少し肌寒くなった極東支部内、ロビーに繋がる大きな門の近くに並べられているのは電話ボックス。戦闘員専用のテレホンカードを差し込めば割り引かれた電話代で通話をすることができるものだった。あまり使われているのを見たことはないが長電話の用事の際はチラホラと戦闘員が利用している。その一角、隅の方に立っている電話ボックスに入っていった香織は短い息を整えてカードを差し込んだ。
電子音が流れている中で素早く電話番号を打った香織は受話器を押し当ててジッと待つ。無機質な音に包まれたような空間の中で香織は辺りをキョロキョロと見渡しながら待っていた。
「もしもし、一瀬です」
「あっ、叔母さん? 私、香織」
「あら香織ちゃん!? ニュース見てたわよ、無事だったの?」
「うん、怪我はないよ。ちゃんと戦闘員やってる」
電話の先は香織の親名義で戦闘員への登録を済ませてくれた叔母さんであった。実の母と地雷男は香織によって殺害された。残された弟が交通事故で亡くなった実父の妹に引き取られているのだ。叔母さんは人殺しだった香織のことを一目置いていたが弟が必死に弁明をしてくれたのと土下座をする勢いで謝って戦闘員の加盟登録の許可を取ってきた香織に何かを感じたらしく、引き取ることを選んでくれた。言わば香織のわがままを受け入れてくれた人間でもあるのだ。
「任務は叔母さんの住んでる地域とは遠く離れたところだったから。避難はまだなさそうね。安心したわ」
「無事なら安心だわ。徹に代わる?」
「……いるの?」
そもそも何のために叔母に連絡をしたのか何も考えてなかったではないか。エリスの時から身の回りで不幸が連続していた、それから何を求めているのか、分かりやしなかった。それでも香織は残された物を数えれるほど心が強かった。失ったものばかり数えててもジリ貧である。
「呼ぶ?」
「呼んで」
一時の沈黙の後、受話器が取り替えられた音がした。
「も……もしもし?」
「もしもし、徹? 徹ね?」
「うっわ、姉ちゃん! 久しぶり!」
電話の奥で明らかに嬉しそうな声を上げるのは香織の弟、一瀬徹。今は汗ばんだ手に張り付いたノートを鬱陶しそうに剥がす中学生である。中学ともなれば姉なんて嫌うような気もしないでないが香織と徹はそれらとは別であった。
「そんな声を聞くと、元気そうね。友達はどうなの?」
「心配されんでもいいよ。たくさんいるから。友達だったら姉ちゃんの方が多くなかった?」
「フフ、そうね。友達というかお仕事仲間って感じだけど」
心が幾分か安らいだ。今の心根で屋敷の中に居続けるとおかしくなってしまうのかもしれない。香織に残された心を落ち着かせる手段は弟しかいなかったのだ。そこから最近学校ではこんな行事をやる予定だ、こんなバカなことをして怒られただの他愛もない思い出話に耽る二人。10代を迎えた弟であったが昔と変わらずに意気揚々と話してくれることにホッとした香織がいた。
「あ、姉ちゃんそういえばさ」
「うん?」
「彼氏どうなったの?」
「か、彼氏?」
「ほら、俺が結構前に電話した時に洗い物してる男の人いたじゃん。全部聞こえてたよ。あれ、彼氏じゃないの?」
ハッとしてしまい、受話器を危うく落としそうになった。亜人の襲撃によりレグノス班全滅、稲田班半壊の悲劇が見舞われた翌日。マルスの部屋で二人で朝ごはんを食べたのを思い出していた。そこから洗い物になってマルスが洗浄していると香織の通信機から弟に着信があったのだ。
「あ、あの人は彼氏じゃないよ」
「じゃあお仕事仲間?」
「う……うぅん……同じ班の仲間、かな」
「その仲間は今一緒にいるの?」
「……いやぁ、彼は今ここにはいないの。居眠りしてるはず……」
急に歯切れが悪くなった香織に勘づいたのか、受話器の奥で何かの間が空いた。その後に弟は大きく深呼吸してまた受話器に顔を近づけたのか吐息がよく聞こえる。
「行ってあげなよ」
「え?」
「姉ちゃん、俺のことはもういいからさ。行ってあげなよ、彼のところに」
「な、なにを……」
「その動揺は昔に見た。連れて行かれる姉ちゃんがそんな感じだったもん」
今度こそ受話器を落としてしまって頭が真っ白になってしまう香織。親を殺した後に自分が何をやったのか判断がつかずにしどろもどろで警察に連行される姿。それと今、マルスが倒れて意識不明なのを誤魔化す香織はどこか似ているそうだ。ゆっくりと受話器を手にかけると弟の焦ったような声が聞こえてきた。
「ご、ごめん! こんな時にやなこと思い出させちゃって……。でも姉ちゃん、ほんっとに彼に何かあるんだったら俺のことはいいから。行ってあげてよ。同じ班なら……友達じゃないの?」
「徹……」
ここで行くも行かないも決めれるのは香織だけである。逃げて救えるのは香織だけであろうか。今マルスが目覚めているのかまだ眠っているのか。もし目覚めているなら何を話せばいいか、何から聞けばいいか。香織の頭の中にはこれからどうしようかの思考がグルグルと回り続ける。うんと考えた後に香織はグッと胸を押さえて頭を振りながら受話器に口を近づけた。
「徹、いい? 叔母さんに迷惑をかけちゃダメよ? それと……風邪ひかないでね」
その言葉で全てを察した徹は嬉しそうに元気な声をあげて受話器を切ったのだった。受話器をかけて電話ボックスのガラス窓にもたれかかる。知らないところでこうも人を導ける弟になっていたことに香織は成長を感じていた。辛いことがあったのは弟の方だし、実際巻き込まれる形で今まで生きてきたのだ。今の香織と同じでないか。香織は大きく深呼吸をして電話ボックスを出た。
「大きくなっちゃって……徹」
そうと決まればすぐに準備である。小走りで去っていく香織の背中は入隊時と比べて些か逞しくなっていたのであった。
〜ーーーーーーー〜
もう昼も終わりそうな夕方の研究室の一部屋。早川から教えてもらった研究員専用の大図書館の中でマルスは古代の魔獣について調べていた。レイシェルは覚醒魔獣と称したこれらの魔獣。それとよく似た形の魔獣が古代にいたはずなのだ。マルスの記憶が正しければそうである。
「古今東西の魔獣について記した『魔獣記』、さすがは研究所だな……」
初版はだいぶ古いらしく今、対魔獣協会の本部があるヨーロッパ支部にて製作された魔獣やその歴史を記したとされる有名な資料であった。歴史が進むにつれて魔獣の形や性能も変わってくるので何年に一回か新しくなっているのだがマルスは研究所に保存されてある年号が古い順にその本を閲覧していた。日本語のものだと遡るに制限があるためにわざわざ奥からギリシャ語、英語などのヨーロッパ圏のものを引っ張り出してきたのである。
「残っている中で一番古いとされる時代はまだ人間が生まれる前……書いたのは亜人か? それとも彼らの残した遺跡から人間が記録したか……」
下界で最初に生まれた種族は魔獣である。神は魔獣を産み、それらで生命のサイクルを回そうとしたのだがそれは叶わなかった。この魔獣記には始祖と呼ばれる魔獣についての記述もしっかりと書かれている。
『主は大地に始祖なる獣を産み落とした。その獣は今を生きる魔獣に繋がる祖先を次々と生み増やしていき、生涯を閉じたとされる』
果たしてどうだったであろう。魔獣を神が産んでから次なる種族、亜人が生まれるまでにだいぶ長い期間を挟んでいるのだ。魔獣の歴史を語るとなるとこの下界にいる人間は遡ることができやしないのである。痕跡や死骸は地上から無くなっているのだから。魔獣記を最初に刷っていた時代にもその跡は残っていなかったはずだ。
始祖の魔獣に関しては神であるマルスも十分承知していたはずなのだがそれもマルスは神の世界で他の神から話を聞いた程度の存在である。神々の中でも腐るほど古い出来事でもあるのだ。詳しく知るのは最初に生まれた神のエデンのみか。マルスが生まれたのは魔獣、人間、亜人と種族が揃いつつあった一般的に「創世記」と呼ばれる時期なので大きなブランクがあった。
そもそも、エデンがマルスのような神を創ったということなら、エデンによって作られた始祖の魔獣も神と同等の存在となりうるために書物に記載されている通り自然死するのはありえない。その概念が尽き果てるまでの永遠の命を保障されている。このことがずっと引っかかっていた。だがしかし、やはり情報がないのか始祖の魔獣に関する記載はそれしか見つからず、魔獣の歴史を追うこの考察は非常に難航する。いつもぼんやりと浮かぶ燃える大地の真ん中にいる存在が始祖の魔獣だと踏んでいたが何の理由にもならないのでマルスは匙を投げる事態へと陥った。
「昼の夜景色も妙だ……。どうして満月が気になる……」
さっきから一人ごとを垂れ流しながら沼にハマってしまったマルスは一旦、考えるのをやめた。聞けることなら大和田や早川に協力を得て覚醒魔獣について考察する方がいい。本をまとめて元の本棚に直そうとしたマルスは乗っている車椅子から半ば腰を上げて直そうとした。その時である。
スッとマルスの腕を追い越すように本を持って本棚に直す綺麗な腕が。見覚えのある腕を見てマルスはハッとして振り返った。
「香織……?」
「車椅子なのに、無茶しちゃダメだよ」
そのまま車椅子ごと包み込むように香織はマルスに覆い被さって動かなくなる。ふりはらう気もなく、ただマルスは香織の背中に腕を回して香織を感じていた。
「心配をかけた」
「ほんとそれよ……」
香織は香織で弟の言うことを聞いて本当によかったと思いながらマルスの体を離れる。聞きたいことは山ほどあるのだ。再会を喜び合う二人を前にここまで案内した大和田は書庫の入り口前で満足そうな顔をするのであった。
主の存在により現在を生きる魔獣が世界に生息している。お伽話かと思われていた獣だってあなたが生まれるずっと前に生きていたのだ。逆を然り、あなたが生きていた時代も伝説になりうる時が来る。魔獣の歴史とはそういうものだ。
「活化伝記」より抜粋 “序・獣の道”
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