班長、レグノスだ。
稲田はベンチから彼の元へ一歩二歩だけ近づいて襟を元に戻す。近づいてわかるがレグノスは本当に酔っている。顔が赤い、足元も少しフラついている。対する稲田はしっかりと服を整えて集合場所の広場にやってきたし、髪型もいつもの整えたオールバックだ。短いため息の後に稲田はレグノスの肩をポンと叩いた。
「話の内容は想像できるが……ここだと面倒だ。あそこに行こう」
「大人げないぜ、稲田。ま、嫌いじゃねぇ」
稲田とレグノスは街灯も灯らない支部の敷地の中を進んでいく。居住区から離れた場所、事務局を囲う壁付近にある木製テーブルとベンチがある隠れ家のようなスポットであった。何故この木製ベンチやテーブルがあるのかは分からないが彼らが戦闘員になった10年前から存在している。
まだ見習いだった頃に訓練から抜け出して二人で時間を過ごした場所だ。今は誰もきていないのか街頭も何もなく、物寂しい雰囲気を醸し出している。稲田はポケットの中から携帯ライトを取り出して机の上に置いた。立体的に照らされる机付近、彼ら二人は机越しに対面する。
「こうやって……ガキに戻ろうとするのもいつぶりだ?」
「さぁな。八剣玲華がやって来た時……ぐらいだったか?」
「あの女もとんでもないやつだぁ。先生が育て上げたくなるのも今になれば理解できる。まぁ、俺の班もお前のもベクトルは違えどそういうもんだろ?」
「管理職につけば理解できるな」
稲田とレグノスは同じ時期に戦闘員になった戦友である。八剣班の前身、見鏡班。この二人は見鏡元班長が指揮する班へ編入された戦闘員だったのである。稲田班副班長の月輪円、レグノス班副班長のギーナも同じ時期に仲間になった旧友だ。彼女たちは特に集まることはないが稲田とレグノスはこうやって時たま二人で集まる時がある。
元々は見鏡班が序列一位としてこの支部に君臨しており、稲田達はその班で戦う戦闘員だった。班長の見鏡未珠を先生と慕い、日々教えをこう戦闘員生活だったが八剣玲華が極東支部に現れたことにより大いに変わる。八剣の潜在能力をかぎつけた見鏡は彼女を是非とも自分が育てたいと言ったがそれだと班のバランスが合わなくなってしまう。局長、レイシェルも極東支部の切り札であった見鏡の言い分には断れないところもあったのだ。それによって提案されたのが稲田、レグノス班の設立だったのだ。特に実力のあった稲田とレグノスを2位、3位の班にして分散させたのだ。
「先生のわがままみたいなもんだ。俺とお前が独立して班を作ったのも……。まぁ、可愛い部下もできたことだし。俺はギーナ、お前は円が協力して運営してるだろ? 円は元気か?」
「俺に隠れてタバコを吸うほど元気だな」
「ハッハ! だからアイツチビなんじゃあねぇの? おっと聞かれてたらぶっ殺されてるな。チビだけど適合は俺より強い」
「ギーナはどうだ?」
「昔から変わらねぇよ。アイツの影響が強すぎて俺もインテリ眼鏡からこうなったんかもな」
目を指差してニヒッと笑うレグノス。もう35代に突入したのに昔と変わらない彼を見て稲田はフッと笑った。そんな稲田も27歳。若いなんて言えないような年齢になってくる。若さは一瞬とも言われているが稲田とレグノスからすれば長すぎたほどだ。それほどに命さながらだったし、怖いことも嫌なことも多かったが満たされるかのように楽しかったのだ。
「そして俺たちは今日若人に思い知らされたってことだな。新人殺し……、9位の強さではないと思っていたが……」
「そういうこと話したかったのに思い出話で終わらせそうになったな。俺も見慣れたパターンだったから勝てると思ったんだけどねぇ……。運負けだわ」
支部内の評価では班員の仲も悪く、初代副班長の東島楓が討死。現班長の東島悠人は数々の新人や班員を失ったとされる問題班長。そんな班にひょっこりと現れた新人の存在。稲田は同じ仲間のエリーに新人のことを聞いたのだが彼女曰く「いつか面白いことをしそう」とだけ言われてハテナ?と思ったものだ。
「安藤班を打ち負かしたのはさほど驚かなかったが実際に戦ってみると俺たちの裏を突くような戦略を行うものだ。副班長の女の戦法には面を食らった……」
「サーシャ・エルフィーか。俺は戦ってないが部下がアイツにやられた。東島悠人とも対面したがどこか昔より目が変わっていたな。色んなやつを今まで見て来たが……嫌いじゃあないガキの目だ」
負けたことはどちらも衝撃的だった。稲田は2位、レグノスは3位と順位としては立派であり、班の運営もしっかりと行えてる。班員同士の仲もいいし魔装も強力だ。稲田が答えに少し渋っていると風が強くなって来た。急かされているような気がした稲田は咳払いの後に「おそらく……」と口をゆっくりと開いたのだ。
「俺たちは何かを忘れていたんだろう。なぁレグノス、お前若い時は何を思って何をしようと戦闘員をやってた? どういう心境で戦っていたんだ」
「俺か? 何も考えてなかったぜ? ほら、俺らは特に仕事が危険だったから生きるのに必死だっただろ? 今は慣れたのと経験があるから穏便に済ませれるけどさ。あの新人殺しはまだ生きるのに精一杯なんだ。俺はそう思う」
ハッとしてしまった。それと同時に風も止んでどこか蒸し暑いような感覚が襲ってくる。何も考えていなかった。そう、何も考えてなかったし考える余裕がなかった。困難が来るとすぐに誰かを頼って対策を考える。一人だと何とかして生きようとする。少なくとも目の前にいるレグノスや稲田もそうだったはずだ。
『まだ……動けるでしょ……? ここで負けたら……私は副班長を名乗れない!』
稲田の頭の中に対戦相手のサーシャ・エルフィーの声が再生された。彼女は必死に生きようとしていたのだ。生きようとする意思があった。あれだけ傷だらけになっても彼女は立ち上がって、槍で自分を貫いたのだ。そこに暴力がどう、痛い、怖い、戦いたくない、逃げたいという思いも何もない。生きたいという想い以外に感じられない。
「アッ……」
「なんだよ、稲田。お前もしかして忘れてたか? まぁ俺もさ、戦った奴……天野原蓮だっけな。アイツの姿見てたらそういうの思い出したんだよ。アイツらには意思がある。まだ形もなってないし、甘い……けど嫌いになれない意思がさ」
「……」
忘れていた若人の頃の想い。稲田には先生がいたが彼らに先生はいない。彼らの中で協力しあって生きているのだ。傷だらけになってもあのサーシャの槍はブレることはなく正確に自分の腹を射抜いていた。稲田は少し刃が外れてしまっていたと思い出した。
「なぁ、稲田。アイツらはいずれこの極東支部でスッゲェことを成し遂げると思う。世代交代はまだまだだが……アイツらが一人で突っ走って転ぶようなことがあれば……支えてあげるのも俺らの役目だろう。そうやって俺とお前も大きくなったんだ」
ずっと俯いている稲田。チラッと視線だけレグノスに向けると彼は相変わらずの睨むような顔つきでニカッと笑っている。おじさんになってもいい意味で少年の心を忘れることはないレグノスの顔である。稲田も何か話そうと思った時にレグノスの通信機がけたたましい音を上げた。
「なにやってんだい!? レグノス、アンタどこにいってるんだよ!」
「お前酔いすぎだよ……。今帰るからさ」
怒ってるようにも聞こえるが「キャハハ!」と笑う酔っ払ったギーナの声を聞いて稲田もフッと笑った。彼女も充分元気なようである。準決勝でどのように倒されたのかと話を聞きたかったがそれもやめておいた方が良さそうだ。稲田は久しぶりに感じるワクワクしたようなこの気持ちを隠し通せるかわからなかった。
「そろそろ行こう、稲田。俺たちも……可愛い後輩ができたんだ。東島とは仲良くやっていこうぜ?」
「それは俺もお前も同じだ。これも何かの縁だと思うよ」
稲田はフッと笑い、レグノスはハハッと声を上げて笑い、彼ら二人は街灯が灯る居住区へと帰って行ったのだった。その姿は若人の頃、バカ笑いをしていた見鏡班時代そのものである。
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