数十年前に燕で生じた内乱──
それに乗じて侵攻してきた斉軍によって燕王は討たれ、太子も行方不明となった。燕の大半を制圧したものの、これを維持するのは困難と考えた斉はその対処に苦慮した。
そこに武霊王が、韓に遊学していた燕の公子を招いて彼を玉座に据える事を提案。斉はこれを受け入れて燕から兵を引いたのだ。
結局、それよりも先に行方不明であった燕の太子が国都に帰還して王を名乗った為に武霊王の提案は白紙となってしまったが、彼は燕と斉の両国に恩を売る事には成功したのだった。
「父上。武霊王の巧妙な外交術によって中山国が孤立無援となるのも時間の問題です。それを避ける為に、斉との交誼を早急に回復させるべきではありませんか?」
鋭い眼差しで楽毅はそう促す。
「それが難しい事くらい、お前にも分かっているだろうに……」
楽峻は憂鬱の色をあらわに嘆息した。
「王号の一件から我が君は斉を嫌っている。憎んでいると言っても過言ではない。そして私とて、王号を称する事に反対した一員だ。我が君やその周囲に侍る側近達から冷眼を向けられておる。聞く耳など持たぬだろう」
その言葉から苦渋がありありと感じられた。
それでも、と楽毅は居住まいを正し、
「斉に使者を遣わすべきです。たとえ斉王から助力を得られずとも、孟嘗君に縋れば彼女はきっと義をもって立ち上がり、三千の食客を率いて助けに来てくれるでしょう」
熱意をこめて訴えた。
「孟嘗君といえど、わずか三千で中山国が救援えるとは思えぬが」
そう言う楽峻の言葉は、どこか冷めていた。
「父上。孟嘗君は天下の頂点偶像です。彼女が動けば万民がその動向に注視し、彼女が働きかければ万民を動かす事も可能なのです」
それでも楽毅は滔々と語り続けた。
「万民を動かすとは、また大風呂敷を広げたものだな、楽毅よ」
その様な事が出来るはずがない、と言わんばかりの口ぶりで楽峻は笑う。
「……わたしは実際に孟嘗君にお逢いしました。その人格を肌で感じました。だからこそ分かるのです。あの方は弱者の懇請を決して無下には致しません」
楽毅はここに至ってようやく孟嘗君──齋和との邂逅の事実を口にする。
「何だと⁉︎ お前は本当にあの孟嘗君と逢ったのか?」
ピタリと笑いを止めた楽峻は、思わず前のめりになる。
はい、と楽毅は事も無げに答えた。
信じられない、といった顔で呆然とする楽峻。
「臨淄を発つ前に、私もご一緒に拝謁したので間違いありません」
楽乗が補足をかねて報告する。
「それに、孟嘗君は父上の事を謹厳実直と褒めておいででした」
「な、なにィ? なぜ孟嘗君が何の面識も無いはずの私の事を知っているのだ?」
驚きが畳みかけるように押し寄せ、楽峻は混乱した自身の心を整理しきれずにいた。
「孟嘗君の食客は中華大陸全土に及び、彼らが孟嘗君の目となり耳となっております。だから、この会話もきっと……」
「な、何だと⁉︎」
含みをこめた楽毅の笑みに、楽峻は思わず周囲を見回した。もちろん、楽毅達以外には誰の姿も見当たらなければ気配すら感じない。
「それは冗談です。しかし、実際に孟嘗君の情報網は正に千里眼ともいうべき早さと廣さを誇っているのは確かです」
楽毅は涼やかな声で言った。
楽峻はひとつ大きなため息を吐き出すと、
「分かった。明日、我が君に献言してみよう。そのついでに、お前の役職も賜るつもりだ」
その決意を伝える。
ありがとうございます、と楽毅は深々と頭を下げた。
可能性は極めて低いと理解しながらも、万が一その献策が受理された時は自分がその使者となって孟嘗君と対面しよう、と楽毅は淡い期待に胸をふくらませる。
一方で、本当に孟嘗君の食客が見聞きしている可能性を感じて深淵を彩る闇に目を向けた楽毅は、
──孟嘗君の食客が黒ずくめなのは、実は闇と同化する為なのでは?
ふとそんな風に考えてしまうのだった。
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