「……今、何とおっしゃられました?」
異様なまでの静寂と、全身にまとわりつく重苦しい空気を切り裂くように、青年はゆっくりと声を発する。
絞り出すように排出されたその声は普段以上に低く凝り、まるで自分のものでは無いと彼自身が感じてしまうのだった。
「……趙何を次期趙王とする。よって趙章。そなたは太子ではなく公子となる」
目の前に座す虎皮の衣をまとった男から向けられたその冷酷な言葉は、先ほど聞いたものと一言一句の違いも無かった。
太子とは次期国王を確約されたいわば序列競争における勝者の座であり、彼には輝かしき未来が待っているはずであった。そうであると、彼自身微塵も疑うことは無かった。
しかし、虎皮の衣をまとった男──実父である武霊王から向けられたその宣告は、そんな約束された栄光を粉々に打ち砕く無慈悲なものであった。
そもそも、古来よりこの中華大陸では王位は長子が継承するのが当然の習わしである。その任に耐えられないよほどの事情でもない限り、たとえ王といえどもそれを覆すことは難しいのだ。
さて、この趙章という青年が次期国王としての資質を備えているかと問われれば、たしかに彼は粗野粗暴で思慮に欠けるなど欠点が多々あることは否めない。
しかし、そのような例を挙げればこれまでの歴史上だけでも枚挙に暇は無く、それを家臣一堂が支えて運営し、次世代へと繋いでゆくのが国家というものである。
それにも関わらず──
この青年は一方的に廃嫡を突きつけられたのである。
それは万死にも勝る屈辱であり、耐えがたい疼痛であった。
「中山国を滅したことにより、その先にある領国──代への往来が容易となった。そなたにはそこを統べてほしい」
叩頭したままわなわなと体を震わせる趙章に、武霊王はさらなる言葉を浴びせかける。
代の地は趙の国都・邯鄲より北東にあり、小国・燕や北方異民族領に接した僻地である。
たしかに広大な地ではあるが、強国に接した最前線に比べれば遥かに重要度は低く、そこに送られるということ自体が期待の低さを表していると、きっと誰もが感じるであろう。
父上は──
さまざまな感情が胸の中で綯い交ぜとなったまま、趙章は悲鳴にも近いかすれた声を絞り出した。
「父上は私を無能とお見捨てになられるのですか? 先の戦で醜態をさらした私は、もう必要無いとおっしゃられるのですか?」
「……」
武霊王は小動物のように打ち震える我が子を見下ろしながら、その問いに対しては黙秘を貫いていた。
一方的な廃嫡を行えばこうなることくらい、武霊王は当然承知していた。承知の上でなお、姚妃のために──明日をも知れぬ重病をかかえた愛する女性のためにと決行したのだ。
彼自身、趙章の至らなさには頭を悩ませていたが、それでも決して憎んでいる訳ではなく、むしろその至らなさを愛してさえいた。
それでも武霊王は残酷な決断を下した。
せめてもの罪滅ぼしとして、後に代を七雄と肩を並べる国家として独立させ、その王に据えよう、と先を考えて。
しかし、今はあえてそのことは伏せていた。この屈辱を糧に、覇者としての自覚を芽生えさせるために。
そのために、恨み辛み憎しみのすべてを自らが請け負うのだ。
「正式な辞令は後ほど下す。もう下がってよい」
突き離すようにそう述べると武霊王は玉座から立ち、ひれ伏したままの趙章の脇を無言で通り過ぎてゆく。
たったひとりその場に取り残された趙章は、気が狂ったように額を何度も床に打ちつけた。皮膚が裂け、血が飛び散ろうとも、何度も何度も。
「うおォォォォォォォォォォッッッ‼︎」
怒りが収まらない青年──趙章は、自室に戻るなり胸に沸々と渦巻く感情を爆発させ、野獣の如く咆哮を上げながら手にしていた杯を力の限り床に叩きつける。
ガシャン、という甲高い音がそれに追随して室内に響き渡ると、側にいた女中たちはひぃ、と声を上げて奥へと引っこんでゆく。
コロコロ、と杯は中に注がれていた酒を撒き散らしながら転がり、ひとりの男の足元に当たってピタリと静止する。
その際、最後に残っていた酒がその男の靴にかかり、奇形の染みとなる。
蛙の如くギョロリと大きく剥いた目でその光景を見下ろしていた男は、声を荒げる青年の方へゆっくりと視線を向ける。
「私が廃嫡されてあの貧弱なヤツが王になるだとッ⁉︎ 父上は一体何をお考えなのだッッッ‼︎」
趙章はそう言って何度も卓に拳を叩きつける。やがて指の関節付近に血が滲み出し、卓を赤く染め上げてゆく。
「……落ち着いてください、若殿」
蛙のような大きな目を持った男──田不礼があくまで冷静な口調で諫める。
「これが落ち着いてなどいられるか⁉︎ 廃嫡だぞ? 代へ送られるのだぞ?」
当然、血の気の多い趙章の怒りがそれで収まるはずもなく、異様なまでに血走った目で田不礼を睨めつける。
「最近、宰相の肥義どのをはじめとする重臣たちの間で、何やら密約のようなものが交わされているのを耳にしておりました。おそらく、此度の辞令に向けた根回しだったのでしょう」
それでも世話係である田不礼は、淡々とした口調で語る。
「何だと⁉︎ すでに決定事項だったというのかッ?」
「ええ。こうなってしまったら、決定を覆すのはもはや困難かと……」
「くそっ、何てことだ……」
怒りを通り過ぎて、呆然と膝を落とす趙章。
「……なのですよ」
がくりと項垂れる青年を見下ろしながら、田不礼がポツリと漏らす。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も。それよりも代への赴任ですが、これは逆に挽回に向けた好機であると考えられますぞ」
趙章の問いを掻き消すように、田不礼は含みのある言葉を向ける。
「この屈辱的な左遷が好機だと? 一体どういうことだ?」
怪訝そうに首をかしげる趙章。
田不礼はその特徴的な大きな眼をギョロリと動かし、周囲に誰もいないことを確認してから、
「それではお耳を拝借」
趙章の側に歩み寄り、その耳元にそっと囁く。
「何だとッ⁉︎」
話を聞き終えると、趙章は驚いた様子で大きく目を剥き、
「……なるほど、それはたしかに面白い考えだ」
すぐに引きつったような笑みを浮かべた。
「母親が気に入られたというだけでちやほやされている趙何……。ヤツに一泡吹かせてやれるのならば、此度の辞令も甘んじて受けてやろう」
武霊王の思いも虚しく、歪んだ復讐心を義弟へと向ける趙章は、自らが思い描く復讐劇を想像しながら哄笑する。
「……もう潮時なのですよ、趙章様」
そんな青年に冷めた視線を向けながら、田不礼は再びポツリと漏らす。
しかし、その言葉は異様なまでの高揚に身を震わせる趙章の耳に届くことは無かった。
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