「それじゃあ、さっそくわたしの家族を紹介したいんだけど──」
その時、邸宅内からひとりの壮年男性が血相を変えて飛び出して来る。
「ちょうど向こうからいらしたようです」
男性のあまりの周章ぶりに、楽毅の口から思わず笑みがもれる。
「お久しぶりでございます、父上。ただいま臨淄より帰還致しました」
しかし、彼が側に来るや否や、すぐに毅然とした姿勢で拝礼を向ける。
楽毅に向けて何か言おうと口を開いたその男性──楽峻は気勢を削がれた形で、うっ、と言葉を呑みこんだ。
「楽乗、これはどういう事だ⁉︎ 私は楽毅を臨淄に留めておくようお前を遣わしたのだぞ?」
代わりにその隣りに立つ楽乗へと、怒色を含んだ言葉が向けられる。
「はっ。その理由はどうかご本人の口からお聞きになってください」
楽乗は顔色ひとつ変えず、胸の前で右拳と左手の平を合わせ、慇懃な口調で返した。
むっ、と顔を顰めた楽峻は仕方なく楽毅の方へ向き直り、
「なぜ帰って来たのだ、楽毅よ?」
怒りを押し殺した低い声で問う。
「娘が実家に帰郷する事にいったい何の問題がありましょうか?」
しれっとした口調で逆に問う。
「現状を弁えろ、と言っておるのだ! この非常時にのこのこと戦地を横切って帰って来るなど、危険だとは思わなかったのか⁉︎」
完全に怒りの色をあらわにする楽峻。約一年半ぶりの親子の対面とはとても思えない光景である。
「危険だから……わたしだけは安全な場所でのうのうと暮らしていろ、と?」
しかし、楽毅は父の顔をまっすぐに見すえ、無感情な言葉をもって静かに返す。
今まで見た事の無い娘のその様相に楽峻は、むぅ、と言ってややたじろいだ。
「ひとりだけ蚊帳の外に置かれて得られた安息に、わたしが満足するとお思いですか? 遠い空の下でただみんなの無事を祈る毎日がどれ程の心痛をもたらすか、父上にはお分かりでしょうか?」
悲しみに顔を伏せ、楽毅はそう訴える。
楽峻は戸惑った。その言葉に感じ入ったのもあるが、以前は素直で物静かだった娘が、こうも堂々と父に反抗して意見を述べている姿を、まるで別人のように感じてしまうのだった。
「未熟者ではありますが、わたしは臨淄で兵法を学び、それを活かす為に戻って参りました!」
楽毅は真剣な面持ちで顔を上げると、楽乗と同じ様に胸の前で右拳を納めてそう言明した。
楽峻はしばらく無言のままじっと考えこんでいたが、
「……楽毅よ。どうやらお前は兵法だけではなく、硬骨さまで身につけたようだな」
やがて諦めとも取れるため息をつくと、すまなかった、と頭を下げ、
「前言を撤回する。よく帰って来てくれた」
そう言って自嘲気味に笑った。
「はい……。ただいま、父上」
楽毅は涙ぐみ、ようやく父親らしい感情を示した楽峻の胸に飛びこみ顔をうずめる。
彼女がこれまで抱いていた父へのわだかまりは、この時すっかり霧散していた。
「美しくなったな。母にますます似てきた」
楽峻は、そう言って胸の前にある夕陽の如く紅々と燃え上がる楽毅の髪を優しくなでる。
楽毅はその言葉を、少し照れ臭そうに受け止めた。それと同時に、父の口から数年ぶりに母の事が語られたという事実を、何よりもうれしく感じた。
その光景に楽乗も、グスンと鼻を鳴らして涙ぐむ。
はじめは楽峻を冷徹と見ていた翠も、その光景に安心したようにホッと胸を撫で下ろす。
「父上にぜひご紹介したいコがおります」
涙を手で拭った楽毅は翠の隣りに立ち、
「商人の翠です。彼女の援助のおかげで、わたし達はこうして無事に戻る事が出来ました」
楽峻に紹介する。
「商人? すると、この大量の荷物は……?」
「はい。翠の所属する楊商会から購入しました、弩と楚鉄です」
楽峻は門閾に積み上げられた木箱の山の見て感嘆を漏らした後、
「楽峻と申します。このたびはウチの娘達が世話になったそうで。感謝致します、翠どの」
楽峻が翠の手を握り、礼を述べる。
「い、いいえ。私共はただ荷物を運んだだけで、大した事はしておりません」
翠は突然の握手に戸惑いながらも、その温もりを心地良く感じた。
「それで、父上に二つばかりお願いがございます」
「何だ?」
楽毅の言葉に、楽峻は向き直る。
「まず、人夫の方々の今晩の宿を手配していただきたいのです」
「ふむ。ちと多いようだが、このような非常時に客はいないだろうから街中の宿に声をかければ何とかなるだろう」
任せておけ、と言って楽峻は自分の胸を力強く叩いてみせた。
「ありがとうございます」
「それで、もうひとつの願いとは何だ?」
「はい。翠を当分の間ウチでお預かりしたいのですが」
「翠どのを?」
驚きの色が翠に向けられる。
「私の心願でございます。突然の申し出で大変恐縮ですが、どうかこちらに置いてはいただけないでしょうか?」
深々と頭を下げて懇願する翠。
楽峻はさらに困惑した面持ちで、顎ひげを擦る。考えこんでいる時の彼の癖である。
「……これからここは戦火に巻きこまれるかもしれぬ。それでも良いのか?」
「はい。私も共に戦う所存です」
翠は真剣なまなざしを向けてそう答えた。
その瞳に並々ならぬ覚悟を感じ取った楽峻は大きくうなずき、
「分かった。喜んでお迎えしよう」
了承を下すのだった。
「ありがとう、父上。よかったね。これから一緒よ、翠」
楽毅が喜びをあらわに翠の手を握る。
「はい。よろしくお願いします、楽毅姉さん」
翠は細い目をさらに細め、控えめに笑うのだった。
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