「まあ、楽間はお前がいなくて寂しそうにしていたからな。もうひとり姉が出来て喜ぶだろうよ」
楽峻のその言葉に、大事な何かを思い出したようにハッと開口した楽毅は、
「そういえば、楽間の姿が見えないのですが……何かあったのですか?」
心配そうに楽間の──実の弟の安否を問う。
「あやつなら……ほれ、あそこに立っている」
楽峻は苦笑交じりに言うと、邸宅の方を顎をしゃくって示す。
そちらに目を向けると、戸口の前でじっと佇んでいるひとりの少年の姿があった。
「何だ、そんなところにいたの。ほら、楽間。こちらにいらっしゃい!」
弟の姿を確認した楽毅は、大きく手を振って呼びかける。
楽間はピクリと体を揺らすが、それでもそちらに向かう素振りは無かった。
「一体どうしたのかしら? いつもならすぐにわたしの胸に飛びこんで来るのに……」
楽毅は不安げに首を傾げる。
「お前もそうだが、あの子もこの一年半の間で変わったということだ」
楽峻はそう述べてから、
「楽間、姉の帰還だ。こちらに来なさい」
少年を手招いた。
少年は──楽間は父の言葉を受け、おずおずといった足取りで楽毅達の元へやって来る。
髪の色は父と同じ黒だが、楽毅と同じ碧い瞳の端正な顔立ちをした少年は姉の前に立つと、
「お久しぶりでございます、姉上。無事のご帰還、お喜び申し上げます」
うやうやしい口調で拝礼を向けた。
それを見た楽毅はポカンと開口し、やがてワナワナと体を震わせると、
「どうしましょう、楽乗さん。楽間がわたしに甘えてくれません!」
楽乗の胸に飛びこみ、潤んだ瞳で困惑を訴えた。
「遅すぎる反抗期でしょうか? わたし、どう接したら良いのでしょう⁈」
「お姉様……。『男子三日会わざれば刮目して見よ』という言葉があるように、男の子の成長は早いものなのです」
情けないくらいに狼狽する楽毅の頭を優しく撫でながら、楽乗は淡々とした口調でなぐさめる。
「でも……でもォ……」
「楽間どのはお姉様のいらっしゃらない間、泣き事ひとつ言わずに刻苦勉励して参りました。どうか、弟どのの健やかなるご成長をお喜びくださいませ」
その言葉に、楽毅はハッと我に返る。
楽毅のいない間は、この楽乗がその代わりとして楽間に接してきた。その彼女が言うのだから間違いないのだろう。
「そう……ですわね、楽乗さん。次期当主としての自覚がこのコに芽生えたのなら、これ程喜ばしい事はありません」
楽毅はうなずき、現実を受け入れる決意をした。
楽乗もそれに応えてうなずくと今度は楽間の側に回り、
「楽間どの。楽毅お姉さまはアナタとの再会を何よりも心待ちにしておりました。今日一日だけで良いので、どうか以前のように思いきり甘えてみてください」
耳元でそう囁いた。
「で、でも、みなさんの目が……」
「楽間どのも、お姉様のご帰宅を一日千秋の思いで待ちわびていたはずです。そんなご姉弟の再会を笑う者など、ここにはおりません」
楽乗が優しく諭す。
楽間は逡巡の末、コクリとうなずき、
「お帰りなさい、姉上!」
そう言って楽毅の胸に飛びこんで行った。
「あぁ、楽間……。一年以上もの間書簡も出せずにゴメンね」
愛する弟を、以前と同じように優しく抱擁する。
「斉とは国交が無いのですから、仕方の無い事です」
弟も、愛する姉の温もりに身を沈める。
二人はお互いの絆を確かめ合う様に、しばらくそのままでいた。
「……大きくなったわね。もう少しでわたしの身長を超えそう」
出立前はまだ十歳だった楽間も今では成長期に入り、ひと回りも大きくなっていた。
「姉上も、一段と美しくなられました。弟としてとても誇らしく思います」
楽間から送られたその言葉は、楽毅にとって最高の賛辞であった。
二人の母は、楽間を生んで間もなく亡くなった──そう、楽峻から聞かされてきた。だから楽間は母に関する記憶もその温もりも得ることが出来なかった。
楽毅はそんな弟を何かと気にかけ、精一杯の母性をもって慈しんできた。
だから、楽間にとって楽毅は姉であり母でもあるのだ。
天涯孤独の身である翠は、そんな姉弟の光景を見て羨ましく思うのだった。
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