それは、楽毅が中山国の太子・姫尚と謁見してから十日後の事であった──
趙軍が時を同じくして北、西、南の三方から一気に中山領に進軍を開始した、との報が国都である霊寿にもたらされた。
楽毅が懸念していた通りの事態となった訳だが、忠告したにも関わらずそれを黙殺していた宮廷内の者達は戦々恐々と狼狽えるばかりであった。
そしてすぐさま太子・姫尚を総大将とした防衛軍が結成され、出師の式典が宮廷内で執り行われた。
楽毅も、将軍就任の正式な辞令を受ける為にこれに出席していた。
「楽毅、前に出よ!」
厳かな雰囲気の中、軍装に身を包んだ美麗の青年・姫尚の厳然たる声が雷鳴の如く殷々と響き渡る。
「はっ!」
拱手と共に呼びかけに応え、楽毅は姫尚の元へと勇ましく突き進む。彼女も、茜色が盛りこまれた鮮やかな甲冑に赤いマントといった完全武装で臨んでいた。
「そなたを将軍に任命すると共に一万の兵を授ける。これをもって南方の敵を駆逐せよ!」
姫尚はそう言って一振りの剣を差し出した。
楽毅は片膝をつき、頭を下げたままそれを受け取り、
「身に余る光栄にございます。必ずや、ご期待に添えてみせましょう!」
姫尚に負けぬ堂々とした声でそう応えた。
楽毅は立ち上がり踵を返すまでの寸時、姫尚の背後で玉座に座したままふんぞり返り、つまらなそうな顔で事を眺める中山王・姫錯と、そのすぐ傍に侍る老宰相・司馬熹の姿を瞥見する。
──わたしは愚昧な王と佞臣の為に戦うのではない。太子とこの国の為に──護るべきものの為に戦うのだ。
元いた場所に戻るまでの間、楽毅は心の中でそう豪語した。
異民族に感化された蛮族どもを討て、と最後に中山王は立ち上がって檄を飛ばす。
おお、と喚声が轟く中、楽毅はひとり冷めた瞳で、
──蛮族と見下したその相手に足元を掬われているのは、どこの誰か。
いまだに敵を見下し、その認識を変えようとしない蠢愚な王に蔑視を向けるのだった。
その後に配置が伝えられ、南方は楽毅率いる一万の兵、西方は楽峻率いる一万の兵、北方は姫尚率いる一万の兵がそれぞれ任る事となった。
趙軍の全容はまだ定かではないが、おそらく十万はあるのではと予想されている。つまり、三倍以上の兵力を誇る相手と対峙しなければならないのだ。
「いよいよですね、お姉さま」
外に戻ると、楽乗、翠、楽間が彼女を出迎えた。みな軍装である。
「ええ。みなさんはわたしの佐将として働いていただきます」
楽毅の言葉に、三人は大きくうなずいた。しかし、まだ十二歳という若さの楽間は緊張に顔を強ばらせていた。
「翠。申し訳ありませんが、常に楽間の傍にいて護ってあげてください」
楽毅がそう告げると、翠は、はい、と力強く答えた。
「待ってください、姉上。ボクはひとりでも闘えます。だからボクに姉上を護らせてください!」
心配をかけさせまいと、楽間は精一杯気を張って訴える。
しかし、楽毅は黙したままかぶりを振った。
なぜですか、と詰め寄る楽間の頬に手を添えて楽毅は、
「わたしは指揮官です。指揮官は常に部隊後方の安全な場所に控え、アナタ達を危険な前線に送りこみます。ですので、わたしに危険が及ぶ事態に至った時にはアナタ達はすでに死んでいる事になるのです」
真剣な面持ちで語った。
最悪の事態を想像した楽間の顔が青ざめてゆく。
楽毅はすぐにほほ笑むと、
「だから、アナタ達を──前線の人達を出来るだけ死なせない事がわたしの努め。楽間、わたしを信じて……」
諭す様に言った。
楽間はコクリとうなずいた。その顔にはもう迷いは無かった。
「ありがとう」
楽毅は愛すべき弟をそっと抱き締め、
──決して死なせはしないわ。
覚悟を新たにするのだった。
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