目の前で優秋が殺されてしまった。次は、僕の番だ。それが和智が本能的に感じたものだった。自分で死ぬつもりだった時にはなかったはずの恐怖が、彼を襲っていた。恐怖心というものは、頭で理解し、感じるものではない。元々自分の意志で死ぬつもりだったことなど、関係なく本能というものは、勝手に死への恐怖を感じて、体への危険信号を送るのだ。
「大丈夫だ、和智。君は先生が守る」
「それは、強がり。あなたは、死ぬ。私が殺したもの」
「そんなんじゃ死なないよ」
「人は、死ぬ。簡単に」
その少女はサバイバルナイフを素早く抜くと、もう一度、角度を変えて、心臓を刺した。
「これで、終わり」
「確かに終わりだ。負けるのは君だが」
優秋はようやく口を開いた。ジャックの腕を左手で掴んだまま、立ち上がった。ジャックは逃げようとするが、その腕は振りほどけない。姿を消すこともできないでいた。ジャックを掴んだまま、優秋は腕を振り上げた。
「私、子供。殴るの、よくない」
「そうだね。安心してくれ。私も子供殴る趣味はない」
優秋は自分の胸に刺さったナイフを抜き取った。そして、再び、ナイフと共に、腕を振り上げた。
「私の正義は、子供に容赦したり、油断したりするような、程度の低いものじゃないんだよ」
優秋を貫いていたサバイバルナイフは、今度はジャックの心臓を貫いた。痛みと恐怖でしばらくは暴れていたが、数秒で動かなくなった。そのジャックだった少女の死体は、優秋は投げ捨てることなく、静かにその場に置かれた。
「死んだのか?」
「そうだ。子供だからって同情するなよ? あの姿は実年齢とは関係ない」
「そうなのか?」
「当たり前だ。いくら特殊な訓練を受けても、あの年齢であの動きは普通の人間にはできないんだよ」
「そうだよな。じゃあ、一体……」
「その秘密がこれさ」
「さっきの……」
先ほど、和智が先生に渡された枝。ジャックも優秋も自らの首をそれで切っていた。いくらバカでも気付く特別な力への入り口。ジャックの姿を消した力。優秋が心臓を貫かれても、今、傷口が回復し、そこに立っている力。その正体はともかく、どちらも、首を切る、ということがその力への入り口であることに違いはない。
「これで自分の首を切るってことか」
「そういうことだ。もし君が選ばれた人間であるならば、英霊と魂が繋がり、私やさっきの少女のように、異能を手にすることが出来る」
「英霊?」
「偉人たちの魂のことさ。本来は実在した人物としか結びつかないのだが、有名な物語だと、それが具現化し、その魂と結びつくこともある」
「もし……選ばれた人間ではなかったら?」
「死ぬ」
「そう……だよな」
「まあ、大丈夫さ。どうせ死ぬつもりだった命だろ」
「上山彩夏にも、選択させたんだよな?」
「そうだよ。彼女は迷わずに、自分の首を切ったよ」
「どうなったんだ?」
「学校に行っていないし、彼女の両親や近しい人には、交通事故で死んだ、と思っている、と言ったはずだ。全部言わなくても分かるだろう」
気付けば、彼は悩んでいた。死を覚悟して、屋上に来たはずだった。今の現状から逃げるために、死を選んだはずだった。今、この選択に彼が悩んでいる理由は、死への恐怖が少しだけ芽生えて、怖気づいている。というだけではない。むしろ、これよりも重大な理由。それは彼には戦う理由がなかった。生きたいという理由もなかった。死ぬのも怖いのだが、生きるのも、また怖いのだ。
例えば、選ばれて力を得たとして、辛い日常が変わるとは思えていなかった。戦ってどうする? 僕は自分の親戚を殺すのか? それが隠し切れない自分への疑いだった。力を得たとして、人を殺すなんてこと、彼にはできないと。彼自身が分かっていた。
これまでの復讐のために、殺したとしても、待っているのは犯罪者としての日々。今の日常から良くなっている、とは言い難いだろう。
「どうした? ビビってるのか?」
「そういう訳じゃない。ただ力を得たとして、僕には戦う理由がない。別にヒーローになりたい訳でもない」
「戦う理由、か。お前の親戚への復讐、じゃ足りないのか?」
「……確かに暴力は酷かった。扱いが酷いのも分かる。でも、両親を事故で亡くした僕を、引き取ってくれたのは事実だ。命がけで復讐するほどのことじゃない」
「なんだ、君、知らなかったのか?」
「知らなかったって、何を」
「君の両親、その親戚夫婦が殺したんだぞ?」
「……そうだったのか。でも、なにを理由に」
「そんなもの金目的さ。君を引き取ることになれば、保険金も代理で受け取れるだろうからね」
「そんなことのために……」
「どうだ? 決意はついたかい?」
「……ああ。何年も経った今、警察も逮捕するのは難しいだろうから。僕が殺すしかない」
「それが君の生きる目的になるなら、死ぬよりはマシさ。生きてさえいれば、意外となんとかなるからね」
彼は首を切っていた。そこから流れていく血。生暖かい液体が、ゆっくりと首を伝っていく。血が止まらない、どころか、その勢いは増していく。
「なあ、これ大丈夫か?」
「……」
「先生?」
「……大丈夫だ。君は元々、死ぬつもりだったのだろう?」
その言葉に和智は恐怖を覚えた。徐々に死に近づいていく、恐怖。屋上から飛び降りていれば、死ぬまでの時間はほんの一瞬だ。恐怖を覚える時間もなく、死ぬことができる。しかし、これはゆっくりと死を実感していく。時間だけが経過し、出血量が増えていく。花びらが舞うことなく、時間だけが過ぎていく。
和智の意識は朦朧とし、立っていられなくなり、その場に倒れてしまう。体温が下がっていき、体が動きづらくなっていくのを、和智は感じていた。
「僕は……死ぬのか?」
『安心しろ。お前は死なない』
「誰……だ?」
『いずれ分かるさ。これはお前と私との契約だ』
「契……約?」
『そうだ。使っただろ? 英知の枝を』
和智の頭に響く低い声。倒れた和智を見下ろしながら、1人の男が歩いてくる。屋上を歩く革靴の音が静かに響いている。その音は徐々に、和智へと近付いていった。スーツに身を包み、スラっとした初老の男。目つきは悪いが、和智への敵意は感じない。怒っている訳ではなく、どうやら、そういう目つきのようだ。
「お前が英霊か?」
『そうだ。私の名前はー―』
「なっ⁉」
『私の正体は誰にも言うな。異能力の範囲が限られてしまうからな。勿論、お前の先生にもだ』
和智がはっと気が付いた時には、その姿は消えていた。起き上がって、辺りを見回すと、そこにいたのは、優秋だけだった。
「和智‼ 大丈夫か?」
「……ああ、うん。大丈夫だ」
「傷がふさがって、生き返ったってことは、英霊の力を得たはずだ」
「ああ」
「誰だったんだ?」
「悪い、それは言えないだ。僕と彼との契約なんだ。異能力を使うにあたって、使える範囲が限られてしまうって。彼が言っていた」
「なるほど。秘匿の共有って訳か」
「いや、秘密にしたいとかって事じゃなくて」
「良いんだよ、和智。随分と良い英霊みたいじゃないか。秘匿の共有っていうのは、秘密を英霊と共有することによって、魂の結びつきを強める方法さ。秘密を知っている人間が少なければ少ないほど、その効力を発揮するんだ。敵に情報を開示することによって、強化する方法もあるんだが、それはいずれ、その英霊に聞くといい。きっと教えてくれるさ」
『言っておくが、私の力の場合は、情報の開示は強化には繋がらないからな? 話すんじゃないぞ』
「分かってるさ」
「どうした?」
「なんでもないよ 頭の中で彼が、喋っているだけだ」
「なるほど。君の中のモリアーティ教授が喋っているんだね」
「えっ?」
「おっと、すまない。口を滑らせてしまった。でも、君は悪くない。彼とは少し話がしたいんだ。ちょっと変わってくれるかい? 昔の知り合いなんだ」
『ちっ、変われ』
頭の中で再び低い声が響く。和智の意識をそこで奪われたと一目で分かった。目つきは少し悪くなった。和智の滲み出る人の良さはなくなってしまった。
「久しぶりだね、教授」
「私は会いたくなかったよ。ホームズ」
心の底から毛嫌いしているような、否、恨んでいる相手への敵意が、彼からは滲み出ていた。それを受けて、優秋は不敵にも笑顔を見せて、話している。その感情は敵に対するものではなく、まるで、旧友と久々に再会した時のそれだった。
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