店を出ようとドアに手をかけた弘人が、ふと伝え忘れていたことに気付き振り返った。
「来月の26日、またこの時間に来ますので、いつもより少しだけ豪華なものをお願いしてもいいですか?」
それを聞いて舞咲は満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。
「はい!店長に伝えておきますね!」
では、と軽く会釈してから弘人は今度こそ店を出た。ここ数年続いていた暖冬が嘘のように、例年の1月下旬並みだという冷たい空気が体を包んだ。細身で脂肪の蓄えのない弘人の体にこれからの季節はつらい。一刻も早く暖房の中へ、と信号を渡ろうとした彼を
「弘人さん!」今しがた自分が来た方向からの
女性の声が呼び止めた。
声の方に顔を向けると、エプロンをつけたままの舞咲が上着も羽織らずに、長い髪を揺らしながら駆け寄ってきた。目の前まで来た彼女は、乱れた息を整えてからやや緊張した面持ちで口を開いた。
「来月の花束、店長の許可が出たらですけど、
私が作ってもいいですか?」
思いがけない申し出に、弘人はすぐに答えを返すことが出来なかった。
なぜ今回に限ってそんなことをー?
冷静になって考えても彼女の意図が見えてこない。理由を尋ねようと口を開くよりも舞咲が言葉を継ぐ。
「私、時の季でのバイトを今年いっぱいで辞めるんです。就職の決まった会社の内定者研修が年明けからあって。本当は卒業まで続けたいんですけど、私あんまり要領良くないから、両立させる自信がなくて。」
何度か頷くように、自分の中で言葉を選びながら、それを絞り出すように、自分のことを語る舞咲の話を、弘人は目を逸らすことなく聞いた。
「うちのお客様で花束のご注文をなさる方、そんなに多くないんです。ほとんどがスタンドとかブーケとかなんですけど、そういうのは私は触らせて貰えないんです。高価なものですし難しい仕事だからって。」
なるほど、繁華街からそれほど離れていないこの店では個人相手の小さな花束などよりそういう商品が主力になっていても不思議はない。むしろそれがなければ店はやっていけないのだろう。
「もちろん弘人さんの花束が簡単だと思ってる訳じゃないんですけど、私なりにこの2年弱頑張ってきたつもりなんです。だから、その最終試験として、私が入った時から知ってくださってる弘人さんと彼女さんに私の最後の仕事の評価をしていただけたらって思って、、、」
そこまで行って、舞咲は弘人と目を合わせた。
弘人は無言のまま、自分の腕に抱えた花束と目の前の女の子とを交互に見遣った。緊張からか寒さからか、またはその両方で肩を震わせる彼女は、恐らくは勇気を振り絞って自分を追いかけてきたのだろう。
人当たりのいい彼女のことだ。自分がここで断っても、他の客や店長の出水に頭を下げれば代わりに『最終試験』とやらの評価をしてくれる人くらい見つかるだろう。だがもう年末まで1ヶ月少々しかない。これから代わりをみつけ、その客のための花束なりスタンドなりを考えているうちに彼女はあの店からの卒業を迎えてしまう。それ以前に試験と言うからには見た客の反応も見たいのだろう。だからこそ、ある程度顔見知りで、1つとはいえ好みを知っている自分と、自分の彼女を試験管に選んだのだ。そう考え始めてしまうと、弘人は舞咲の頼みを断ることが出来なくなった。
「えぇ、構いませんよ。お断りする理由もありませんし。出水さんには僕からもお願いしていたと伝えてください。」
極めて端的に、伝えるべきことだけを伝える。
それを聞いた舞咲は頬を緩め、弘人の花束を抱えていない方の手をとった。
「本当ですか?ありがとうございます!頑張りますね!」手を離し、小さくガッツポーズをした舞咲は、ひとしきり喜んだ後、
「それでですね、彼女のこととか好みとか希望とかをお伺いしたいんです。弘人さんから聞いて頂いて、私に教えてくれませんか?これ、私のLINEのIDです。お時間ある時に連絡ください。」
そう言ってエプロンのポケットから小さなメモを取り出して弘人のジャケットのポケットに押し込んだ。
「じゃあ、お店空けちゃってるので私戻りますね。連絡、お待ちしてます。」
一歩下がってまた深く頭を下げると、軽やかに振り返り、来た時同様駆け足であの暖かな店へと戻って行った。
その背中を見送りながら、弘人は小さく呟く。
「彼女の希望なんか、俺が聞きてぇよ。」
その声は、角を曲がり、弘人から見えなくなった舞咲には届かなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!