「気にいらぬな」
ムッとした面持ちで玉座から楽毅達からの報告に耳をかたむけていた中山王・姫錯であったが、聞き終えるや否や吐き捨てるようにそう言い放った。
「趙の如き弱兵に我が領内を好き勝手にされるとはな。これは太子・姫尚。総大将であるお前の不手際と言わざるを得まい」
「面目次第もございません」
実の父親から向けられる冷酷なる言葉に一言も反論せず、姫尚は深々とこうべを垂れてそう述べた。
「いいえ、この度の不手際は作戦立案者であるこのわたしにあります」
この期に及んでなおも敵を侮り、危機にあるという現状を決して認めようとしない愚昧な王に憤りを感じた楽毅であった。しかし、姫尚が恥を忍んで大人しく平伏しているのに、家臣である自分がわざわざ波風を立てるような発言をする訳にはゆかず、平静を装って頓首する。
楽峻もそれに習い、三人は霊寿を護り趙軍を撤退させたにも関わらず何の労いの言葉も受けられず、まるで罪人の如く様相をさらすのだった。
中山王は功労者達を冷眼をもって見下すと、
「楽毅に関してはもうひとつ気にいらぬ事がある。余はお前に東垣に向かうよう兵を授けた。にも関わらずお前は余の命を無視して手前の砦に入り、あまつさえ大事な山道を塞いで新たな砦を築き、交通を妨げた。さて、この事実をどう言い訳するのだ?」
ネチネチとなぶるように問責を向けた。
「それは、先程も申し上げた通り趙軍が本気で東垣を落とすつもりが無いと判断した為であり、山道に砦を築いたのは趙軍の霊寿侵攻を少しでも遅らせる為で──」
楽毅はうやうやしく述べた。
が、分からぬのはそこよ、と言葉を遮る者がいた。王の隣りに控える白髪の宰相・司馬熹であった。
「お前はなぜ、趙軍の狙いが霊寿であると判断した? この度はたまたまそうであっただけで、一歩間違えればみすみす東垣を趙に明け渡す事になっていたのだぞ?」
中山王と同じ粘質を帯びた言葉が彼女を責め立てる。
楽毅は決して安易な想像で兵を動かしたり、偶然に身を任せる様な無策な戦いはしない。考慮に考慮を重ねて敵の胸裏を読み取り、それを基に相手の裏をかくというのが彼女の戦い方である。
楽毅は、これまでの戦で武霊王がどのような采配を振るったのか、その情報を蒐集し事細かに分析した結果、武霊王という人間の思考やクセを徹底的に掴んでいた。そんな彼女からしたら実は、武霊王という堅固な威武によって率いられた趙軍の動きを読むのはさほど困難な事では無かった。
しかし、その様な事を説明したところでこの暗愚な王やその脇に侍る佞臣の理解を得られるとは思えない。いや、かえって不興を被るだけであろう。
そう考えた楽毅は、
「わたしが浅慮でございました」
そう言って不本意ながら頓首し、許しを請うしかなかった。
ふん、と鼻を鳴らして中山王は、
「まあ、よい。それよりも武霊王から講和の書簡が届いておる。返答の使者は楽毅、お前がゆけ」
吐き捨てる様にそう告げる。
突然湧いて出た『講和』という言葉に、楽毅達はそろって驚きの声を上げる。
「まさか父上は、趙と講和なさるおつもりなのですか?」
「……そうだ。三つの邑を差し出せば奴らは完全撤退するとの事だ」
姫尚の問いに、中山王は不快をあらわにして答える。
それはなりません、と姫尚は強い口調で父である中山王に食ってかかった。
「趙軍は思うような戦果を挙げられずに冬を迎え、武霊王は内心では焦っているはずです。それなのにみすみす敵に領土を裂くなど、愚の骨頂です。それに、武霊王が約定を守った試しの無い事をお忘れですか?」
楽毅も彼と全く同じ見解だった。
趙軍の足を止めて冬まで持ち堪えた時点で、武霊王の目算は完全に崩れたのだ。佳良の成果と言っても過言ではない。
しかし、それを理解出来る者が愚昧な王の面前にいる三人しかいないことは、中山国にとっての不幸であり、趙国にとっての幸運であった。
「黙れ黙れッ! 無様な負け戦を演じておきながら王であるこの余に口答えするなど言語道断。よもや反逆を企てておるのではあるまいな、太子よ?」
まるで駄々っ子のような口調で、ギョロリと蛇のごとく陰湿で瞋恚に満ちた視線を向ける中山王。
「反逆など滅相もございません」
「さて、どうだかな。最近そこの者達とよく逢っているらしいな。結託して余を追い出す為の算段でも企てておるのではないのか?」
顔を背けて邪推を述べる。
もはや忠誠も親子の情も、猜疑心に凝り固まった中山王にはわずかばかりも届かない。それでも必死に説得を試みる姫尚と、まったく聞く耳を持たない中山王。両者の心が通じ合うはずも無かった。
「分かりました!」
たまらず楽毅が叫ぶ。口論がピタリと止まり、視線がそちらへと注がれる。
「講和の使者、承りました。明日、さっそく武霊王のいる本陣へと参ります……」
絞り出すようなか細い言葉に、姫尚と楽峻は驚きの面持ちを向け、中山王と司馬熹はニヤリとほくそ笑む。
「しかし楽毅よ。それでは──」
「大丈夫でございます、太子。たとえ三邑を献上しようとも、必ず挽回の策を講じてみせます」
不安に満ちた姫尚の言葉を穏やかな笑みで制し、楽毅は自信をこめて言うのだった。
本当は策など全く無い。しかし、姫尚の辛い身の上を直接聞かされていた楽毅は、これ以上親子の関係が拗れる事だけは避けなければと思ったのだ。
「ふん。せいぜいしくじるなよ」
吐き捨てる様にそう言い残すと、中山王は肥えた体を揺らして立ち上がり、楽毅達に一瞥もくれる事無く奥の間へと下がってゆく。のしのしと歩く中山王のすぐ後ろを、司馬熹が続いた。
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