八剣班の屋敷で。ベランダにて酒を飲む駿来。過去の思い出を振り返っている中で忘れられない思い出が。その大元である紅音が来ることで更に思い出が交差して行く。
付いている明かりは遠くに見える外灯だけか。極東支部の居住区で一番大きな屋敷のベランダ。たった一人でランプを灯している薄明るい中で弘瀬駿来は酒を嗜んでいた。駿来の家系は親族ともども酒に強く、彼自身も例外なくアルコールに強い体に生まれている。一人でウイスキーを水割りしながら酔いと若さに任せて飲み込んでいった。何杯目かは分からないが彼には彼の酔い方がある。今となれば遥か遠い先にある微かな残響を聞き取るのだ。
ノスタルジーとも言えるその残響は少年時代の思い出。目の前には大きな鉄工場があり、その門にいつもの少女が待ってくれている。鉄工場の社長令嬢だった紅音だ。駿来と紅音が知り合えたのも運命的な何かを感じられるものだ。家同士が隣り合い、両親同士の仲もかなりよかった。何かを贈り合い、共に食事を楽しんでいたくらい。その間のほぼ同じ時期に生まれたのは駿来と紅音。彼らも例外なく、仲良しになるのは一瞬だった。
「なんにも知らなかった……。あぁ、なんにもだ」
独り言をぼやきながらグラスを揺らす駿来。酔ったとしても駿来の性格は変わることがない。それは一種の強さだ。酒に酔った時ではなくとも、駿来は滅多に動揺もしないし、落ち込むことも滅多になかった。常に同じ線の上で歩いているかのような。よくいえば手のかからない、悪くいえば冷たい男だったのである。そんな冷たい男で何も知らなかった少年期はずっと紅音と無邪気に遊んでいたものだ。幼馴染だなんて言葉も知らない。男女ということのみ、唯一共有できる知識であった。
当たり前に絡んでいた関係は高校に上がったとしても何も変わらなかった。同じ高校、同じ時間に起きて一緒に学校に行く。クラスは違えどそれぞれの交友関係は大事にしながら時間を見て一緒になっていた。ある友人は「ベタ」だと言った。ある友人は「リア充」と言った。駿来としては当たり前の日々を過ごしていただけだ。その空間に入ってこられるのは鼻につく。顔には出さなかったが紅音への想いは変わりつつあることに感じていた。
一緒にいるのが当たり前からずっと一緒にいたいと思えるようになったのはあの時の若さゆえか。恋に恋する時代を経て駿来は紅音に打ち明けたのだ。「ずっと一緒にいたい。好きだ」と。紅音は一瞬驚いたような顔をした後に少しだけ切なく笑った。駿来はその笑顔を見た時点で後に言われる言葉を察して顔を背けていたのだ。
「唐突すぎるんだよな……、俺は。今になればよく分かる」
顔を背けてからも関係は変わらなかったのは今まで積み上げてきたものがあったからか。明確に決まったのは駿来と紅音は友達だということ。その事実が決まっても彼の心根は変わることはなかった。「好きだ」では薄い、もうそれ以上の感情だ。ただ、それを伝えることもなく、このまま当たり前に二人の関係は続くと思っていた矢先……。
駿来はここで回想を終えた。これ以上は思い出す気になれない。グラスを置いて伸びをしていると後ろから足音が聞こえてきた。ずっと一緒に過ごしていると足音だけで誰がきたかを知ることもできるものだ。駿来は肩越しに名前を呼ぶ。
「紅音、どうした?」
「あら、やっぱり分かったのね」
噂をすればやってくるとはこのこと。恋塚紅音はベランダにもたれかかる駿来の横に立って下から覗き込むようにして駿来を見ていた。ようやく駿来にも酒が回ってきたのか、ほのかに赤い顔を駿来は向けてニッコリ笑う。今もこうやって戦闘員として働きながら一緒にいるのもおかしな関係だ。歳を重ねるにつれて紅音の距離感が近くなっているのも、歳を重ねても自分の想いは全く変わっていないことも。
「ちゃんと水で割ってる? 倒れられたら困るのよ?」
「割ってるよ。紅音に看取られるのは光栄だが、これ以上迷惑はかけてやれないからね」
返事をしながら駿来は予備で用意していたグラスを紅音に手渡した。紅音は一瞬だけ顔を明るくしてグラスを受け取る。絶対的な強さを持ち、見鏡未珠の元で訓練を積んだ駿来。「漆黒の弁慶」の二つ名は伊達ではない。自由自在に武器を生成して無駄のない戦いをする彼にだって、無駄な弱さはあるものだ。
「おばさんから返事来た?」
「ん? あぁ、来たさ。いつもの文句、『怪我するな』だとさ。俺の右目見せたら発狂しそうだが……もう長いことあってないからこれでいいのかもしれない」
差し出したグラスにウイスキーを注ぎながら駿来は遠い目をしていた。生まれて初めて駿来が感情をムキにして両親に放った言葉。酔いが覚めている時にこそ思い出す。紅音の両親は鉄工場を営む夫婦で紅音はその社長令嬢。中小企業の中でも技術は高く、いくつかの取引先を得て安定した成果を出し続ける工場だった。紅音だって不自由なく生活できたし、駿来だって良くしてもらえたことを覚えている。
ただ悲劇が起きたのは高校卒業間近。それはあまりにも突然だった。紅音の工場が倒産したのだ。取引先はもっといい取引を見つけて契約解除をしていき、倒産までのプロセスを踏み外すことなく進んでいった。残されたのは負の遺産だけである。その遺産を返済するためにあくせく働いていた紅音の両親だったがついに蒸発。父は行方不明、母は遊び呆けるようになってその借金が紅音に回ってきたのだ。卒業間近の日、紅音は戦闘員として命を売って働くことを決意。その時期はちょうど、駿来が告白をした時期だった。
それを人伝に知った駿来は己の無知さを恨みながらある決意を固める。
「母さんや父さんには無理をさせたから。俺が嫌われても仕方がないもんさ。なんせ、大学研究室の教授の推薦を蹴ってこんな仕事についた親不孝ものだからな」
隣で紅音はウイスキーを飲みながら切なげに笑う。駿来は紅音について行くことを決心した。こんな命がけの仕事で離れ離れになるくらいならという駿来も決心である。両親に打ち明けたのは戦闘員の適合検査を終えたその日だったものだから大喧嘩に発展。駿来は怒鳴りながら荷物をまとめて外で待つ紅音の元へ走っていった。その時、両親は自分に対して何を叫んでいたのかも、そして自分が何を叫んでいたのかも、何も覚えていない。ただ覚えているのは涙を流しながら紅音が囁いた声だけだった。
「ごめんね……か」
「え?」
「いや、何もない」
ハッとして現実に帰還した時には紅音は心配した表情で彼の手をギュッと握っていた。駿来は喉を鳴らしてグラスを置く。まだウイスキーは残っているが酔いが覚めているからか、もう飲む気になれない。暗い夜の日は紅音の顔が良く見えないからか、心根さえも分からなくなる。駿来は紅音のために全てを捨てた。推薦も、交友関係も、そして親子の絆も。その先に紅音がいるのならそれでいい。ずっとこの関係が続くのならそれでいいのだ。それ以上に進展しそうにないがそれは仕方がない。高校の時の告白、紅音だってまだ覚えているのだから。返事をもらえなかった駿来の運命はもう決まっているようなものだ。
背中に何かを感じたので肩越しに見ると紅音が駿来の背中にもたれかかっている最中だった。彼女にも酒が回っているらしい。顔が赤い。でも駿来は何も言わなかった。酒を飲む音だけが響く夜。ランプの灯りは知らない間に消えて、漆黒の闇が辺りを覆う。
「ねぇ、駿来」
不意に紅音が呼んだ。
「なんだい?」
「戦闘員になっても……少しの間は離れ離れになっちゃったけど……また一緒になれてるわね」
「当たり前だ。紅音の姿を俺は見失わない」
「そう……。私は……」
「うん?」
「まだ……私は追いつけてないから……」
「え?」
預ける体重が重くなったのを駿来は感じた。カラスは夜になると何も見えない。今の駿来も何も見えない。彼女の心根さえ、何も見えない。
「何を言ってるんだ?」
「……何もない。ちょっと頭がクラクラする。そろそろ寝るわ」
グラスを置いて紅音は一瞬、駿来の背中に手を添えて何かを呟いた。その囁きを聞いた瞬間、駿来はゾワッとする何かを感じて息を飲む。ただ、その表情や仕草を紅音が感じることはできなかった。紅音は駿来に「おやすみ」とだけ言い残してベランダから去って行く。姿は見えない。足音だけが聞こえ、ついには何も聞こえなくなった。正面を向いた駿来はためた息を一気に吐き出す。
「何に追いつくんだ……?」
駿来も紅音も24歳。亀の甲は歳の功。歳を隔てるにつれて分かる何か、変わる何かもある。ただ、夜目の駿来には何も分からない。それに対して亀の紅音はたどり着けない。全ては一瞬のタイミングによって左右される。駿来の告白の返事。夜目の駿来は分からない。そんな駿来に追いつけない紅音。今の心根なんて分かるわけがない。
「まぁいい。紅音、俺は君を待ち続けるさ……。いつまでもね」
今の駿来もできることは待つことのみだ。紅音が追いつけるまで待つこと。時間はかかるが、また返事を聞けるようになるまで待つこと。駿来の姿は闇の中に消えて行く。追いついた先に何があるのか。それさえも見えやしない。
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