翌日──
楽毅達はこの日、丘陵を越えた先にある柏人という邑を目的地と定めた。柏人まで来ればもう中山国領は目と鼻の先である。
ただし、それは楽毅がまだ中山国にいた頃の話で、今頃は趙軍によって南西の領域はかなり削り取られたはずだ。
──まだ霊寿には至ってないと思うのだけど……。
楽毅の心に焦りは無い。しかし、楽観出来ないのも事実であった。
楽毅は幌から顔を出し、外の景色を望む。そこは相変わらず、木々と原野がどこまでも広がる荒涼の世界であった。
今度は車内前方に移動し、前方を見やる。そこには今日も相変わらず黙々と手綱を握り続ける翠の背中があった。
「ねぇ、翠さん。そろそろ馭者を交代しましょう?」
「……結構です」
楽毅の言葉に、翠はやはり振り返る事も無く無感情な声で答える。
「でも、毎日ずっとそこに座っていて、いい加減退屈じゃない?」
「大丈夫です。どうか私の事は気になさらずに」
やはり取りつく島が無かった。
しかし楽毅は、ふぅ、とひとつため息を吐くと、
「ダメよ。年上の言うことは素直に聞かなくちゃ」
窘めるような言葉と共に馬車を抜け出し、馭者席へと身を乗り出す。
「お、お姉様ッ⁉︎」
止めようとして楽乗が慌てて立ち上がるが、その時馬車が大きく揺れ、足元がぐらつく。
「な、何をしているのですか?」
楽乗の倉皇とした声もあいまって翠はようやく振り返り、すぐ側まで楽毅が近づいていた事にようやく気がつく。
「こ・う・た・い。ね?」
楽毅はにこやかな顔でそう言って、戸惑う翠の手を取り手綱を奪うと、体をすり寄せてその場所にムリヤリ陣取る。
「……それでは私が困ります」
結果押しのけられた翠が、うらめしそうな眼差しを楽毅に向ける。
「困る事なんて何も無いわ。中で楽乗さんとお話しながら休んでてくださいな」
手綱を握った事で気持ちが昂る楽毅。
「お姉様、私が変わります! お姉様は中へ」
平衡感覚を取り戻し、ようやく幌から顔を出した楽乗が呼びかけるが、
「ダ~ぁメ! 楽乗さんはわたしの次です……よッと!」
楽毅はそう言って手首を素早くを上下させ、鞭の様にしならせた手綱で馬の背中に気合いを入れる。
馬はみるみる速度を上げ、翠と楽乗はたまらずぐらつく。
「危険ですので、二人とも中へお入りくださいね~ぇ!」
やたらと上機嫌な楽毅。
もう何を言っても聞かない、と悟った翠と楽乗は戦々恐々と馬車の中へと引っこんでゆくのだった。
夕刻──
楽毅達一行は本日の目的地である柏人に到着。そこの宿へと入った。
「お姉様、ただ今戻りました」
楽乗が翠と共に、楽毅の待つ部屋へと戻る。
「ご苦労様です。いかがでしたか?」
二人を出迎えた楽毅は窓際の寝台に腰かける。
「はい。邑の人の話によれば、趙軍は東垣を囲んだまま特に目立った動きは無いそうです」
「おかしいですね。これまでの趙軍の勢いなら、東垣を抜いてすでに霊寿に迫っていてもおかしくないと思ったのですが……」
楽乗の報告を聞いた楽毅が、渋い顔で首をかしげる。
「中山軍の抵抗を受けて力押しを控えたのでしょうか?」
「いいえ。どうやら趙軍と中山軍は東垣でまだ一戦も交えていないようです」
楽毅の問いに今度は翠が答える。
「という事は……中山軍の意識を東垣に引きつけたまま、趙軍の別動隊が他の場所へ廻っている可能性が高いですね」
楽毅は自身の紅い髪を盛んにいじりながら、真剣な顔つきで熟考する。小窓から射しこむ茜色の西日もあいまって、その髪は燃え上がるような深みを帯びていた。
「多方面から同時に攻めこむつもりなのでしょうか?」
「そう考えた方が賢明かもしれません」
楽毅の答えを受け、楽乗は頭の中に絶望的な光景を思い浮かべ、憂苦に顔を歪めた。
「まあ、今わたし達があれこれ考えたところで事態は好転しません」
楽毅は慰めるように笑って言う。そして立ち上がり、
「それより、みんな一緒にお風呂に入りましょう。昨日入れなかった分、しっかりキレイにしなくちゃ」
そう言って楽乗と翠の背中を押す。
「お、お姉様とご一緒など、お、恐れ多い事でありまして……」
楽乗が顔を赤らめながら言えば、
「け、結構です。ひとりで入りますから!」
翠もさかんにかぶりを振りながら拒否の意向を明らかにする。
「ダメよ。三人仲良く入るの。ね?」
しかし、楽毅は満面の笑みで二人を押しきる。
「……はい。分かりました」
ついに楽乗と翠は折れ、結局この日は三人そろって入浴したのだった。
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