車椅子を手で押しながらマルスは研究所の庭を散策する。ちょうど花壇に沿って道が作られていたのでそのまま道なりへ、ゆっくりと漕いでいった。無駄な暑さというものはなく、中々に涼しい日中であった。マルスの服が中には何も肌着を着ていない青白い病衣のためだろう。
病人ともなるとここまで無防備な服を着る羽目になるのか、それとも今まで戦闘員として戦う時が多かったから防護のための服に慣れてしまったからか。この軽さがムズムズするような妙な気持ち悪さを産んでいることをマルスは察していた。戦争の神のなり損ないは戦場を求めているのだろうか。いざ平穏な日常が戻ってくるとつまらないとはまた違った感情が湧いてきて複雑になる。
車椅子の操作も慣れてきた頃には研究所の庭を一周し終わっており、外の風を浴び終えたマルスは研究所の建物内へと戻っていった。ロビーからエレベーターに乗って自分の部屋に戻ろうとボタンを押して待っている。そのまま降りてきたエレベーターに乗ってマルスは自分が眠っていた部屋へと戻っていった。
換気のために窓が開けられた状態で部屋は整理されており、着替えや歯ブラシ、洗顔料といった生活品がカウンターに置かれ、ベッドのそばには小包があったのをマルスは発見する。恐る恐る小包を開けるとチラシの裏側に書いたであろうメモを発見。ゴソゴソと開いてみた。
『マルスさんの大好きなきんぴらごぼうとその他必要なものを準備しました。お体はお大事に、そしてまた元気な姿を見せてください!』
太めマーカーので書かれた丸っこい形の文字、どことなく慎也らしいそのメモを見てマルスはフッと笑う。どこまでもおせっかいな仲間だった。メモの下にはきんぴらごぼうがたっぷり入ったタッパーが入っていて割り箸まで一緒についている。マルスは車椅子からベッドに体を動かして座り込んでからベッドの側の机を引き寄せた。割り箸、食堂でみんなと食事を取った時に使ったことがある。隼人曰く「割り箸が綺麗に割れるとその日はいい日なんだ」と言っていたような気もしないでない。丁寧にプッと分けると綺麗に割れたのをみていささかマルスの機嫌は良くなった。タッパーを開けて香ばしいごぼうを口いっぱいに頬張る。
「んぅ、美味い。さすがだ」
美味しかった。慎也らしい、手作りの味。研究所の任務が終わって以来、こうも味わって食事を取る機会もなかった。今度は吐き戻すこともないと分かったマルスは少しだけ嬉しくなったのか口元についたタレも気にせず頬張っていく。静かな病室の中でマルスの咀嚼音だけが響いていた。
「……香織」
ある程度食べ終わったところでマルスはフッと思い出す。アジ・ダハーカの腹に剣を刺して彼女を放り投げた時のことを。あの時はマルスの作戦の裏をかくように動いたあの魔獣によって危うくば香織を死なせるところだった。裏をかく、想定外の出来事を起こらせる、あえてアクシデントへ導くことをする、天界にいたマルスがチェス駒で戦争を起こしていた時の常套手段だった。天候、地形、物資供給、そして人間の知恵任せ、これらの動きを決めて戦争を動かしていたマルスの入れ知恵。
同じ事を無意識に下界でもやろうとしていたのだろうか、マルスは分からない。ただ、戦ノ神がマルス自身と融合に近づく形をとったことで今までボヤけていた彼の記憶が鮮明に写る時が増えたのだ。いつだって、いつだって自分が戦争を起こす時にはどこからともなく現れて去っていく神がいた。いつだってその神はマルスの仕事をジッと観察してバレたらバレたで興味深そうに接近し、質問をしていた。それがどんなにしょうもないことでも、その神からすれば全てが新しく見えていたらしい。
『仕事はないのか?』
『全然、こちらの世界では無名そのもの。仕事はこないわ』
『驚いたな。汝の役割も重要に見える』
『そんなことはないですわ。仕事をすれば……皆が不幸になるかもしれないから』
今まで目を閉じていたマルスは急に脳裏に飛び出してきたこの記憶にハッとして背中に寒いものが走った。今まで他の神との接触がないと思っていたマルスだが唯一と言ってもいいほど接触をしていた神がいたではないか。その神が仕事をすれば皆が不幸になるかもしれない。けど生まれるしかなかった存在。
「ダメだ……頭が回らない……」
マルスはタッパーを置いてベッドに倒れ込んだ。神を作ったのはエデン、マルスを作ったのも、そしてその接触していた神を作ったのも……。でもまだ何か重要なものを作っていた気がするマルスであったがどうにも今は出てきそうになかった。無理をせず、ゆっくり思い出せばいいのだろうか。それも正直、複雑だ。もし、もしマルスが全ての記憶を取り戻して過去の大戦争の因果を知るとなれば、果たして人間側にいてもいいのか分からないから。それだけが怖かった。
「これは夜中に調べ物だ……。書庫があるに違いない。そこで調べよう」
かなり前に人魔大戦の歴史を調べたことはあったがそのさらに昔、魔獣がいた歴史を調べようと思ったマルス。覚醒魔獣のことあってか彼の頭の中では魔獣という言葉がずっと引っかかっていた。
ーーーーーーー
「あ、はい……はい……あ、ありがとうございます!」
屋敷の居間には通信機を片手にペコペコと礼をする慎也がメモを書きながら椅子に座っていた。通信機の先は研究所である。もし目覚めた人がいればこれを渡して欲しいと慎也は小包の中に各人が好きな食べ物をいれて届けておいたのだ。最悪、冷凍保存もできて温めれば食べれるようにしてあるが、もう目覚めたマルスがちゃんと完食していることがわざわざ連絡で返ってきたそうで。
マルス達の容態を聞いて色々と把握した慎也は着替えやその他諸々も送らないといけないということでそれらをメモしていたのだ。通信を切って安心からか深く座り込んでいるとちょうどよく悠人がリビングへやってきた。
「あ、悠人さん! マルスさんが研究所で目覚めたそうです。小包のきんぴらごぼう完食したって」
「お、それはいい報告だったな。マルスは目覚めたか……他は?」
「まだ眠っているようですが状態はいいそうで」
「そうか……」
慎也の向かいに座ってペットボトルに入ったスポーツドリンクを一気に飲み込む悠人。余韻に浸っている悠人の足元には木刀が立てかけられていた。
「今日も訓練ですか?」
「あぁ、体が鈍ってしまうからな。そういう慎也も、夜になると股割りしてるじゃないか」
「あ、気づいちゃってましたか」
照れくさそうに笑う慎也であったがその顔は半分曇っていた。その理由は二人とも同じである。仲間として覚醒魔獣と戦ったのはいいが自分はパイセンや優吾達の異変に気がつくことができなかったから。共に戦ったのはいいものの倒れてしまう場面なんて防げたはずなのに、と自分を責めている状態だった。それもどこかお間違いな気がするがこうやって屋敷に残っている悠人達の心根はいつもそれなのだ。
「香織ちゃん、どこにいったんでしょうね」
「蓮は部屋だが、香織はどこにいったのか……」
揺れるカーテンの奥に当然、香織の姿はない。ご飯を食べにくる時は戻ってくるが香織は屋敷にいることはなく、蓮は部屋にこもりっきり。どこか戦闘員支部の敷地内で一人でいることが多くなったのだ。心配そうに庭先を眺める悠人の眼、その奥は歪んでいた。四人で使う屋敷はあまりにも広すぎる。電灯の灯っていない暗いリビングは彼等の心根を表しているようであった。
「そろそろ食事だ、蓮を呼んでくるよ」
悠人は立ち上がってタオルで首筋の汗を拭ってからリビングを出て行った。階段を登って蓮の部屋の前で立ち止まる。そのまま意を決して扉をノックした。
「入るぞ〜」
特に拒まれなかったのでガチャリとドアを開ける悠人。閉じられたカーテンに灯りのない部屋、電源をつけて一気に灯りをつけると眩しくなったのかベッドでふて寝していた蓮は跳ね起きた。
「なっ……なんだよ……」
「こもりっきりは良くないぞ」
「悠人だっていつぞやは引きこもりだったじゃねぇか……」
「キッツイな、それを言われると」
一本取られたと思ってしまったが構わず蓮の部屋を一望した。壁に大量のメモ書きやノートを破いたものを貼り付けている壁が印象的である。そこに描かれていたのは自分の体術についてまとめた一覧表のようなものだった。
「まだ、続けていたんだな」
「俺はすぐに忘れるんだよ。だからこうやって書いてるだけさ」
悠人はベッドの側にあった椅子に座って寝込む蓮を見ながら淡々と話した。
「もうマルスは目覚めたらしい。だが、隼人達残り四人はまだだそうだ。命に別状はないことだけは安心してくれ。もし隼人が帰ってきた時にお前が寝込んでたらアイツ、ショック受けるだろうな」
「勝手にしてくれよ……。俺かて命がけで帰ってきたようなもんなんだ。辛いのはアイツらだけじゃない。嘘ついて自分落ち着かせて訓練できるほど俺は器用じゃないんだ」
「福井班長は心配していたぞ?」
掛け布団がモゾっと動いた気がした。そのまま、頭を掻きむしりながら起き上がって大きな欠伸をする。だが、顔は依然として満足そうではなかった。
「あの人は……よく分かんなくなった」
「どうしてだ? あれだけ世話になって」
「……楽観的すぎるんだよ」
その舌打ちと顔をみて蓮が何に囚われていたか、そしてあの戦いで何を感じ取ったかを少しだけ分かったような気がした悠人は黙り込んでしまう。そのまま連に任せて話を進めた。
「アイツがいつも頑張れるキッカケはなんだ? 俺がいつも戦う理由ってなんだ……? アイツは……隼人は明確に守りたいって人がいるから頑張れるんだ……。でも俺は……俺はさ……」
「そう簡単に答えなんて決めちゃダメじゃないか。頭だけで考えることなんかじゃない」
「分かんねぇんだ……俺なんてただの家出小僧だぜ? そしてアイツは守りたいものがある。俺は……なんもねぇんだよ……。いつだって、これからだって、今だって……! お前に分かることじゃねぇよ……。尊敬する親がいる時点でな」
これ以上は何も言えないし、何も言ってはならない。そう感じた悠人はフンスと鼻息だけ漏らしてそのまま部屋から出て行った。椅子に何か接着剤でも塗られたかというほど体が動かなかったが無理やり動かして出て行く。ガチャリと閉められたドアの奥からすすり泣く声が聞こえたことから悠人も二、三歩歩いた後でため息を漏らしてしまった。
「なぁ、楓……。俺も……いつになったらお前みたいな班長になれんだ?」
階段を降り続ける悠人、誰もいなくなった部屋でなぜ泣いてるのかも分からないまま嗚咽する蓮。またバラバラになってしまうかもしれない仲間との何かに悠人は怯えていた。
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