そして、帰国の日がやってきた──
講義の開始前に楽毅は孫翁の隣りに立ち、最後の挨拶に臨む。
その足元には、背嚢とわずかな手荷物があった。
楽毅は一度教室を見回す。
見慣れた光景──
なじみの学友達──
しかし、そこに趙奢と田単の姿は無かった。今朝、楽毅が目を覚ました時にはすでに二人は部屋にはいなかった。
結局最後まできちんと話が出来ず、ぎこちない関係のまま別れの時を迎えてしまったことは、彼女の唯一の心残りであった。
「……わたしは、ここへ来た当初はとても不真面目な態度を執り、先生やみなさんに大変不快な思いをさせてしまいました。ここで改めてお詫び申し上げます」
楽毅が静かに語り、そして深々と頭を下げる。
室内はすでに誰かの嗚咽が漏れ始めていた。
「わたしはこの臨淄で多くの人と出会い、多くの事を学ばせていただきました。そして……楽しい思い出もたくさん作る事が出来ました」
儚げに微笑む楽毅。
学友達のすすり泣く声があちこちで上がる中、彼女は気丈に語り続けた。
「わたしは……これから強大な敵と戦わなければなりません。正直、勝てる見こみは薄いです。本当は……震えが止まりません」
しかし、ここにきてあれだけ穏やかだった楽毅の表情は崩れ、碧い瞳が潤みだす。
「もっと、ここにいたかった……。みなさんと一緒に……」
ついに楽毅の目から熱いものがこみ上げ、堰が崩壊したようにとめどなく流れ落ちた。
それが呼び水となり、学友達は一斉に号泣しだす。
「ですが、わたしは戦います。ここで学んだ事を活かす為に」
何度も声を上ずらせながら、それでも楽毅は気力をふり絞って話し続けた。
「最後に……異相のわたしを──敵国の人間であるわたしを温かく受け入れてくださった事、深く感謝致します」
そう締めくくり、楽毅は深々と礼をした。
みな一斉に彼女の元へ駆け寄り、別れを惜しんで抱擁を交わす。
孫翁は、静かに目頭を押さえて上を見上げていた。
「楽毅、これを受け取って」
学友達が楽毅に竹の札を差し出す。
「これは?」
「私達からの応援の伝言よ」
次々に手渡される竹札を見ると、
『武霊王に負けるな!』
『自分を信じて!』
など、心々の激励の言葉がその者の名前と共に記されていた。
「ありがとうございます。みなさんと過ごした日々は、わたしにとって最高の宝物です……」
竹札を抱きしめ、楽毅は再び涙した。
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