楽毅はおもむろに前へと移動し、幌をめくる。
牧歌的な光景と共に、馭者として手綱を握る翠の背中が映る。
彼女も含め楽毅達の着ている服も同じ白だが、どちらかというと蒼色がかっており、決して【墨家】が用いるような白装束では無い。とはいえ、全ての【墨家】が白装束であるとも限らないのだが。
「ねぇ、翠さんもこっちで一緒にお話しない?」
「……私は馭者ですので。それに見張りも兼ねておりますので結構です」
楽毅の呼びかけに、翠は背中を向けたままつっけんどんに答える。
「じゃあ、わたしが馭者を交代しましょう。そろそろ疲れたでしょう?」
「……こういった仕事には慣れております。お気づかいは無用です」
何とか会話の糸口を掴もうとしているが取りつく島がない、といった感じである。
「そう……。じゃあ、このままお話しましょう。それくらいなら良いでしょう?」
それでも、楽毅はめげる事無く声をかけ続ける。
「お姉様。あの者に気を許すのは危険です」
見かねて楽毅の側にやって来た楽乗が、耳元でそう囁く。
楽毅は、分かったとばかりにコクリとうなずくと、
「楽乗さんも、アナタとお話がしたい、と言っているわよ」
と、さらに声を張り上げて言った。
ええっ、と困惑する楽乗。
翠はひとつため息を吐き、
「……私と話をしても、何もおもしろくありませんよ?」
諦めた様に言うのだった。
「わたしもあまりおしゃべりは得意じゃないわ。だから気にしないで」
楽毅はうれしそうに笑い、楽乗は、はぁ、と諦めのため息を漏らす。
「ねぇ、翠さん。歳はおいくつ?」
「十四です」
「じゃあ、わたしの方が二つ上なのね。生まれはどちら?」
「私は三年程前に楊商会に拾われてから、その一員として各国を転々としておりました。ですので、私にとっての国は楊商会です」
「拾われた? では、ご家族の方は?」
「……おりません。と言うか、私には楊商会に拾われる以前の記憶が無いのです」
「記憶が……。イヤな事を訊いてしまって、ごめんなさい」
「いいえ、別に悲しいとかいう感情も無いので、お気になさらずに……」
涼やかなその口調からは、確かにそういった負の感情は感じられなかった。それは言い換えれば、彼女にとって楊商会が家族であり、かけがえの無い大切な場所なのだろう。
しかし、それでも楽毅は翠に同情の念を禁じ得なかった。
彼女も、幼い頃にはもう母の姿は無かった。その面影を偲ぶものは無く、わずかに記憶の片隅にある母の顔は霞がかったようにぼやけていた。
「そういえば、楊さんは儒家なのかしら?」
ここで楽毅は、聞きたかった事を迂遠的に訊ねる。
「……なぜ、そう思われたのですか?」
「ほら、服に太極図が刺繍されてるでしょう? 儒教は陰陽説も取り入れてるから、そうなのかなぁって思ったの」
「確かに陰陽説は儒家にも大きな影響を与えております。しかし、儒教は仁義礼智を旨とした道徳観を伝えるもの。儒家に武器商人は務まりません」
「それもそうよね。おかしな事聞いちゃったわね」
そう言っておどける楽毅。
しかし、そんな事は彼女は百も承知であった。
「……楊様は道士です」
そしてついに、翠の口から答えを引き出した。
「道士……?」
道士は道教の修道者を差し、道家とほぼ同義である。
たしかに、陰陽説は道教にも多大な影響を与えている。しかし、楽毅はその教義について詳しく知っている訳ではなかった。
「道教とは一体どのような教えなのでしょう?」
「道教は、古来より伝わる巫術や鬼道を礎としております。そこに虚無自然を真の道と説く老子の思想、儒家の哲学、陰陽五行説、さらには【墨家】の思想などあらゆるものを取りこみ発展しました」
「道教には【墨家】の思想も含まれているのですか?」
楽毅は思わず説明を遮る。
「ええ。とは言っても、上帝や鬼神といった形而上学的なもののみですが」
上帝は天上の神、鬼神は神霊や霊魂を指し、いずれも中華大陸に古来から伝わる思想である。
「はぁ……」
分かった様な分からない様な、曖昧なため息を吐く楽毅。こと楽乗に至っては、先程から苦虫を噛み潰した様な渋い顔で何度も首をひねっていた。
ようやく翠は後ろを振り返ると、
「まあ、要するに宇宙の真理をひとつの道──これを【タオ】と呼びますが、【タオ】を極めて宇宙の真理に近づく、というのが教義の根本にあり、その為の手段として不老長寿になり世界と一体化する、というのが道教です」
苦笑交じりに説明を続ける。
「なるほど。つまり、人間を超越した存在を目指そうと?」
「ええ。そんな感じです」
翠は楽毅の理解の早さに感心した様にうなずき、視線を前方に戻した。
──儒教とは違う、むしろ澪さんの陰陽道に近いのかもしれない。
儒教は身近な道徳を学術的・宗教的に昇華させたものであり、儒家の祖である孔子の教えをまとめた『論語』には、“怪力乱神を語らず”とある。決して道教とは相容れないものだ。
一方、以前澪が語っていた陰陽道とは宇宙観が似ており、共に真理を有している。
しかし、澪の陰陽道には【大いなる意思】という神の如く存在は認めても、人が神に近づくという選択肢は無い。
【天輪】という唯一絶対の真理の下、人は【大いなる意思】によって定められた運命を享受するという受動性の陰陽道。
真理を求めて自らを神の領域にまで高めようとする能動性の道教。
両者の相違を、楽毅はその様に理解した。
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