亜人の怨みが届かないほど遠い所にある極東支部の夜は静かであった。半月から少し膨れた下弦の月の下、大きくもない集合住宅の屋根の上で乾いたペンを動かす音が聞こえている。所々剥がれた合皮のカバーに黄ばんだ紙、使い古されたノートだった。その破線に合わせて隙間なくビッシリと文字を書くものが一人。
書かれてある内容は意味不明と言われても仕方ない印象である。流れもなく、文脈も特になく、ただ文字を書いているような、でも適当には見えない微妙な感じ。やっと書き終えたのかノートを閉じて丁寧に留め具をはめたのは鳥丸班の副班長、夜野神奈子だった。被ったフードの中から覗く魔装のヘッドホン。耳から外して首にかけた状態でため息をついた。聞こえるのはブゥウンとした砂嵐にも似た音だけ。風の音も足音も聞こえやしなかった。
その状態で背負っていたギターケースを抱き抱えるように手繰り寄せ、そのまま目を瞑っていた。おかしな話ではあるが戦闘員なのに戦闘は嫌いと言い張るのが神奈子である。合意の上で得た仕事ではないからだろう。渇いた目をした夜の彼女はケースからギターを出すまでもなく、ただ抱いている。
神奈子がギターに触れたのは父の影響だった。神奈子の家は父母神奈子の平凡な家庭。保育園、小学校、市立の中学、そして公立の高校。地元の中で生きていた平凡な女だった。彼女の父は彼女が幼い頃に事故に遭い、聴力を失っていた。でも事故前にずっと弾いていたギターだけは手放すことはなかったのだ。丁寧に手入れをして、耳が聞こえないのに一人で楽器店に道具を買いに行く。店員からおかしな顔をされても父は笑って誤魔化していたらしい。
そんな父の元育ったため、神奈子が同じようにギターを弾く道を選んだのは言うまでもない。彼女がギターを弾いていた時、父は笑っているような泣いているような何とも言えない顔になっていたのを覚えている。そのまま音楽と共に生きていた神奈子は夢を得た。アーティストになって父にその姿を見せようと。高校を出た後は専門学校への道を志し、課題提出のために作曲をしたり、インスピレーションを得るために外を歩き回ったり色々していた。が、その色々している間に無情な運命が彼女を襲う。魔獣の襲撃に巻き込まれたのである。
どんな魔獣かは覚えていない。いや、思い出したくないの間違いか。気がついた時には頭に包帯を巻かれた状態で病院のベッドに寝かされていたのだ。その時、彼女は側頭部に強い衝撃を受けていた事実に気がつかなかった。ずっと耳鳴りがする。それに合わせて耳の奥に何かが詰まっているかのような気持ち悪い感覚。彼女の鼓膜はすでに破れてしまっていたのだ。正確には一部が損傷し、耳がほぼ聞こえない状態なのである。
医者が何か言っても聞こえないために愛想笑いをすることしか出来なかった。耳を失った結果、筆談などでコミュニケーションを取り、学校を中退。路頭に迷う羽目になるが家にいても父の姿と自分が重なってしまう。まだ若かった彼女は吹っ切れて家を出て行ってしまったのだ。そこからどうやってここまで来たか。彼女はぼんやりとしか覚えてなかった。
「素敵な鼻唄じゃないか」
同じく屋根の上に登って神奈子に話しかけたのは鳥丸だった。無論、聞こえないことは鳥丸も知っている。適合が決まり、魔装を製造するときに「聞こえがいいのにして」と希望したのも。唯一の救いは適合が聴力の補助をしてくれる魔獣だったということ。神奈子は迷いなくヘッドホンを作ってもらい、肌身離さず魔装をつけているのだ。
「……なんなの?」
鳥丸の存在に気がついてヘッドホンを耳にかける神奈子。どういう原理かは本人もどうでもよかった。ただこれさえあれば普通の人に戻ることができる。神奈子はそれだけを願っているのだ。
「いい鼻唄だったなぁって」
「そう……唄ってたのね。こういう季節になるとさ、寂しくならない?」
「寂しい……、たしかに肌寒くなると色々考えてしまうよ。棚が湿気ってたらコレクションも台無しだ」
鳥丸は探索で拾った石であったり、花を押し花にして保存していたりとなんでも収集する癖があった。彼の部屋にはコレクション棚がいっぱいだ。鳥丸は神奈子の横に座って大きな息を吐いた。
「そのノート、埋まりそうか?」
「さぁ……最近はみんな静かなだもの。もうアンタの言葉は書き飽きたわ」
神奈子が持っているノートは聞こえてくる会話や実際自分がしたコミュニケーションを記録するためのノートだった。耳が聞こえなくなってからずっと筆談をとっていた神奈子は文字を見るだけのその時の光景を思い出す癖がある。ただのメモが彼女にとっては大事なレコーダーのようなものだ。それはヘッドホンを装着してからも変わらなかった。むしろ聞こえてくるのが嬉しくて自分に関係ない会話も事細かく記録していたほどである。ノートと鳥丸を見ながら神奈子はフードを取った。
「……そろそろ近いんでしょ? 任務」
「察しがいいな。もうすぐ満月だ。新人殺しが少し気になるが……面白いことに玲司がいそいそと研究所から帰ってきてね。心なしか嬉しそうだったよ」
「何があったのよ」
「さぁ、ああいうときに話しかけると殴られるかも。ところで……さっきの鼻唄はなんだい?」
「学生の頃……初めて弾けた曲。お父さんが好きだった歌なの。昔から耳が遠いはずなのに歌詞だけでも読んでるくらいに好きだった。私が弾いてあげた時はすごくニコニコしてたのね。聞こえないから笑うしかなかったって最近気がついたんだけど」
ポケットからタバコを取り出して咥える神奈子。そのままライターで着火させて吹き荒らす。
「吸いすぎじゃないか?」
「今日くらい吸わせて。夢の中じゃあ吸ってもハイになれないでしょ? 今の楽しみはこれくらいよ」
「後輩に見せていた姿とは大違いだな。ま、俺もそうだけど。俺たちが発見した魔石、あれで任務の目処が立ったわけだからすっごいの見つけたそうだぜ、俺たち」
「何が言いたいのよ」
「褒められちゃった」
タバコの箱を神奈子は寄せたが鳥丸はスッと指で押し返して拒否する。オイルライターのコレクションもあるが結局使ってないものばかり。宝は持っていても腐っていくだけ。神奈子から見ればそう映るが鳥丸は違う。集めた時の高鳴りが忘れられないからそのままにしているのだ。一種の凝り性である。
「仏頂面で髭を伸ばしちゃって。その面でタバコ吸えないってどういうことよ」
「小さい頃、おふくろにタバコを吸うと背が伸びなくなると言われてね」
「あぁそう。……この仕事に就いてもう長いこと経つけど今だに好きになれないわ。任務、本当に表に出なくていいのよね?」
「あぁ、そこのところは気にすんな。しっかりと相談してる。……それと漁師でも魚嫌いな人はいるし、肉業者でも肉は嫌い、みたいな人だっているんだ。戦闘員だからって戦闘が好きな奴らの溜まり場は幼稚だと思うよ?」
「綺麗事ね」
「できればそれの方がいいじゃん」
いつのまにか屋根の上で寝転がっていた鳥丸。所々に雲が見える空は朧、月は下弦から徐々に膨れていくような……。ある程度の間が空いたところで不意に神奈子はケースからギターを取り出して弦のチューニングに入っていた。片目で神奈子を見る鳥丸。目が合いそうなところで逸らす。寝ているふりをしていた。
鼻唄が聞こえる。それは鳥丸も聞いたことがある懐かしい世代の歌だった。その鼻唄に合わせて神奈子は頼りない指でギターを弾き始める。何度も練習をしていた賜物か、間違えることはなく堂々と弾いている。細い指から想像のつかないほど器用に弾いたり、時折足踏みでリズムを確認したり、色々。音のコレクションを持っている神奈子と凝り性の鳥丸。狭い屋根の上で各々の時間を過ごしていた。
が、鳥丸と神奈子の通信機が音を立てる。鼻唄と弦はすぐに止まり、通信機を二人は同時に見た。
「……どうして? まだ満月じゃないわ」
「満月自体が不確定な予想だったから……。龍一を起こそう。すぐに準備だ」
住民に発せられた避難命令、それに合わせて隠された場所に埋められていた魔石は限界値の輝きを発する。鳥丸は屋根の上から空へと伸びる光の柱を見ていた。鳥丸が発見した魔石はたった一つ、まだ隠されていた魔石があったということ、そしてその魔石は夜の摩天楼から柱を立てていたことに気がついて声をあげてしまう。
「そうか……! 覚醒魔獣騒ぎで街はマークしてなかったじゃないか! あの人型の魔獣が配置しているとなると……」
「バレる可能性は低いわ……。ねぇ、本当に大丈夫?」
「大丈夫なように俺たちが動くんだよ!」
神奈子の背中を叩いてすぐに屋根から降りた鳥丸。朧月夜に魔石は、奴らは動き出す。街に魔石があるなら被害は甚大な可能性が高い。
森の鳥型魔獣達は光目掛けて飛び立とうとしている。目が効かない暗い夜の中でも魔石の導きがあれば問題ない。同胞の魂を近くに感じながら魔獣達は飛び去っていった。
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